第116話 汐田クラムの発動★
「さて。彼は素直に教えてくれたので、僕なりの慈悲をもってなるべく苦しまずにお別れさせてもらいました。彼と田中さんはあえて彼女を狙った訳でなく偶然だった、という発言も一致しましたし……」
少年は話し続ける。
その身に降り注ぐ赤い飛沫など、まるで無いかのように。
女は震える声で彼に問う。
「た、田中とも話を……?」
「えぇ。田中さんがあの子の右頬を殴り、腹を踏みつけたのを本人から聞かせてもらいました。さらに先程の彼も言っていましたが、狙ったのは彼女だからと言うわけではなく、偶然だったみたいですね」
女を見つめてくるクラムの顔に、先程まであった笑みは消え失せている。
確かにあの二人は、偶然に彼女を狙ったと思っていただろう。
たが、実際は違うのだ。
女の発動媒体は『象』。
象は人や他の動物よりも、はるかに優れた嗅覚を持つ。
その嗅覚が、今まで一度も感じたことの無い香りをした人間が女の前に現れた。
驚きながら引き寄せられるように。
いや見つめずにはいられなかったその先に居た存在。
景色すら彩を失くす蠱惑の香り放つ彼女を、気が付けば連れ去ってしまっていた。
だがつぐみの血液も涙も、特別な味があるものでもなかった。
少し特殊な香りを持つだけの一般人だったのだ。
沈黙した女に、彼は問うてくる。
「ところであなた、落月の発動者ですよね? ならば『
低いトーンで語られるその言葉に、女は顔をうつむかせる。
つぐみの耳に付けられていた『印』。
クラムが以前、「おまじない」と称してつぐみに施していたもの。
落月の組織中において、他者に印の対象者に手を出させないための契約。
その印を刻まれたつぐみを、襲い傷つけてしまったのだ。
あろうことかその相手は、上級発動者の
彼は落月において、中級レベルの自分など到底相手にならない強さを持った発動者なのだ。
目前の危機に恐怖を感じながらも、同時に生じる疑問。
なぜあのような髪で隠れてしまうような、分かりづらい場所に印を施したのか。
そして印への、強く深い念の入れ具合。
本来ならばこの契約は、印の対象者に何かあると分かるようにする程度のもの。
だが今回の場合、つぐみに降りかかった厄が全て同じように彼の体に刻み込まれるようになっていたのだ。
どれだけ深い念をあの子に向け、印を施しているのだろう。
そんな彼女を故意に狙ったと知った時。
彼は一体どんな制裁をしてくることか。
だめだ! これだけは知られてはいけない。
山田達のように偶然、つぐみを狙ったことにせねばと女は思う。
「も、申し訳ありませんでした。汐田様が印を施していた相手と知らず、彼女を傷つけてしまいました。私どもはこの辺りで小金稼ぎで人を狙っていたのです。わ、私が襲われていると勘違いをさせ、こちらに連れて来てしまいました」
あの娘に、彼は惹かれているのだろう。
そうでなければ、あそこまで深い念など入れはしない。
ならば彼女をたたえれば、少しは機嫌が良くなるのではないか。
そう考えた女は必死に言葉をつなぐ。
「彼女は、私を本気で心配して、たった一人なのに助けに来ていました。震える声で山田達に、私に危害を加えるなと言ってくれました。そんな優しい子にしたことは許されることではありません」
「……そうだね、あの子は本当にいい子だから。それであなたは、彼女をどうやって傷つけたの?」
柔らかなトーンの声になったのを感じ、女は顔を上げた。
彼の顔には再び、柔和な笑みが口に浮かんでいる。
この雰囲気を壊さないように会話を続けていけば、何か活路が見いだせるかもしれない。
そう思い女は彼の問いに答えた。
「私の爪で彼女の左の頬を三度、……傷つけました」
「どちらの手の何指を使って?」
なぜそんなことを聞くのだろう。
疑問が浮かぶが、相手の機嫌を損ねるようなことはしたくない。
女は素直に答える。
「右手の親指を使いました」
「そう、嘘ではなさそうだね」
クラムは女の右手を掴むと、執拗なまでに気にしていた女の親指を上に向ける。
そのまま彼自身の顔に近づけていき、親指を見つめにこりと女に微笑んだ。
意味が解らないながらも、女は同じように笑おうとする。
だが口角を上げようとした口から出てきたものは、信じられない痛みを感じたことによる絶叫だった。
痛みの元をたどるため見下ろした先では、女の親指が無くなっていた。
血がとめどなく流れていく中、自分の指が食いちぎられたという事実に女は言葉を失う。
「よかったぁ。これで彼女にあなたが触れた部分の、『存在』自体が消せたよね」
女の指を地面に吐き出すと、赤く染まった口を手の甲で拭いながら、美しい少年は微笑み続けている。
確かに自分はあの子を傷つけた。
だが頬を傷つけただけ。
ここまでするほどではないはずだ。
「あ、あの子の顔に傷をつけたから、その指を消したというのですか」
震える声で女は問いかける。
だが、返ってきた答えは予想外のものだった。
