第176話 ある火曜日に

「ヒイラギ君。ちょっとお願いがあるのだけれど」


 火曜日の朝。

 朝食が終わりそれぞれが皆、自分の準備を進めていく。

 そんな中、つぐみはヒイラギが一人でいるタイミングを狙って話しかける。


「何だ、何か困りごとか?」

「あ、違うの。実は出掛けたばかりなんだけど、また多木ノ駅に行きたくて。シヤちゃんは昨日、付き合ってもらっていたでしょ。さすがに二日連続で付き合わせて、夏休みの勉強の邪魔をしたくないんだ。今日は買うものも決まっているから、出来ればヒイラギ君に一緒に来てほしくって。先生も今日は用事があるって言っていたから。……駄目かなぁ?」

「別にいいぞ。雑貨屋だっけ? 俺、店の外で待っててもいいのなら」

「うん、ありがとう。助かるよ」


 そう声を掛ければ、ヒイラギは柔らかな笑顔で見つめ返してくる。

 ちくりと心が痛むのを感じながら、つぐみは彼と出発する時間を相談し始める。

 今日、自分は観測者と話をするのだ。


 ヒイラギと話をしながら、自分のすべきことを頭の中で整理していく。

 白日の情報を相手に出さずに、話し終えること。

 そして室と沙十美の安全の保証を確認することだ。

 出来れば観測者から、落月の情報を引き出すことも合わせて行っていきたい。


 まずは、白日の人達に知られないようにして、観測者の元へ行く必要がある。

 目を閉じ、これからの行動を確認していく。

 ――さぁ、始めよう。



◇◇◇◇◇



「ありがとう、ヒイラギ君。おかげで無事に買うことが出来たよ!」

「いや。案外、早く済ませてくれたから。そんなに待っていないぞ」


 昨日も訪れた雑貨屋を出て、二人は歩き出す。


「えっと、実はね。この近くに、もう一つ寄りたいお店があるの」

「あぁ、別にいいぞ。じゃあ行こうか」

「ありがとう、助かるよ」


 つぐみはヒイラギを昨日、確認したビルまで案内していく。


「あのね。ここの一階が喫茶店なの。そこで、待っててもらっていいかな?」

「いや、その店の入口で待ってるよ。お前の身辺警護も兼ねているからな。荷物持ちが必要なら店内にも付き合うぞ。どの店なんだ?」


 にこりとヒイラギに笑いかけ、思う。


(そうだよね。……だから、ここに来させてもらったよ)


「ここの二階なんだけど」

「ふぅん、……って。えぇっ! あ、あの俺は決して、そんなつもりで言っていた訳じゃ!」

 

 彼が見上げた二階には、ショーウインドウに並んだ可愛らしい下着。

 ヒイラギの視線が、ランジェリーショップの看板を捉える。

 彼は目を大きく見開くと、顔を真っ赤にしながら必死に話をしてきた。

 そんな彼の行動につぐみは心の中で詫びる。


 ごめんなさい、ヒイラギ君。

 だからこそあなただけに、ここまでの付き添いに来てもらいました。


 皆にお祝いの夕食会をすると言って予定を聞いた件。

 当然、夕食会の為でもあるが、目的はもう一つある。

 今回の観測者と会う計画の為に、それぞれの予定を聞くためだったのだ。 


 つぐみの外出には、必ず白日の誰かが付いてくる。

 その条件の中で一人だけになる時間が、どうしても必要と考えた場合。

 ヒイラギが一人で付き添ってくれる時しかないとつぐみは判断をした。

 品子、惟之、明日人がそれぞれ用事があり、つぐみと同行が出来ない火曜日。

 つまり今日こそが、最も適した日と判断した。

 火曜日はシヤも予定が空いている。

 彼女が一緒に来ないようにと、あえてシヤに昨日、この場所に付き合ってもらった。


 月曜日の行動により、ヒイラギ一人だけを同行させる言い訳が出来る。

 その状態で、男性が入りにくく、入り口でも待機しづらい場所をとつぐみは考えた。

 観測者がその要望を聞き、手配したのがこのランジェリーショップなのだ。

 品子やシヤでは、女性なので店に同行することになる。

 惟之であれば店内に来なくても、恐らく鷹の目を使ってつぐみの店の出入りを見届けるに違いない。

 明日人にいたっては全く気にせずに、にこにこと入口で待っているはずだ。

 ヒイラギには申し訳ないが、彼一人の同行というこの条件。

 これならばつぐみが一人で行動できるということになるのだ。

 

