吠える男
――いま駅。
すぐに返信がきた。
――了解。
――なにか買って帰る?
――大丈夫。
――わかりました。
――気をつけてね。
――はいよー
にこにこマークの絵文字を送信して、雄一郎は、スマートフォンを背広のポケットにしまった。自宅マンションの、最寄り駅である。
気分は晴れやかだった。解放された気分なのだ。
今晩、雄一郎の勤務先で、部の送別会があった。その幹事を任されていたのだ。
主賓は、元の、部長職である。本社から取締役が参会したせいもあり、いつも以上に気をつかった。
だが、終わったのだ。
つつがなく閉会したのだ。
二次会の場所もセッティングし、失礼のない時間まで、雄一郎も一座に残って場を盛り上げ、愚痴を聞き――。そして、帰ってきたのである。
ぜんぜん酔っていない。帰ったら、ビールから飲み直そう。
雄一郎は、浮き足立った歩調で、テクテクと帰路をたどる。
上首尾だったのは、事前の段取りのたまものである。
先輩社員から、あれができていない、これができていないなどとダメ出しをうけ、いつも不機嫌になって帰ってくる彼は――
今回は、まず、だれがどんな酒を飲むか、量はどのくらい飲めるかなど、事前に、入念にシミュレートしておいた。
かつ、想定されるサービスというサービスを、すべて頭にたたきこんでおいた。
どこかのテーブルのグラスが空けば、すぐに駆けつけてオーダーをまとめ、料理の皿が空けば、すみやかに店員に渡し、スピーチのときには人一倍オーバーリアクションをとり、挙句、よくわかりもしない花笠音頭をめちゃくちゃに踊って、拍手喝采を受けたのであった。
爽快だ。
気分爽快だ。
これで、楽しい、満たされた気分で土日を過ごすことができるぞ。雄一郎は、口元がにやけるのを抑えられない。
さて。
雄一郎は、自宅マンションに到着した。
コツコツコツ、と階段を上っていく。
コツコツコツ。
コツコツコツ。
階段だ。
エレベーターではない。
階段なのだ。
夫婦は六階に住んでいるのに、あまりに気持ちが弾んでいるから、つい階段を使ってしまったのだ。
雄一郎は、はねるように、きざはしを駆け上がっていった。
そのときだった。
ワァーッ!
叫び声が聞こえてきた。
もう一度。
ワァーッ!
男の声だ。吠えるような、叫び声である。
声のした方角は、いま、雄一郎が歩いてきた、駅前通りのほうらしい。雄一郎は、階段の踊り場の手すりから、声のしたほうを眺めてみた。
もしや、なにか事件でも起きたのだろうか?
やがて、視界の左はしから、人影が現れた。
そいつは、左から右へ、移動していくのだ。
雄一郎は、視力がいいほうだ。そいつが、スーツ姿のサラリーマン風の男だということは、すぐにわかった。
多少、くたびれて、でっぷりしているようにも見える。雰囲気からすると、雄一郎より、一回りは年上らしいその男は――
駅前通りを、左から右に歩いていきながら、一○秒に一度くらいの頻度で、ワーッ、アーッ、ダーッと、夜空を見上げ、大口をあけて、吠えまくっているのだ。
酔っ払いか?
雄一郎は考えた。
腕時計を見る。
花金の、午後一一時半。 可能性は高い。
だが。
なにを叫んでいるのだ?
なんで叫んでいるのだ?
不思議なのは、駅前通りを歩いているのはその男だけではないことだ。女性も含めて、まだ、ちらほら歩行者はいるのに、だれも、男を一顧だにしないのだ。
触らぬ神に祟りなしで、見て見ぬふりをしているとしても、ああまで無視を決めこめるものなのだろうか?
ワーッ!
まだ吠えている。
不審に思ったマンションの住人が、ドアを開けて探っているような気配もない。
ダーッ!
声。
ワァーッ!
また声。
だが、声は、次第に遠くなっていく。男は、雄一郎のマンションの前を通りすぎ、もっと先へ向かって歩いていくのだ。
ワァ……。ワァ……。ダ……。
まあ、いいのだ。
雄一郎は、踊り場の手すりから離れた。
きびすを返し、ふたたび、階段に足をかけた。
こんなに気分のいい夜だ。わけのわからない人間について、あれこれ考えるのはよそう。
変なやつなのだ。
放っておけばいい。
あんなやつ、ぼくには関係ない。
眺めていたって、なんにもならないのだ。
――いやしかし。それにしても……
本当に気分がいい。
すがすがしいこと、この上ない。
ふしぎなくらい晴れやかなので――雄一郎は、口笛さえ吹きはじめている。
遠くから、男の叫び声がこだましている。それが、雄一郎のかなでる口笛の音色と、妙に重なり合うのだった。
了
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