不正乗車
田舎の、エヌ駅である。
ぼくは今から、エヌ駅前の停車場を発車するバスに乗り、家に帰るところだ。駅の近くに、ぼくが通っている空手の道場がある。稽古の帰りなのだ。
しかし、である。
腹が減った。
さっきから、腹がぐうぐう鳴るのである。
バスは、まだしばらくこない。
待ち時間も含めると、まだかなりの時間、空腹に耐えねばならないのだ。
こんなさびれた無人駅に、コンビニなどはない。
あるのは、田んぼとまばらな住宅だけ。
隣のワイ駅のそばには、うどん屋があるが……。
うどんか。
食べたいな。
そう思うと、もうどうにかして、うどんにありつきたくなった。
隣のワイ駅へ行っても、ぼくの家と、方角は変わらない。
それは、バスを使ったほうがストレートに帰宅できるが……
ワイ駅から歩いて帰ることだって、遠回りにはなるが、やろうとおもえばできるのだ。
カンカン、カンカン。
踏切の遮断機がおりてきた。
遠くに、列車が見えてきた。
あの方角は……
しめた。ワイ駅へ向かう列車なのだ。
乗るか?
バスはまだまだ来ないし……
よし。
ぼくは、切符を買うため、急いで券売機へ向かった。
だが。
財布の中身が、はなはだお寒いことを思いだした。
そうだ。この前、月のこづかいのほとんどを、マンガ本につかってしまったのだ。切符を買って、それからうどんを食いにいけるだけ、持っていただろうか。
——待て。
ここも無人駅だ。次のワイ駅も無人駅だ。つまり、切符の検分はないのだ。
いや、しかしそれは……
ぐずぐずするうちに、列車が入線してきた。
だめだ。
うどんが食いたい。
しかし、切符を買わないのは不正だ。
だがどうしても食いたい。
でも、不正乗車になる。
だけど、食いたいなァ。
そろそろ、列車が発車してしまいそうだ。
ぼくは切符を買うのをやめ、列車の中へ、スルリとすべりこんだ。
とうとうやった。やってしまったのだ。
車掌がきたら、トイレに隠れてやりすごそう。
もうこうなったら、不正乗車をやりとげるほかない。気がひけるが、もう遅いのだ。
「次は、ワイ駅。ワイ駅。ドアが閉まります。お気をつけください」
アナウンスが入り——
と。
ピュロリロリロ、ピュリリロリ、ピュロロピピピロ。
——なにか、リコーダーをめちゃめちゃに吹いたような、おかしなメロディが流れだしたのだ。いや、メロディといえるのか? なんとも奇怪な、耳ざわりな音色なのである。
それがやむと。
ガチャ。
ドアのロックがかかり、列車が動きはじめた。
……いまのはなんだったのだ?
……スピーカーの故障か?
なにもわからなかったが、いまは、車掌から逃げるほうが重要である。
ぼくは車掌がこないか、それだけに注意をはらうよう努めた。
じきに、列車はワイ駅に着いた。
逃げ切れる。
ぼくは、平静を装って、しかし内心ではハラハラしつつ、車両を出た。
そのとき。
ブァー、ブァ!
列車の警笛が鳴らされた。
だが、これも変だった。
いまのは、金管楽器の音色ではあるまいか?
チューバとか、トランペットのような……
あんな列車の警笛は、聴いたことがない。
けれども。
じきに列車は、次の駅へと走りだした。
ともあれ、不正乗車は成功したのだ。
ぼくは、ようやく安堵の息をついた。
気がつけば、ワイ駅のホームには、ぼくしかいなかった。おまけに無人駅なのだから、とがめだてをするようなものは、ここにはなにもないのだ。
さあ。
駅を出て、県道を少し行けば、うどん屋があるぞ。
ぼくは勇んで歩きだそうとした。
——だが。
ぼくは息をのんだ。
ホームの、ぼくから二〇メートルほど離れた場所に……
いる。
あれは——
騎馬武者である。黒い馬に乗った、鎧武者なのだ。
そいつが、馬上から、こちらを睨みつけているのである。
あれはなんだ?
変質者か?
それとも……?
……そのとき。
鎧武者は、チャッと刀を抜いて、どなり散らした。
「たわけ者! 卑怯千万な、こわっぱめ! わしが叩っ斬ってくれる!」
鎧武者に応えるように、馬はいななき、前脚を高く上げた。
駆けだすのだ。
「うわァ!」
ぼくは悲鳴をあげた。
「来るな、来るなァ!」
夢中で走りだした。
ホームを駆け抜け、小さな待合室のドアを蹴破って、構外にでた。
だが、振り向くと、騎馬武者も追ってきているのだ。
「しれ者め! 待てい! 待たぬか!」
刀を振り上げて、すぐ後ろまで迫っている。
「その首、はねとばしてくれる!」
逃げろ。
「覚悟せよ!」
殺される。
「さあさあ、もう手が届くぞィ!」
誰か!
——と。
ぼくは、なにかにぶつかり、その場にひっくり返ってしまった。
「おいおい、危ないな!」
見上げると、男の人である。
制服に、制帽をかぶり……。
鉄道会社の社員のようなのだ。
「ははァ」
男の人は、ようやく起き上がったぼくの顔をのぞきこんだ。
「はては君、切符を買わなかったな?」
そう言って笑った。
「となると、これも実験成功というわけだ。君、隣のエヌ駅で、おかしな発車チャイムを聴かなかったか? あれは催眠音楽でね。この駅に着いたとき、チューバが鳴ったろう? あれがトリガーになっていて、不正乗車の罪悪感をもっている人には、おのおの、おそろしい幻覚が発現するのだ」
男は続けた。
「ぼくは、今朝から、この駅で幻覚におそわれる人を見ては喜んでいるが……しかし、中には、なんともない人もいるんだ。ああいう人たちは、切符をちゃんと買ってくれているのかな。それとも、不正乗車をはたらいても、罪悪感すらもたない人もいるのだろうか。それなら、困るなァ。いくらぼくだって、ない罪悪感をうえつけるなんて、できやしないんだからなァ」
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