第147話 十年前の昔話 その3

 時計の鐘が六つ、鳴り響く。

 時刻は午後六時。

 惟之は両目を覆っていた包帯をそっと外し、目を開いた。

 左目だけで見る景色。

 狭い視界ながら見えていること。

 何より左目に痛みが走らないことに安堵する。

 あの日、室に触れられなかった左目。

 ここ最近はそちらも、時にわずかな光ですら痛みを感じるようになってきているのだ。

 ベットから降りて窓へと向かう。

 静かに窓を開き、外の様子を見る。

 昨日の品子もこうして、風が入るようにしていたことをふと思い返す。


 ――昨日?


「今日は、来なかったのか?」


 自身の時間や都合があるだろうから、来なくていい。

 品子には毎回そう伝えてはいた。

 だが何かと用事だ、ついでだと言っては毎日、顔を出して来ていたのだ。

 ここ数日の態度に、さすがに彼女も愛想あいそが尽きたのだろう。

 こんな無反応な相手に何度も見舞いに来るなど、自分だったらまっぴらごめんだ。

 窓に手をかけたまま、昨日までの品子との会話を思い返す。


「……そういえば」


 何日か前に品子が来た時。

 明るくても痛みが無いように歩けるように出来る秘密道具を、引き出しに入れたと言っていた。

 妙に気になり、引き出しを覗き込む。

 そこにはサングラスと裏返した紙が一枚。

 サングラスを持ち上げ、紙をめくる。


「これ見ましたね。責任とって使ってください」


 紙にはそう書かれていた。

 ため息のような苦笑のような息をこぼした後、サングラスと紙を元に戻してから引き出しを閉める。

 再び窓際に戻り、明るく照らされた雲一つない空を見上げていく。

 幸いにして月の光は痛みを与えることなく穏やかな光で自分を見つめ返し、部屋の中を優しい明るさで包み込んでいる。

 この月明りよりも弱い光でも痛みが生じる時もあるのだ。

 どんな条件で痛みの有無があるのか、確認していく必要が今後はあるだろう。



 ……いや、今後などあるのか?

 今の自分に、未来へと向かう言葉は必要か?



 目を閉じる。

 浮かぶのはあの日のこと。 


 マキエの名を叫んだ直後、惟之の目の前に唐突に男が。

 ……落月の室が現れ、右目にただ『触れた』。

 貫くでもなく、刃物で切りつけるでもない。

 その直後に襲う信じられない痛み。

 耐えられず惟之は叫び声をあげ、のたうち回った。

 それからは……。


(……嫌だ、思い出したくない)


 再び惟之は目を開く。 

 見渡せる景色は右半分側が自分の鼻を境にぼんやりとした暗闇に覆われている。

 右目は開けようとしても開かない。

 上下のまぶた癒着ゆちゃくしているのだろうか。

 右目に触れれば、指が瞼に触れた感覚。

 ピンポン玉を柔らかくしたような左の感覚に比べ、右の触感は随分と硬いと感じる。

 自分の指先の熱が感じられるのは、皮膚感覚はある程度は機能しているということだろう。


 では発動は?

 ベッドに腰掛けると、目を閉じ意識を集中させる。

 体が浮かび上がる感覚。

 鷹の目は発動可能、……か?

 見下ろした先にあるのは自分の姿。

 だが、目に映る景色はやはり左半分のみの切り取られた世界。


 では次の段階へ。

 発動者の気配の探知は出来るかの確認を。

 あまり大きく使うのはまだ早いだろうし、発動自体を他の人間に気付かれても面倒だ。

 範囲を絞り発動する。

 本部という場所だけに、当然だが何人かの発動者の気配を認識することが出来た。

 こちらもそれなりには使えるままのようだ。


 では更に次の段階へ……。

 そんな矢先に扉をノックする音が耳に届いた。

 惟之は発動をゆっくりと解除する。

 無事に反動を起こすことなく、左目を開けると「どうぞ」と声を掛けた。

 扉が開き、一人の女性が部屋の中に入ってくる。

 見覚えのある三条所属の女性が惟之を見て驚く。


「あら? 靭様の包帯が、……ってそんなことを言うために来たわけではなかったわ。こちらに品子様はお見えではないですか?」



◇◇◇◇◇



 痛い、というか何だか熱い。

 自分の拳を眺めながら品子は思う。

 人差し指と中指の部分を使い殴るのが正しい殴り方だと聞いたことがある。

 自分はそれが出来ていただろうか。


 周りがわあわあと騒いでいるのを、品子はぼんやりと眺める。


「え、あの優等生の人出さんが殴ったの? 何で?」


 騒ぎを聞いて新たに部屋に入ってきた人が、一部始終を見ていたであろう人達に聞いている。


 なぜかって?

