甘木夫人の恋


 知人から聞いた話である。

 千ヶ滝の別荘地を、森の奥へ奥へと入っていくと、急に視界が開け、一軒の古ぼけた別荘が建っていた。

 軽井沢に限らず、別荘の建屋であれば、ふつう唐松や水楢、白樺などの中高木に囲われているものだが、その別荘の庭は、枯芝が広がっているだけの更地だった。

 その更地の上にこぼれた枯れ葉を、渇いた音を立てて、竹箒で掃き清めている老人がいた。

 知人は、その別荘に少し興味を持ったので、何とはなしに老人に近づいていった。カサカサ、という足音で気が付いたのか、老人は顔を上げ、歯の抜けた口をにっと開けて、知人に話しかけてきた。

「こんな奥まで人がやって来るのは珍しいね。どこから来なすった」

 その口調と掃き仕事から、どうも老人は別荘の所有者ではなく、庭師か、管理代行業者だろうと思った。老人は手を止め、知人に、どこから来たのかと改めて訊ねた。知人は、列車を中軽井沢駅で降りて、例によって星野へ行ってみたが、人が多いので辟易して、なるべく人のいないほう、いないほうへと歩いたらここへ行き当たった、と言った。

「そりゃいい」

 老人は笑い、それから庭の一隅を指さした。

「あんなところより、こっちのほうが余程いいよ。よく来たね、ほら」

 そこには、唐松の切り株が二つ並んでいた。そこへ座りなさい、と老人は手で合図した。

 促されるまま腰を下ろすと、老人は、水筒から熱い番茶を湯呑みに注いでくれ、まあ、休んでいきなさいと気さくに言う。

「どうもありがとうございます。あの、この別荘は、どなたかがお住まいで?」

「いいや」

 老人は言った。

「もう四〇年も無人だよ」

「四〇年?」

「ああ、四〇年」

 と言ったあと、老人は自嘲的な笑みを口元に浮かべた。

「四〇年、手入れを欠かさんでいる」

「誰も住んでいないのにですか」

「ああ。ここを死ぬまで手入れをすると決まっているのさ」

「…………」

 所有者は亡くなっているが、ずっと荒らさずにおけよ、とでも言い含められたのだろうか。

 訊けば、この別荘は、ある形成外科医のものだったという。甘木という開業医で、病院と本宅はともに荻窪にあり、本宅も目を見張るほどの豪邸だったそうだ。

「甘木医院と言ってね。ここへは、甘木院長の奥さまが、専ら来ていたんだよ。甘木夫人は、それはそれは美貌の持ち主だった。もとは士族の家柄でね。凛としていて、教養も高かった」

 老人は、遠い目をして、すっかり冠雪した浅間山を仰ぎ見た。まるで、晩秋の渇いた空に、夫人の姿を探すようだった。

「ところが、不幸なことに、ご主人との仲が悪くてね。東京よりも、軽井沢にいるときのほうがずっと長かった。いなさるときは、二カ月も三カ月もずっといなさる。ご主人の姿は滅多に見なかったが……」

「ふうん。何カ月も、一人で何をして過ごしていたんですか。何か藝術関係のことなど……」

「花だよ」

「花?」

「ああ。たいそう花の好きな奥さまでね。今でこそ、庭はこんながらんどうになっているがね、当時は色とりどりの花に囲まれていたものさ。花畑の中に家があったようなものだ」

「へえ。信じられない。しかし、これだけ庭が広いと壮観だったでしょうね」

「ああ、見事なもんだった。薔薇に、鉄扇に、芍薬、百合に桔梗に竜胆。子どもがいなかったということもあろうが、植物にたんと愛情をおかけなすって、そりゃ見事なものだったよ。本当に、いつ見ても花に溢れた庭だった。誇張でなしに、ここは本当にうつつの世界かと、ぞっとするほどの庭だった」

 知人は膝を打ち、

「わかりました。日照を確保するために、庭に木がないんだ」

「そのとおり」

 老人は頷き、

「もちろん、木がないからオオルリもキビタキも遊びに来ないし、夏になればさすがに陽射しも苦になったが、奥さまはお構いなしに、せっせと花の苗を植えられ、そして愛された。奥さまの、白い、すべすべした指の先には、いつも何かしらの花があった。まるで指の先から花が生まれてくるようじゃった」

「へえ」

 知人は、もう一度庭をぐるりと見渡して、

「そんな話を伺うと、いよいよ見てみたくなりますね」

「ハッハ、四〇年前の話さ。わしゃ、庭師でね。当時、兄弟でここの管理に当たらせてもらっていたのだよ。春から秋まで、奥さまと一緒になって、一日中、庭の手入れに励んだものじゃ。花がら摘みに、雑草むしりに、切り戻しに。それから、奥さまはせっせと種を蒔きなさるから、苗も次々に出来る。その世話に、植え付けに……」

 老人は、それから、

「あの階段をご覧」

 指さしたのは、別荘のアプローチである。

 一五段ほどの階段が、玄関扉へ、真っ直ぐに続いている。これだけ長い階段は別荘の階段としては珍しいが、訊けば、あれも「奥さまの意向」によるという。

「つまり、階段の一段一段に、鉢植えを置きなすったのさ。純白のプランターでね、目に鮮やかだった。奥さまときたら、庭にはもう、たんと花が溢れているというのに、花のない場所を作りたくなかったんだ」

「なるほど。本当に花が好きだったんですね」

 と月並みな相槌を打った知人だが、さほど雪が降るでもない軽井沢に、こんなに長くて急な階段が、それも別荘の建屋にしつらえてあるというのは、やはり奇異に思えた。花の覆いがなくなり、隠されていた異観が露わになっているという気がした。

 老人は番茶をすすり、

「だが、これは世の常というものか……」

「え」

 老人はそこで言葉を切り、

「奥さまは、わしの兄と恋愛なさったのだ。兄は奥さまと年も近かったし、本もよく読んだからね。二人きりで話すにも、話題には事欠かなかった」

「つまり」

 こんな場所にそぐわない言葉だが、知人は勢いで言ってしまった。

「不倫というやつですか」

「まあ、その寸前だな」

 老人は湯呑みをさすりながら、

「それは、ちょうど今くらいの、どこの別荘でも薪に火を焚べるようになった、秋の終わりのことだった。さるイタリアの著名なチェリストが、お忍びで万平ホテルに滞在していたのだが、ささやかな演奏会を追分の公会堂で開くというので、奥さまは、兄とそこへ出掛けようとなさった」

「出掛けるって、ご主人はどうしたんです」

「ご主人なんか、そのときももちろん軽井沢にはいなかった。奥さまはよく、主人には愛人が何人もいるでしょうね、と諦めたように言っていた。まあ、おそらくそれは真実だったろう。だが、軽井沢には、奥さまの素性を知る人もいないし……ほとんど気兼ねもせず、二人は演奏会へ出掛けようとした。無邪気なものさ」

 そう言う老人は、いつしか小刻みに震えていた。彼は、震える右の手を左手で押さえようとし、しかしその左手も震えているために、強ばり、身をすくませるよう姿勢になった。

「…………」

「あの、大丈夫ですか」

「おお、心配いらない。ただ寒いだけだよ」

 と無理に浮かべた笑顔に、少しく哀しみの色が浮かんでいるように見えた。

「……日暮れどきだった。兄が、別荘へ奥さまを迎えに来た。奥さまはちょうど、あの階段の一番上の段に立って、ゼラニウムか何かの花殻を摘んでいるところだった。奥さまは、兄の声を聞くと、わ! と感激の声を上げ、喜び勇んで階段を降りようとした。本当なら、そのまま、奥さまは兄にむしゃぶりついたはずなのだ。だが――」

 老人は、階段を、咎めるような目で見据えた。

「……転げ落ちたのじゃ」

「え」

「自分で置いたプランターに脚をとられて……奥さまは、頭から、階段を転げ落ちた。ごん、ごん、と」

「…………」

「階段下でうずくまり、それからワッと上げた奥さまの顔は、もう奥さまの顔をしていなかった。綿のように白い肌の上に、真っ赤な裂け目ができて……まるでお岩さんのようだったという」

「そんな」

「兄は、その場で腰を抜かした。斃れた奥さまの背後には、平生と変わることなく、とりどりの花が咲いていた。兄は思った。階段の花々が……いや、庭中の花々が、奥さまに嫉妬をしたのだ。花どもは、動物的な独占欲のゆえに、美貌で知られる奥さまにとって死にも等しい罰を与えたのだ」

「…………」

 四〇年前にそんな悲劇が起こったとは信じられないほど、階段には、穏やかな、午後の陽が射しこんでいた。階段を、かさかさと枯葉が転がり、それで少し風が出てきたことがわかる。

 老人は番茶をすすり、ぴちゃぴちゃ、と渇いた唇を湿したあと、はあ、と深い溜め息をついた。それは哀惜や落胆の溜め息というよりは、何事もなく悲劇を語り終えたことの、安堵の溜め息のように思えた。

「それで……」

 知人は、充分な沈黙のあと、この場合訊かずにはいられない問いを口にした。

「奥さまは……いや、二人はどうなったんです」

「死んだ」

「は」

「事故の後、奥さまはミイラのように顔を包帯でぐるぐる巻いて……、そのまま、ハイヤーで荻窪の甘木医院へ帰った。わしらは止めたが、奥さまは頑として譲らなかった」

「しかし……」

「ハイヤーに乗れば、奥さまの容貌を見て震撼するのは運転手一人だけで済む。その晩遅く、奥さまは荻窪の本宅へ到着し、居間で寛いでいたご主人に、その壊れた顔面を見せた。ご主人はきゃっと叫び、その場にくずおれた。まるで死霊を見たような反応だったそうだよ。しかし……それから、彼は急に冷淡な顔つきになった。その目は、もはや人間を見やる目ではなかった」

「……どういうことです」

「彼にとって、この出来事は、人前に飾ることで所有欲を満足させていた壮麗な絵皿が、不慮の事故で割れてしまったようなものだった。絵皿は、割れてしまえば、もう価値はない。もともと婚姻関係も破綻していたから、甘木院長は、一も二もなく奥さまを追い出した。不義が露見したのは、もっとずっと後のことだ。だから、この日の離縁は、道徳上のものではない。ひとえに、壊れ物のがらくたを家から廃棄したと同じことなのだ」

「…………」

「では、奥さまはどこへ行けばいいと思う」

「……軽井沢ですか」

「そうだ。奥さまは、翌朝には、また軽井沢へハイヤーで戻って来られた。しかし、縁切りをされたのだから、甘木の別荘には入れない。そこで、茂沢にあるわしらの小屋へやって来た。すぐに暖をとり、食事を差し上げ、東京での出来事を聞いたりしたのだが……わしが目を離した間に、兄とどこかへ消えてしまったのだ」

 そうまで言った老人は、ふと顔を上げた。

 それから、無言で別荘の窓を指さした。

 知人は悲鳴を上げた。

 別荘の窓から、顔を包帯でぐるぐる巻きにした女性と、若い男が、こちらを見ていたのだ。

 二人は、肩を揺らして……

 くすくすと笑っているのであった。

「奥さまと兄は、この別荘で心中したのさ。わしは甘木院長から、この別荘には、今後花びら一つ咲かせるなと命じられた。わしが死ぬまでだ。歳月が流れても別荘を放棄することなく、その勤めを死ぬまで守らせることが、院長なりの、不義への復讐なのだろう。だが、院長には見えぬのだ。あれほど大輪の花が、四〇年の昔から咲き続けているというのに」






 了

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