「違うよ。軽々しく、お前ごときが触れていい子じゃないからだよ」
笑っている。
人の指を奪っておきながら、まるで肩でもぶつかってしまったかのような軽い言い様で。
「どうして? ちゃんと聞かれたことに答えたじゃない。素直に言ったじゃない。……許せない。許せないっ!」
怒りに任せて女は発動を開始する。
左手の人差し指に発動の力を乗せると、爪が鋭く尖っていく。
爪を使い髪を根元に近い場所から数十本切ると、女はクラムの方へ投げつけた。
投げられた髪は散らばることなく、ロープのように長く編み込まれながら、放たれた矢のように素早く一直線に彼の足元に向かう。
クラムは避けるでも防ぐでもなく、ただ見ているだけだ。
まるで他人事のように見ている態度に、女の怒りは増幅していく。
ロープはそのまましなやかに彼の足首に絡み付き、両足を足枷のように拘束する。
いつもならキツく両足を固定して縛り付けるだけなのだが、こいつは上級者だ。
念には念を入れた方がいい。
女は同じ動作を再び繰り返し、二本目のロープを作る。
今度のロープは、足枷と地面とを十字に縫い付ける様に、アスファルトの地面を穿ちながら深く地中へとめり込ませていく。
これで彼は、あの場から動くことが出来なくなった。
倒れこそしないものの、不安定な動きで立っている様子の彼を睨みつける。
絶えず痛みを訴え続けている右手を強く握りしめながら、女は勝利を確信していた。
「……何だ、上級と聞いていたけどそれほど大したことが無いじゃない」
必要以上に怯えていた自分が腹立たしい。
だが念のため、近づくのは止めておいた方がいい。
再び髪を切ると、今度は髪自体に発動の力を乗せていく。
切った髪を二本の鋭い刃に変えると、彼に向け構える。
これで終わりだ。
「ねぇ。一応さ、聞いてみていい? あなたの発動って、なあに?」
危機的状況にもかかわらず、クラムは呑気に女へと話しかけてくる。
「答える必要はない。私の体を傷つけたこと、絶対に、……絶対に許さないからっ!」
「体に傷つけた? 絶対に許さない? それを言いたいのは僕の方だね。ルールも守れずに先に人のものに手を出したくせに。それを言う権利がお前にあるとでも、……本気で思っているの?」
さっきまでヘラヘラと笑っていた顔が一変する。
その目にあるのは明確な怒りと殺意。
女は、体が一瞬で冷え切ったような感覚に襲われ息が詰まる。
自分が有利なのは分かっているのに。
分かっているはずなのに、逃げ出したい衝動に駆られる。
早く、早くこの状況を終わらせないと。
女は本能のまま、一本目の刃を彼の胸にめがけて投げつけた。
その次の瞬間、「ドォッ!」という音と共に彼の足元から土煙が上がる。
女には彼の足元が突然、爆発したように見えた。
こちらに降りかかる土や砂に構わず、彼の姿を探す。
すると彼は立ちのぼる土煙より更に上空に居た。
どうやったのかは分からないが、さきほどの爆発によって足の拘束を解いたようだ。
ならばあの爆発も彼の仕業だ。
なぜなら爆風を利用して、彼はこちらに向かってきているのだから。
それでも、女の有利なのは変わらない。
空中にいる。
それは自由がきかないということでもあるのだ。
地面を蹴って移動することが出来ない以上、落下することしか彼は出来ない。
そのまま下に降りてくるしか術はないのだ。
流石に空中では、刃をよけることは出来ない。
相も変わらず降り続ける土砂を浴びつつ、女に向かい降りてくる彼にしっかりと狙いを定め、二本目を投げつけた。
間違いなく刃は彼の心臓を貫く軌道をたどっている。
「ざまあみろ! 中級ごときに殺されるなんて馬鹿な上級発動者め!」
指の痛みも忘れ、相手の最期を見届けてやろうと見つめたその先の彼は……。
空中をただ落ちてくるだけのはずの彼は、刃を見て怯えるわけでなく女を無表情で見つめたまま、おもむろに右手を広げると下から上へ大きく斜めに振り抜いた。
まるでその右手が壁か何かにでも触れたように、彼の体は重力を無視して急角度で降下し、迫り来る刃を避ける。
次いで左手を広げその手のひらから何かがうごめき、渦巻いている音が響く中、今度は女の前の地面に向けて再び大きくしならせその腕を思い切り振り抜くと、猛り狂った風が女を襲う。
「……くっ! 目がっ!」
先程と同じような土煙が目前で舞い上がり、耐えられず女は目を閉じてしまう。
「残念、遅いね」
声がする。
女の後ろから声がするのだ。
「嘘だ、そんなはずはない。だって彼は先程まで上空にい……」
ひんやりとした手が後ろから女の首に触れた。
そのまま喉を強く圧迫される。
自分の口から、出してもいない小さなうめき声が零れていく。
次第に女の目の前が赤く染まりはじめる。
(これは血……、私の血?)
地面を染め上げる一面の紅を信じられない思いで見つめながら、女の意識はそこで消え失せた。
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