退勤の列車


 感染症が大流行しているこんな時代にも、平日の午後七時のダイヤともなれば、列車の中は相変わらず人で溢れている。


 席を確保できた客も、立っている客も、みなマスクをつけている。

 白に黒に、はなやかな柄もの、デニム調のものもあって、このごろはマスクも一つの自己表現になりつつあった。

 一朗は、コンビニエンスストアに売っている、あたりさわりのない白い不織布マスクをつけて、ボックス席で肩身を狭くして発車を待っている。

 ――この列車は、一九時一四分発、普通列車○○行です。発車まで、いましばらくお待ちください。

 アナウンスが終わるや、ガラガラガラと、列車のドアが開いた。

 Tシャツ姿の青年が入ってきた。

 黒いデニムに、白い無地のTシャツ、紺色の、あまり物の入っていなさそうな、だぼだぼのリュックサックを背負っている。

 おや。

 一朗は思った。

 この青年、マスクをつけていないのだ。

 こんな人は、このごろ珍しい。

 いつからか、感染拡大防止のために、列車内ではマスクをつけよとアナウンスも入るし(それもなんべんも)、たしか、駅の改札の前に大きな立て看板があって、車内ではマスク着用のことと大書されているのである。

 しかし、別に言われないでも、今般、マスクなき外出は、かなり勇気の要るものになりつつある。勇気とは二つの意味で……、ひとつは、この得体のしれない感染症に身一つで挑戦するという勇気。もうひとつは、マスクなき者はオテント様の下を歩くべからずという、社会的同調圧力に挑戦する勇気なのである。

「チ」

 誰かの舌打ちが聞こえた。

 ほら来た。

「チ」

 また鳴った。

「ハァー、ア」

 切れ目のあいまいな、長いため息。少しこもって聞こえるのは、やはりマスクの内側から発せられるからだろう。むさい息だ。

「チ」

「チ」

「ハァー、ア」

 始まった。

 始まりましたよ。

 違反者は締め出せ、非社会的な人間はだれだ、わが名は社会秩序であるといわんばかりの圧力が、ぼおっと高まってきたのだ。

 一朗は、気の毒な青年を観察した。

 あの青年、あまりの圧力に、ポコッと頭でも潰されるんじゃないかな。

 だが青年は、いましがた入ってきたドアの近くに、すずしげに佇んでいるのだった。ばつが悪いようなそぶりもない。平然と、いまにも口笛でも吹きそうなようすなのだ。

 ――この列車は、一九時一四分発、普通列車○○行です。まもなく発車いたします。

 ガラガラガラ。

 そのとき、青年の目の前のドアが開いた。

 あわてたようすで、中年女性が入ってきた。

 女性は、花柄のマスクをつけていた。

 黒い丸眼鏡の中のギョロ目が、車内を、監視カメラのようにすばやく見渡す。

 いま来たって、席なんか空いているわけがないのだ。女性は、フン、と鼻を鳴らし、ギョロ目を、望遠レンズから近接レンズに変えたようだ。そして――、ギョロ目を、さらに大きく見開いた。さっきまですぐそばに立っていた青年がマスクをつけていないことに、ようやく気が付いたのだ。

 フン! 

 女性は、また不快そうに鼻を鳴らした。それから、キュッ、という靴音とともに、きびすを返した。車両を変えようとしたのだ。

 だが、そのとき、

 ピーッ、ピ! 

 警笛が鳴った。ドアは、ガシッと音を立ててロックされた。

 あきらめたのか、女性は再びきびすを返した。返した先には青年が立っているわけだが、せめてそこから遠ざかろうと、足を一歩前に踏み出した。

 悪いことに、そのとき、ちょうど列車が発進した。

 列車の揺れに、中年女性はよろけてしまい、持っていた手提げ袋を床に落としてしまった。夏みかんや、たまねぎなどが、ころころと床に転がった。

「アーッ、もう!」

 かがみこみ、それらを拾おうとするも、列車の揺れでままならない。

「なんだかなあ、なんだかなあ」

 ブツブツ言いながらも、ようやく夏みかんは回収できた。だが、たまねぎは、乗客の足と足の間にあったりなどして、回収に手間取っている。

「エエイ、いらいらすんなァ!」

 女性の剣幕に、たまねぎ拾いを手伝う乗客もない。

 そう書くと、いかにも冷たい人々と思われるかもしれないが、このときの女性の剣幕といったら、ちょっと異様なのであった。エエイ! などと叫んでいる時点でわかるだろうが――ちょっと、関わるのに気が引ける人だったのだ。

 ようやく回収が済むと、女性は、前の青年をギョロ目でギョロッと見据えた。

 一朗は、くるぞ、と思わず息をのんだ。

「あんたさあ、降りてくれない? ねえ、降りてくれない?」

 女性はまくしたてるのだった。

「日本語わかる? ねえ日本語。日本人じゃないの? だからマスクしないの?」

 すっかり頭に血が上っているようだ。

 そのようすに、一朗も含め、乗客はみな緊張の度合いを増していた。端的にいって、みな、お尻の穴が引き締まるような心持ちだった。

「あんた日本人じゃないんじゃない? 日本人じゃないからわかんないんだよ」

 まだ言っている。

 もはや意味不明である。

 というより――これでは、いかにも外国人はマスクをしない人々だ、と言わんばかりなのだ。まったく論旨のないことで、妄言として取り扱うべきなのだが、聞いているほうは、はなはだ不快である。