「お、俺は喫茶店でゆっくりしているからなっ! お前もゆっくり選べ。うん。そうしろ」


 顔を赤く染めたヒイラギは、早口でそう言いながら、二階とつぐみの顔を交互に見ている。


「ありがとう。やっぱり試着もしたいなぁ。えっと、三十分くらい待たせてしまうかも」

「試ちゃ……。うん! いいぞ! いいから! 好きなだけいればいい! じゃ、じゃあ俺は行くからなっ!」


 ヒイラギは、逃げるように喫茶店へ入って行く。

 心の中で彼に詫びてから、エレベーターに乗り二階へ向かう。

 開いた扉から出ると、ぐるりと周りを見渡す。

 約束の場所は、三階の一番奥の部屋と聞いている。

 つぐみは改めて自分のすべきことと、『思い』を心に強く呼び込み念じていく。


 ――これで、きっと大丈夫だ。


 ヒイラギがエレベーターの表示を見ることは無いと思うが、念のため階段で三階へと向かう。

 三階には部屋が二つあり、部屋も廊下もしんと静まり返っていた。

 奥の部屋へ向かうと、扉の前で深呼吸してからノックをする。

 

「どうぞ、お待ちしてました」


 声がする。

 部屋の向こうからではなく、上からだ。


「すみません。部屋に入ったら、スリッパに履き替えてもらっていいですか。その後に靴を扉の外に置いて下さい。その靴を少しお借りすることになるので」

「わかりました。では失礼します」


 扉の前で先に靴を脱ぎ、靴をそろえる。


「おや、部屋でスリッパを履いてからでよかったのに」

「いえ、時間も惜しいですから」


 つぐみが今、ここで靴をあえて脱いだ動きが相手に把握されている。

 つまりは、この状況はすでに観察されているということ。

 監視カメラか、あるいは惟之の鷹の目のような能力を使用しているのだろうか。

 そう考えながら、つぐみはゆっくりと扉を開けていく。

 言われた通り、入ってすぐに下駄箱がある。

 そこからスリッパを取り出し履くと、周囲を見渡す。

 十畳ほどの広さの部屋だ。

 室内にはテーブルと三人掛けの鮮やかなブルーのソファーやスツール、可愛らしいクッションまである。

 女性好みに装いをあつらえた雰囲気の部屋に、思わず「わぁ」と声が出てしまった。


「せっかくお話をするのですから、雰囲気も大事かと思いまして。こういった準備をしました。どうでしょう?」

「すごく素敵ですね。……っていけない! えっと、初めまして。冬野つぐみと申します!」


 見えない相手だが、とりあえず部屋の真ん中あたりに向けて礼をする。


「こちらこそ初めまして。私のことは、観測者とお呼び下さいね」

「はい、観測者さん。あの、まず確認をしたいのです。こうやって私とお話をする。それで室さんや沙十美のことは、上の方々には言わないでいてくれるのですよね?」

「えぇ。といっても、それが確認できる保証が無いのですが。冬野さんはそれが無いのを、心配してみえるのですよね?」

「いえ、別に。約束してくれるのなら、それでいいのです」

「え? それ本心ですか、冬野さん? ……あなた、騙されやすそうですね。そんな調子で大丈夫ですか?」


 驚き、呆れたような様子で観測者は問いかけてくる。


「うーん、あまり大丈夫ではないと思います。でも観測者さんもおっしゃったように、確認する術が私にはありませんから。なので私は、観測者さんに真っ直ぐ、ありのままにぶつかっていきます。出来れば観測者さんも、そうしてくれたら嬉しいですね」

「千堂さんからあなたの話は聞いていましたけど、何というか。素直過ぎるというか。ここまで来ると、馬鹿正直ですよね? いや、なるほどこれは……」


 観測者の戸惑い気味の声を聞きながら、次に話すべきことを考える。


「あの。それで私は、何をお話したらよいのでしょうか?」

「おっと、そうですね。あまり時間が取れないのでした。お連れの方に、三十分程度と話していましたね。その時間までには、終わらせないといけないのでした」

「はい、よろしくお願いします」


 ヒイラギに話した三十分程度という内容が、既に把握されている。

 ……どうやらかなり前から、様子を見られていたようだ。

 靴を外に置いたのは、つぐみが逃げ出さないようにする保険だろう。

 あるいは万が一、ヒイラギが二階の店内に入ったときの為に、店の試着室の前にでも靴を置くつもりなのかもしれない。

 沙十美から聞いた通り、かなり頭のまわる人物のようだ。


 それと同時に、相手から感じられるものは抑えられない好奇心。

 この人が上の人間に話さないというのは、本当だろうとつぐみは確信する。

 白日の関係者とも言える自分と接触を持つこと。

 これが落月の関係者に明らかになった時に、不利になるのは観測者自身だ。

 そのような状況の話を、この人物が組織に話すとは考えにくい。

 

 沙十美は言っていた。

 この人は、自分の知らないことを知りたがる。

 それを得られた時に、礼としてこちらにとって有用な情報を与えるような人物だと。

 この辺りをうまく考えれば、何かこちらに有利な話を聞けるのかもしれない。

 つぐみには一つ、観測者が喜ぶであろう情報を持ち合わせている。


 使うべきか否か。

 それはこの人と話をして考えるとしよう。

 つぐみはぐっと拳を握りしめ、相手からの言葉を待つのだった。

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