第206話 蛯名里希は求める
里希は足を動かす。
少しでも部屋から、品子から離れる為に。
混乱している。
その一言では済まされない動揺を抱え、ひたすら歩みを進めていく。
現状において、頭の中に浮かんでいる「すべき事」は二つ。
その一つ目を済ませるために、一条の管理地を抜けようとした時。
行先に立っている男を見て、里希は唇を噛む。
歩みを止め小さく息を吐き、頭の中の動揺を隅へと追いやると、里希は顔を上げ再び歩み出す。
壁に寄り掛かり、自分をちらりと見た男。
彼の前でぴたりと止まると、笑顔で話しかける。
「こんにちは、
里希の言葉に、惟之は何も反応を示さない。
何ならもっとはっきりと分かりやすく、「覗き見一号さん」とでも呼ぶべきだったかと、里希は思いなおす。
自分に言いたいことがあって、ここで待っていたであろうに。
それならばこちらから、『話しかけやすい』ようにしてあげようではないか。
「……十年前から、彼女の体は何も変わりませんね。胸も小さいままだから、ちっとも楽しめませんでしたよ」
里希が笑いながら放った言葉に反応し、惟之が自分に向けて踏み込む気配を見せた。
上の立場である里希に対し、何の証拠も皆の前で言える理由もないのに、彼は自分に危害を加えようとしている。
理性を失った相手にほくそ笑み、里希は自ら惟之へと一歩進み出た。
だがその矢先に、里希達へと声が掛けられる。
「
背後からの声に里希は振り返る。
いつの間にか自分のすぐ後ろに、黒色の表紙のファイルを持った男が立っているではないか。
声をかけられるまで、彼の存在に全く気付かなかったとは。
冷静さを失っている自分に苛立ちながら、里希は男に呼ばれた惟之へと目を向ける。
突然に掛けられた声に惟之は驚いた様子で、声の主の男を黙って見つめるのみだ。
ファイルを抱え困惑気味の男に、里希は微笑みながら答えていく。
「いえ。別に大した話はしていませんので、問題ありませんよ。ねぇ、惟之さん? ……では、私は失礼しますね」
惟之に笑顔を向け、会釈をしてから里希は二人から離れていく。
「あの、靭様。よろしいですか? 先日のこちらの資料ですが……」
彼ら二人も話をしながら、自分とは違う方向へと歩いていった。
その様子をわずかな時間、眺めた里希は再び足を動かしていく。
「あら、ようやく見つけましたよ。里希様」
本来の目的である人物の元へ向かおうとする里希に、再び後ろから声がかかる。
聞き覚えのある声にゆっくりと振り返っていく。
自分がここを通ることを待っていたであろう父の部下。
「高辺さん。父さんと話がしたんだけど、今はど……」
「あらまぁ。私はその件でお話に参りましたの。今回の
相手からの話し合いの拒否に里希は反論する。
「その話は息子であり、今まで祓いを共にしてきた僕も該当するのかい?」
「えぇ。今回は特別だそうです。ですので里希様もですよ」
「へぇ、ならば今は父さんと接触が出来るのは一体、誰なの?」
「今はですね。私と
十年ほど前から高辺と共に、父の秘書をしている男。
高辺とは、こうして里希も毎日のように話をする。
だが十鳥とは、どうしたことか接触する機会がほとんどないのだ。
「……わかった。では父さんの都合がつき次第、僕が会いたいと言っていたと」
「えぇ、申し伝えますわ。ところで……」
里希を見つめ、くすくすと笑いながら高辺は続ける。
「先程、二条の靭様となんだかとても楽しそうなお話をしていたみたいですね。でもいけませんよ。あんな挑発的な態度をなさったら。同じ組織でも、大変なことになってしまうかもしれませんからね」
「そう? でも相手が先に手を出してきたのなら、しょうがないんじゃないの。……ところでさ」
高辺の顔から目を逸らすことなく里希は尋ねる。
「どうしてあなたが、先程の僕と惟之さんのことを知っているの? あなたはその時、近くに居なかったと思うんだけど?」
「そうでしたっけ? ほら。私はとても目がいいものですから、見えてしまったのでしょうね」
艶やかに里希へと微笑むと、高辺は「あぁ、そうそう」と呟く。
「本来は三条の品子様に、依頼が該当するはずだったお仕事の件ですが。今後も、里希様がお請けになるのですか? それとも今日の話し合いで、その気持ちは変わられたのかしら?」
――本当に嬉しそうだね、覗き見二号さんは。
その言葉を飲み込み、里希は同様に高辺へと微笑み返す。
「僕が続けるよ。それとも高辺さんは僕がそうすると、何か都合が悪いのかい?」
「いいえ。ただ適した発動を持つものが、その仕事を請けるべきだと私は思っただけです。先程、品子様が使われた『妖艶』。これを使えば、随分と手早く終わらせられる仕事もあったでしょうに」
実に高辺は、仕事熱心ではないか。
人の仕事の効率を考え、さらには人の『お話し合い』にまで、聞き耳を立てているのだから。
その思いを顔に出すことなく、里希は高辺へと問うていく。
「じゃあ聞くけどさ。今まで僕が仕事で、迷惑を掛けたことってあったっけ? すべて問題なく、片付けてきたはずだよ」
「えぇ、その通りです。里希様は、本当に優秀でいらっしゃいますから」
「だったら問題ないでしょう? 与えられた仕事をこなす。それだけやっていればいいのだから」
「ふふ。口癖まで吉晴様に似てくるものなのですね。お仕事継続の件、承りました」
「そう。じゃあ僕は、所用があるから失礼するよ」
歩き出そうとする里希を、高辺はやんわりと引き止める。
「あぁ、あともう一件ありましたよ。事務方に一人、人員が補充されました」
「それって前に言ってた、僕の補佐の話かい?」
「そうです。今は適した人物なのか確認している所ですよ」
「前にも伝えたけど、僕の補佐なら既に専属で二人いる。彼らは有能だよ。これ以上はもう必要ないんじゃないの?」
「えぇ。確かに、
つまりは自分の傍に、高辺の子飼いの部下を入れたいということか。
そう理解をした里希は淡々と答える。
「ふぅん。決まったらまた教えて」
「えぇ。条件に合う子だといいんですけれどね」
「条件? 僕は特に条件なんて出していないけど?」
「あら。だって一条に相応しい心構えと行動が出来る子じゃないと、困るじゃないですか」
嬉しそうに語る高辺に、里希はうなずいてみせる。
「そうだね。高辺さんの厳しい目で、見てあげればいいと思うよ」
「もちろんそのつもりですよ。それでは失礼します」
一礼をして、彼女は一条の管理地へと戻って行く。
それを見届けてから、里希はある人物に面会の希望を申し入れる。
吉晴と会えない以上、すべきだったことは二つとも確認することが出来なくなってしまった。
だが、その状況を知りうる人物ならいるのだ。
程なくして里希のスマホに、相手からの面会了承の連絡が入る。
ゆっくりと里希は、指定された場所へ。
三条管理室へと歩き出すのだった。
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