 青年は、しかし相変わらず、女性のほうを向きながらも飄々としたようすだ。

「しゃべれないのかって聞いてんだよ!」

「チ」

 どこかで舌打ちがした。

「チ」

 また舌打ち。

「ハァーア」

 どこかで長いため息。

 ああ、これは、今度は社会的同調圧力が、女性を圧し潰そうとしている。一朗は思った。あの女性の、頭とはいわないが、しかし夏みかんの一つでも、圧力でペシャッと潰れやしないだろうか。

「マスクつけろってんだよ!」

 とうとう女性が絶叫した。

「ねえなら降りろってんだよ!」

「つけています」

 アナウンサーのように、よく通る声だった。

 乗客たちは、耳をダンボにして、青年の次の言葉を待った。イヤホンで音楽を聴いていたような人々も、みな、再生を停止して、二人を注視しているようだ。

「ぼくはマスクをつけています。マスクなら、ぼくはつけているのです」

「つけて――」

 いまのが助走だったように、女性はまたわめいた。

「つけてねえだろうがよ!」

 すると青年は、背負っていたリュックを床におろした。

 そうして、おもむろに、着ている白いシャツを脱ぎ始めた。

 シャツに手を掛けてから半裸になるまで、ほんの数秒だった。

 ――女性は、ギョッと目を丸くした。

 いや、それが見える乗客も、同じく目を丸くした。もちろんぼくもだ。

 青年は、腹の、ちょうどへその真上あたりに、横二○センチ、縦一五センチ程度の不織布を貼り付けているのだ。

 なになに、なんなのと言わんばかりに、角度によってそれが見えない乗客たちは、身を乗り出して、青年の腹の上の「マスク」を見ようとした。

「チ!」

 舌打ちが、明らかに不織布の下から鳴った。

「ハァーア!」

 長い長いためいきが、低音をきかせて、不織布の下から鳴った。

「ヒイ!」

 女性は、しゃくりあげるような悲鳴をあげた。

 女性は、あわててきびすを返そうとする。しかし走行中だ。ドアは閉まっている。

 青年は、片手で、自分の腹の上の不織布をベリベリッと剥がした。ゴム紐はない。シールのように、腹の上に貼り付けてあったらしいのだ。

 一同は、口にたまっていたツバを、一斉に飲みこんだ。

 不織布の下には、不織布よりほんの少し小さな、青年の「口」があったのだ!

 それが、よだれを唇にぬめりつかせながら、ニヤリとほくそ笑んだのである。

「助けて!」

 女性はそこから逃げ去ろうとしたが、パッと開いた口の中から、青年の細長い舌が、一瞬のうちに繰り出された。あっという間に、その赤黒い舌は、女性の首に巻き付いた。

 そのまま、グイグイと、ヘビのように首を締め上げる。

 グイグイ、ギリギリ。

 ググ。グググ。

 容赦ないのであった。

 一朗も、ほかの乗客も、あまりのことに声もでない。

 女性は白目をむいた。

 顔は鬱血し、ベロリと舌を出し、手足は痙攣した。最後に、バキッと頸椎のへし折れる音がした。それが仕上げなのであった。

 青年の舌は、絶命した女性の首になおも巻き付いたまま、グイッとその死体を宙に持ち上げると、そのまま口の中……、真っ暗な空間の中に、ほうりこんだのである。

 青年の口は、しばらくモグモグと口を動かしていたが――やがて、あの女性がつけていた花柄のマスクを、ベッと床に吐き捨てた。

 花柄のマスクは、にちゃにちゃした粘液にまみれ、悪臭の漂いそうな物体となって床に転がっている。しかし、その粘液がいったいどんな臭いを発するか、マスクをしているせいでだれもわからない。

 なおも硬直している人々を尻目に、青年は、あの涼しい表情を浮かべながら、不織布をもう一度、腹の上に貼り付けた。 

 ハ、

 ハ、

 ハックション!

 裸になって冷えたからか、青年の腹の口は、沈黙の車内で豪快なくしゃみをした。




「つまりこれが、リモートワーク中、君が仕上げたものや言うんやな?」

 編集部長は言った。

「はあ」

「あかんて。こんなん載せられへん。いくら月刊誌の穴埋めページいうたって」

 ぼくは、部長のデスクの前で、直立不動になっている。

「出来が悪いですかねえ」

「ちゃうちゃう」

「人殺しはまずいですやろか」

「ちゃうちゃう」

 編集部長はかぶりを振った。

「人殺しは別にええんや」

「では」

「感染させちゃ、まずい」

 編集部長は、さとすように言った。

「創作といえどもやね、列車内でマスクをつけてない。こりゃまずいで。これじゃ、非社会的な出版社と思われてもしゃあないで。ましてや、うちら公務員相手に商売してるわけやろ。こういう非社会的なことは書いたらあかんやろ」

 編集部長は、なおも言うのだった。

「そんなこともわからんのではなあ。いかんなあ。やっぱり社員は出勤させて、逐一目をくばっておかないと、どんな仕事をしてくるかわかったもんやないなァ」





 

 

 

 


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