 それは、自分の前にいるこの人に聞いてほしいな。

 ゆるりと前を見据え、品子は考える。


 座り込み、殴られた頬を押さえながら品子を睨みつけている男。

 だがほんの一瞬、男が笑ったのが目に映る。

 だが今の彼女にとって、そんなものはどうだっていいのだ。



 何でこんなことになってるんだっけ?

 えぇと。

 確か今日は二ヶ月に一回本部で行われる白日の研修の日で、自分はいつも通りに席に着き始まるのを待っていた。

 うん、ここまでは間違っていない。

 そうしたらそこに座り込んでいるこの男が、空いている席がたくさんある中でわざわざそばに来て連れと話を始めた。


 その話の内容がヒイラギとシヤの話で。

 あの子達の事をよく知りもしないこの人が、聞くに堪えがたい非常に下らない話をしだしたから。

 立ち上がり彼の前に立って、人の悪口は良くないからその話は止めてほしいと言ったんだ。

 そうしたらこの人は、いや、こいつはっ……!



「俺は人ではなく、ただのどうしようもない兎と犬の話をしているだけだから。だから気にしないでよ」


 そう言って笑ったのだ。

 だから。

 だから自分も笑いながら、男を殴った。


「悪い。手が、いや拳がすべっちゃったよ。だから、……気にしないでよ」


 品子の口からこぼれていく言葉。

 普段の自分なら決してしないであろう行動と言葉。

 先に手を出したのはこちらだ。

 明らかに悪いのは言うまでもない。

 立ち尽くしている品子を、騒ぎを聞き部屋に来たであろう男性が廊下の方へ連れ出していく。


「いきなり人を殴るとはどういうつもりだ? 説明してもらうぞ」


 そう言って品子の手首を掴むと、ずんずんと歩いていく。



 どの程度の処罰になるだろう。

 母さんに迷惑かけるなぁ。

 この話がヒイラギ達に伝わらないといいなぁ。

 そんなとりとめのない思考を品子は繰り返す。

 どうやらどこか別の部屋に連れて行かれるようだ。

 品子は引きずられるように歩きながら、一歩一歩進む度に心が暗く淀みながら下へ下へと沈んでいく。


(何かもう、どうなっても、……いいや)


 周りが自分を見て何か言っているのは見える。

 だが、話している内容は全く頭に入ってこない。


 そんな中ふと、前から視線を感じて目を向けると、里希が自分を見ている。

 その顔は品子の行動を心配するでもなく、非難するでもなくただ無表情だ。

 ……きっと、今の自分は里希と同じような顔をしているのだろう。

 何だかおかしくなり、彼の目をみたまま品子はくすくすと笑いはじめた。

 その様子を見た里希が、怪訝な表情を浮かべる。

 彼の前まで来た時、引っ張ってきた男性に逆らって強引に立ち止まり語り掛ける。


「ねぇ、里希。君と私は一緒だね」


 品子を連れて行こうとした相手は口を開きかけるが、相手が一条の長の息子である里希と知ると一瞬躊躇ちゅうちょする様子を見せる。

 里希は相変わらず無表情のまま品子を見つめるだけだ。

 こんな発言をされて怒ったのだろうか。

 確かに騒ぎを起こした自分に、突然に話しかけられてもな。

 彼が何か言いかけたその時、再び品子はぐいと強く引かれ、その場から離れていく。


(里希は何を言おうとしたのだろう?)


 首を傾けて振り返ってみるが、彼の後ろ姿が見えるのみだ。

 その姿が見えなくなるまで、品子は里希を見つめ続ける。

 だが、彼が品子を振り向くことは一度もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る