給湯室の怪


 出社して、最初にすることといえば、薬缶にお湯を沸かすことである。

 そして、コーヒーを淹れる。

 朝一番にコーヒーを飲むと、目が覚めるし、やる気が出るものだ。

 ところが、最近の若い人たちは、あまりコーヒーやお茶を飲まない。したがって、お湯を沸かすこともない。

 みんな、麦茶だの、紅茶だの、色つきのジュースだのをペットボトルで買ってきて、デスクに置いているのだ。

 これが、世代の違いというものか? 

 昔は、みんな、一日に何杯もコーヒーだの緑茶だのを飲んでいたものだが……。

 わざわざお湯を沸かしてコーヒーを飲むなんて、まずフロアでわたしだけなのだ。

 さて。

 その日、いつものように出社してみると、もうガスコンロの上に薬缶があった。

 注ぎ口から、もくもくと、白い湯気が立っている。

 お湯が湧いているのだ。

 わたしのほかには、まだ二、三人の社員しか出社していない。ふだんはお湯なんて使わない人びとである。

 今日は違うのだろうか?

 そのとき、そのうちの一人が、給湯室に入ってきた。

「課長、おはようございます」

「やあ、おはよう」

 わたしは薬缶を指さして、

「君が沸かしたの?」

「え」

「そこのお湯だよ」

 しかし、彼はかぶりを振った。

「いえ、違います」

「そうか。だれかが沸かしていたのか?」

「いやあ、たぶん、だれも沸かしてないんじゃないですか」

 そんなばかな話はない。

 だが、気になったので、デスクにいた、残りの人たちにも訊いてみた。

 いいえ知りません、と彼らは言うのだった。

 それでは、勝手にお湯が沸いたのか?

 ばかな。

 そんなこと、あるわけがない。

 ――待て。

 なにかの誤作動で、勝手にコンロが点火してしまったら、薬缶の水がひとりでに湧いてしまうことも、ありうるのではないか?

 かなり危なっかしいことだが……

 理屈としては、ありえなくはないのである。

 わたしは、よくわからないまま、とりあえず、そのお湯でコーヒーを淹れた。

 なんだか気味が悪いから、残ったお湯は、ぜんぶ流しに捨ててしまった。

 そのとき、ふと気がついた。

 ガスの元栓は、ちゃんと締まっているのである。



 午前一○時。

 わが社の慣例で、ここから一五分ほど、一服の時間となる。

 わたしは、また給湯室にやってきた。

 あれ。

 あれは。

 コンロの上に、薬缶があって……

 お湯が沸いている。

 それも、またもや湯気がもくもく立っている。いかにも、たったいま湧きましたというようすなのである。

「あ、課長、おつかれさまです」

 ちょうどやってきた女性社員に、わたしは訊いた。

「これ、だれか沸かしたのかな?」

「さあ」

 女性社員は首を傾げた。

「課長じゃないんですか?」

「わたしではない」

「それなら、だれかしら」

 彼女は続けた。

「昔に比べて、フロアの人たち、あんまりコーヒーやお茶を飲まなくなりましたものね。沸かすのがおっくうなのかしら……まあ、そういうあたしも、健康に気をつかって、もうずっとこれなんです」

 そう言って、冷蔵庫から取り出したのが、いわゆる特定保健用食品というやつで……健康効果をうたっている、緑茶なのである。

「いやですねえ、年とると、こんなのばっかりですわ」

 彼女は笑った。

「それを考えると、課長は若いころから健康ですわねえ」

 おべっかを言って、出ていった。

 わたしは、腑に落ちないながらも、薬缶のお湯でコーヒーを淹れた。

 残りは流しに捨ててしまった。



 翌朝も、お湯は沸いていた。

 その次の朝も、湧いていた。

 戸棚にしまってあるはずの薬缶が、毎朝コンロの上にあること自体が変なのに、なおかつ、いつも湧きたての状態でわたしを迎えるのである。

 わたしは、真相を確かめたくなった。

 次の日。

 早起きをして、フロアに一番のりしたのだ。

 一番なので、フロアの開錠もわたしがやった。つまり、今日は、まだこのフロアにはだれも入っていないはずなのだ。

 だが……

 わたしは仰天した。

 ガスコンロの上には、薬缶があって……もくもくと、湯気を立てていたのである。

 すぐに総務部に連絡した。

 どうも、ガスコンロの火が、勝手に点いてしまうようです。

 そう伝えた。

 そう伝えるしかないではないか。

 すぐに業者が来て、ガス周りをいろいろと検分したが……

 異常はなかった。

 何も異常はないのである。

 故障の心配はないですよと、業者は太鼓判を押したのである。



 それから。

 どう抗おうと、毎朝、出社してみると、コンロの上には薬缶があった。

 いつも、沸騰したての、あつあつのお湯なのである。

 一度、反発して、用意された薬缶を無視してみた。

 自分のデスクで、買ってきた缶コーヒーを飲んでいたのである。

 すると――

 薬缶は、ピューピュー、ピイピイと金切り声をあげ……

 つまり、火が勝手に点いて、再沸騰し……

 デスクのわたしを、必死に呼びたてるのであった。

 お湯を捨てることは、決してゆるされない。

 使わずに捨てても、いつの間にか、また用意されていて、ピイピイ、ピャアピャア、使うまで泣きわめくからである。

 白湯で飲むのもだめなのだ。

 白湯にしても、同様に、お湯は駄々をこねるのである。

 コーヒーを淹れないと、気がすまないらしい。

 おかげで――

 わたしは、すっかり参ってしまった。

 飲みたくもないコーヒーを、がぶがぶがぶがぶ、ときには戻しそうになりながら、水っ腹になるのを我慢しながら――無理やりに飲んでいるのである。

 カフェインのせいで、最近は寝不足だ。

 疲れもたまる一方で……

 ほとほと、いやになってしまった。

 わたしは最近、早期退職すら考えている。




 

 

 

 


 

 

 

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