第59話 風邪 そして記憶

 小柄な少女がスースーと寝息を立てて眠っている。その側には椅子に座り、ベッドに上半身を預けた黒髪の少女があどけない寝顔をさらしていた。


「う、ううん……?」


 先に目を覚ましたのは、短く整えられた美しい銀髪の髪をぼさぼさにして、「くぁー」と可愛い欠伸を上げた少女の方であった。


 上半身を起こすと、額の上から何かがぽさりと落ちて来る。


「タオル?」


 自分の頭に乗せられていたものだろうかと、イルゼはタオルを拾い上げる。


 まだズキズキと頭が痛む。


――全身が重い。力もあまり入らない。


 それになんだか無性に喉が渇いてきた。


 とにかく何か冷たい物が飲みたいと、イルゼはぼんやりとした目でなんとか起きあがろうとするも、身体に力が入らない。


 それでも頑張って起きあがろうと足に力を込める。すると、自分の下半身に重みを感じた。


「あ」


 そこには自分の守るべき対象。そして親友でもあるリリスがスヤスヤと眠りこけていた。


 昨晩はずっと側にいてくれたらしい。その優しさに胸を打たれながらも、イルゼはきょろきょろと目的の物を探す。


「あった。私の装備」


 水はなかったが、代わりにイルゼの大事な物は見つかった。


 リリスを守るために必要な自分の装備だ。

 それはベッドの傍らに置かれており、装備の上には、リリスの手書きで『触るの禁止!』と書かれた紙が貼られていた。


 リリスにはいらぬ心配をかけてしまったと、イルゼは自分の膝下辺りで眠っている魔王の黒髪を撫でる。


 イルゼは体を寄せ、リリスの耳に顔を近付けると小声で「ありがとう」と呟いた。


「う……ううん?」


 イルゼのウィスパーボイスに反応したのか、それともイルゼが体を動かした事で目が覚めたのか、リリスは眠たそうに目を擦る。


 そして目の前に、鼻梁が高く、長いまつ毛に縁どられぱっちりとした大きな瞳。精緻に精緻を重ねたようなこれぞまさしく美少女と呼ぶべき少女がいる事に気が付いた。


「うおっ!?」


 眠りから覚め、眼前に現れた美少女イルゼに驚き、リリスは後ろに仰反る。そんなリリスを追い詰めるかのように、イルゼは端麗な顔を近づけ、おはようの挨拶をする。


「リリス。おはよう」


 ちゅっとリリスのほっぺたに口付ける。


 一晩中看病してくれたお礼のつもりだった。


 自分が差し出せる物の中で、一番リリスが喜びそうなものはこれしかないと思ったからだ。


 それは効果覿面であった。


「ふぁ!? い、イルゼ、も、もう元気になったのか?」


 顔を赤くして露骨に慌てる魔王。


 そんなリリスに、イルゼはくすりと笑った。


(こやつ……不意打ちでキスしてきおって……!! しかしまぁ、元気になったようで良かったわい)


 リリスから見ても、イルゼの顔色は倒れた時よりもかなり良くなっていた。


 ここに運び込まれる間、イルゼの顔色が死人のように青白くなっていたのを見ていたからだ。


 今は健康的な肌色に落ち着いているが、まだ少し赤い。これは熱のせいであろう。


「お主は熱を出して倒れていたんじゃ。医者によるとただの風邪のようじゃから心配いらんぞ」


「かぜ?」


 イルゼが寝ている間に起こった事をリリスはかいつまんで話していく。


 医者に診てもらった結果、流行りの風邪と診断され、薬を幾つか処方されていた。


 リリスは粉状の薬を朝、昼、晩に飲むようにと薬の効果と一緒に説明する。


「そっか……ごめんねリリス、心配かけて。私、風邪なんて引いた事がなかったからよく分からなかった」


「もうよい。それよりいつから体調が悪いと感じておったのじゃ?」


「んー今日の出発前からかな。なんだが頭がぼーっとしてた」


 確かに予兆はあった。普段よりテンションが妙に高く、皿洗いの手伝いをしている時も、ぼっーとして皿を落としていたからだ。


 リリスは自分なら誤って落とす自信はあるが、イルゼはそういうミスは絶対にしないと知っていた。


 何故なら、力を失った自分は本当にポンコツであると自覚しているが、イルゼは常識という点を抜けばただ強いだけ、そして多彩な才能を持った女の子である事に違いないからだ。


