第133話 白い蝶と少女
「さ、沙十美っ! あそこに、ヒイラギ君がいる」
「えぇ。彼だけで、毒の気配は感じないわね。近づいてみましょう」
彼に向かって進むうちに、こみ上げてくる感情が、つぐみの足を早めていく。
我慢できず、ついには沙十美の手を放し、ヒイラギに向かって駆け出してしまう。
「つぐみ、待ちなさい! まだ何があるか分からないのよ!」
沙十美の声が聞こえる。
言われたことは理解できているのだ。
だが、つぐみの足は止まらない。
ずっと、ずっと皆が待っていた。
つぐみもずっと探していたのだ。
「ねぇ、ヒイラギ君に聞いてほしい。皆が、あなたが目を覚ますのを待っているの! シヤちゃん、一人でもずっと我慢して待っているんだよ」
シヤがヒイラギの見舞いの際に、寂しげな表情で彼の手を握り帰るのを何度も見てきた。
「先生も靭さん達も、一生懸命に調べてくれていたんだよ。井出さんも、病院に何度も何度も来てくれていたの! だから、だからお願い!」
声を掛けるではない。
もはやこれは叫び声だ。
それなのに彼は、目覚めることはない。
ようやくつぐみは、手の届く距離までたどり着く。
胸が上下しているので、生きているのは間違いない。
仰向けで両手は真っすぐに伸ばし、まるで気をつけのような姿勢でヒイラギは眠っていた。
荒い息を整え傍らにしゃがみ込むと、そっとヒイラギの腕に触れてみる。
『何で? どうして? 悪いことしてないのに……』
つぐみの頭の中に突然、彼の声が聞こえてきた。
驚きで後ろに下がろうとするが、足がもつれ尻もちをついてしまう。
「い、今のは一体? ヒイラギ君の声だったけど」
「ちょっとつぐみ! あなた、少しは落ち着きなさい!」
後ろから追いついてきた沙十美に声を掛けられ、つぐみは驚きの表情を浮かべたまま振り向いてしまう。
「不用意に近づいたら危ないことくらい、あなたにもわかるでしょう! とりあえず何もなかったからよか……、何よ? そんなに驚かなくても」
「沙十美、ヒイラギ君が眠っているのに声がするの。彼に触れたら、……私の頭の中で」
動揺したつぐみの言葉に、彼女はヒイラギへと目を向けた。
つぐみの隣に座り、ヒイラギの腕へと触れる。
目を見開いた沙十美は、つぐみに向き直り呟いた。
「何て悲しい、苦しい声なの。この子はこんな気持ちを抱えて、今まで過ごしてきたのね」
「彼のお母さんが亡くなってから、ずっといろいろ周りにひどいことを言われたり、辛いことをされたりしたみたいなの。彼はちっとも悪くないのに……」
「なるほどね。こんな声を聞き続けたら、例の毒もこのままでいさせてあげようと思うでしょうね」
ヒイラギの手を、つぐみはそっと握ってみる。
『何がだめなの? どうしたらみんな、ひどいこと言わないようになるの? 教えてくれたらきちんと直すから』
流れ込んでくる彼の気持ち。
自分のことではないのに、胸が締め付けられたように苦しい。
『俺が悪かったなら謝るから。だからシヤにはひどいこと言わないで』
「……そうだ、シヤちゃん。ヒイラギ君にとって、たった一人の家族」
彼女に約束したのだ。
ヒイラギを連れて帰ると。
「ヒイラギ君、迎えに来たよ。シヤちゃんがずっと待ってる。だから一緒に帰ろう」
強く手を握りしめ、つぐみは話しかける。
「あのね、聞いてほしいことがいっぱいあるんだ。今ね、ヒイラギ君のお家で生活してるんだよ。この間は、シヤちゃんと先生と三人で一緒に川の字になって寝たんだ」
何を話せばいいのかわからない。
けれども、一緒に帰りたいという気持ちだけは伝えておかなければ。
手を握ったことで、再びヒイラギの声が頭の中で響く。
『どうしてみんな、俺のこと逃げ
「そうだよ。ヒイラギ君だよ。大丈夫。知ってるよ。私はちゃんと呼ぶよ」
つぐみのそばを、一匹の白い蝶が飛んでいる。
『蹴られた足が痛いのはすぐに消えるのに、心が痛いのがちっとも治らない』
つぐみも、それは知っている。
心のちりちりとした痛みは、体の怪我と違って、ちっとも治ってはくれないのだ。
どうしたことか、ちりちりとした痛みが腕に生じていく。
そんなつぐみの周囲を、数匹の白い蝶が飛びまわっていた。
「つぐみっ!」
沙十美の声が響き、つぐみは痛みを感じた腕をゆっくりと見やる。
そして、そこに「居る」存在につぐみは悲鳴を上げた。
つぐみの腕に女の子が、しがみついている。
いや、そうではない、彼女は……。
女の子はつぐみの腕に、噛み付いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます