妻の買い物
買わなければならないものがたくさんあると、妻は言う。
冬物の衣料に、化粧品、体組成計に、来週のお弁当のおかず、それから靴を修理に出したいの。
和夫は、妻と近所のショッピングモールへ出かけた。用事は、すべてここで済むのである。
彼は、ショッピングモールのフードコートで時間をつぶすことにした。
昔は、妻の長い買い物に付き合ったものだが、もともと物欲のあまりない和夫にとっては退屈な時間だし、妻もそれをよくわかっているので、もはや別々の行動を許されているのである。
和夫は、フードコートの隅のテーブルを確保した。
飲食店が数軒、客席を取り囲んでいる。
そのどれもが、うどんだのカレーだのラーメンだのといった、まともな食事の店舗である。食事だけは、あとで妻ととるべきだろうから、和夫はカレー屋に行って、ラッシーだけ買い求め、席に戻ってきた。
ラッシーは、うまかった。半分以上飲んだところで、和夫は、妻の姿を見かけた。
フードコートの前の通路を、左から右へ進んでいくのだ。
この先には、たしかサービスカウンターがある。そこで靴を修理に出すのだろう。手にトートバッグを提げているが、出がけに、そこへ壊れたフォーマルシューズをしまっていたのを覚えていた。
妻の姿は見えなくなった。
いまごろ、カウンターで修理を依頼しているのだ。
じきに、今度は、もと来た通路を戻っていく妻が見られるだろう。
だが。
予想に反して、さきほどと同じく、左から妻が歩いてきた。
トートバッグは提げていない。
ああ。
通路なんか、すべてつながっているのだ。
サービスカウンターのあとにどこかへ立ち寄って、ぐるりと回って、またさきほどと同じ道を歩いていくだけなのだ。
和夫は、またラッシーを口に含んで――
待て。
なんだ?
さっきから間を置かずに、妻が、また左から歩いてきたのである。
今度はトートバッグを提げている。
どうしたのだ?
さっき、サービスカウンターに預けたのではないのか?
それに、ぐるりと回ったにしては現れるのが早すぎないか?
和夫は、飲みさしのラッシーのグラスを置いた。
通路を見に行った。
通路に出ると、いまの、トートバッグを提げた妻は、もう和夫の前方一〇メートルほどのところを歩いていた。
和夫は、妙な衝動に駆られて、きびすを返した。
そうして振り向いた先に、こちらへ歩いてくる、妻の姿があった。
両手に、大きな買い物袋を抱えて……
「おい!」
近づいてくる妻に話しかけた。
こちらには目もくれない。
前方をきっと見据えている。真剣そのものの顔なのだ。
「おい、ひかり!」
しかし妻は答えず、和夫を置いて、通路の先へと行ってしまった。
和夫は、いま追い抜いていった妻を、すぐに追いかけた。
そのとき、通路と垂直に伸びる別の通路を、また別の妻が歩いているのを見つけた。
その妻は、化粧品店から出てきたところだった。
さきほどの妻が持っていた買い物袋もないし、その前の妻が提げていたトートバッグもない。手ぶらなのだ。そして、例のとおり、真剣そのものの表情で、立ちはだかる和夫には目もくれずに、通路を進んでいったのである。
どういうことだ?
なぜ、こんなに妻がいるのだ?
そのとき。
和夫は、思わず声を上げそうになった。
今度は、エスカレーターを降りてくる妻が見えたのだ。
二階の家電売り場で買ったのだろう、体組成計の商品名が印字された、平たいダンボール箱を小脇に抱えて……。
「おとなしく待ってることもできないの?」
フードコートで、和夫の妻は声を荒げた。
「ここで待ってるんじゃなかったの? なるべく待たせないように、急いで買い物を済ませてきたというのに……。あたしのほうが待たされたじゃないの!」
和夫は、弁解の余地もなかった。
きみがたくさんいたんだとは、無論いえなかった。
ラッシーは、店側に飲み終わったものと判断されたのか、すでに撤去されていた。
了
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