(後先考えずに行動した余の責任じゃな……もうイルゼと出会ってからだいぶ経っておる。それにもかかわらず、一番身近にいる者の体調の変化にも気付けないとは……余は本当にだめじゃな)


 イルゼはまるで自分の体調管理が原因で、風邪を引いたと言っているが、身体の強い彼女が体調を崩したのはいくつか要因があるとリリスは考えていた。


 まず一つがリリスの提案で、地図を見ずに歩き、道を外れた先にあった野外の温泉に入った事。温泉に入るまでは良かったが、その後、着替えは別々に行った。


 自分が見ていない所で外気に長い時間あたってしまい、体を冷やしてしまったのかもしれないとリリスは思った。


 自分の監督不行き届きだ。


(いつも二人で入浴した後は、余がイルゼの体や髪を拭いていた……今、思い返せば、少し髪も濡れていたやもしれん)


 それともう一つ。イルゼはアデナの母親によく眠れたかと聞かれ、昨晩あまり眠れなかったと言っていた。


(余がネルと張り合ったばかりに、イルゼが上手く寝付けなかった。睡眠を取らなかったせいで、体調のバランスも崩れたのかもしれない)


 だとしたらやはり原因は自分にもある。


 リリスがそんな事を考えていると、イルゼが心配そうに覗き込んでくる。


「リリスどうしたの大丈夫? もしかして私のかぜが伝染うつった?」


「そんな事ないぞ。余は風邪など引いたことがないのだ。何故なら、余は魔王だからな!!」


 イルゼがまたくすりと笑った。


「そっかー。リリスは魔王だから身体が丈夫なんだね」


「うむ、その通りじゃ。それとイルゼ、今日の旅はお休みじゃ。ウルクスへ行くのは、ここでゆっくり身体を労ってからでも遅くはなかろう」


「うん。そうだね。国は逃げたりしない」


 イルゼが好戦的な笑みを浮かべる。


(やはり、強い者と戦いたいのじゃな)


 リリスはやれやれとでも言うように、荷物から櫛を取り出すと、イルゼのぼさぼさになった髪に優しく櫛を通していく。


「なんにせよ、まずは髪を整えんとな」


「うん!!」


 淑女の嗜みじゃぞと、リリスは慣れた手つきでイルゼの髪を梳かしていく。


 イルゼは淑女ってなにー? と言った顔をしているがこの際気にしない事にする。


「ほれ、動くでない」


 毎朝、起きたままの姿で活動しようとするイルゼの面倒を見ているうちに、リリスは朝起きて、彼女の身なりを整えるのが習慣になっていた。


 イルゼのしなやかな髪を整えていると戸が叩かれ、リリスが入るよう促す。


。体調の方はどうでしょうか?」


 ことんと、水の入ったコップを備え付けの机の上に置く。


 ――剣聖さま? 


 確かにそう呼ばれたイルゼは首を傾げる。


(リリスが私の正体を話したの? でも話した所で信じる人は少ない)


 リリスの方をみると、彼女もかなり驚いている様子だった。


(違う。リリスは何も言っていない……)


 だとすると何故彼女は自分の事が剣聖だと分かったのだろうと、イルゼは自分を剣聖と呼んだ給仕服姿の女性の顔を見る。


「――ッ!?」


 頭に強い痛みが走る。


 そして強い痛みと共に、不思議とその時の記憶が蘇った。


 それは思い出しそうで、思い出せなかった記憶。魔族から親娘を助けた時の記憶だった。


「あ? え?」


 まるで固く閉ざされていた扉の一つに、鍵が差し込まれて開いたような感覚だ。


 その親娘の顔が鮮明に蘇る。


お世話になりました」


 女性はおへそ辺りに手を揃えると、綺麗なお辞儀をしてみせた。それは一流のメイドや元貴族だと言われても信じでしまうような綺麗な所作であった。


「え? もしかして、私が助けた親娘……?」


 女性は五百年前に魔族から助けた親娘の娘にそっくりな顔をしていた。

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