第二章 木津ヒイラギの起こし方

第87話 木津家の朝

 自分の手と足が溶けている、溶けていく。

 体を布で覆われているのでそれを見ないで済むこと。

 この「人を溶かす」という毒を施した発動者の能力で、痛みを感じずにいられるのがまだ救いだ。

 溶けた手足は黒い水となり、ぽたりぽたりと布を伝い零れ落ちていく。

 自らの体から伝い落ちる黒い水。

 冬野つぐみはそれを見つめ、ぼんやりと思う。


 ……私の命が、零れ落ちていく。



◇◇◇◇◇



「つぐみさん。この場所は安全です! どうかしっかり!」


 顔を覗き込み、今にも泣き出しそうな少女、木津きづシヤにつぐみは笑いかける。


 大丈夫だから、そんな顔しちゃだめだよ。

 ……あれ、シヤちゃん?

 シヤちゃんの顔が、見えなくなっちゃった?



◇◇◇◇◇



「……つぐみさんは、兄さんの肩代わりによって助かりました」


 姿は見えない。

 けれどもつぐみの耳に聞こえるのは間違いなくシヤの声。


 ぼんやりとした意識が戻ると、シヤの姿は無く代わりにつぐみの頭を撫でている人物がいる。

 つぐみの通う大学の講師である人出ひとで品子しなこ

 彼女はゆっくりとつぐみに語りかけてきた。


「……今から君の、私達に関する記憶を消させてもらう。君の意見に関係なくだ」


 品子は、つぐみの頭に改めてそっと手のひらを乗せる。

 その瞳に揺らぎ、言葉に出さずとも表れているのは後悔。


 常人が持つ事のない不思議な力「発動」。

 そしてその発動の力を使いこなす「発動者」。

 事件に巻き込まれ、傷ついたの心の安定を図るため。

 もうこれ以上、つぐみが傷つくことの無いように。

 人の記憶を操る発動者である品子は、つぐみの記憶を消すという決断をし、その能力を発動させた。

 薄れゆく意識の中でつぐみは思う。



 忘れたくないな。

 大切なんだ……。

 この記憶と思い出は……。

 でも……。



◇◇◇◇◇

 


 スマホの目覚ましが鳴っている。

 ……朝だ、起きなければ。

 先程まで見ていた夢の中の出来事。

 だがあれは夢ではなく、数日前につぐみが確かに経験したもの。

 いや、これは後で考えればいい。

 ごろりと寝返りを打ち、枕元に置いてあるスマホを手に取ると額にコツリと当てる。

 まどろみの中に漂いながら、するべきことを確認していく。

 

 朝ご飯、今日は何を作ろうかなぁ。

 とりあえず、和食にするのは確定だけど。

 昨日、買ってきたオクラと納豆でいいかな。

 この間みつけた、だし醤油と合わせたらすごく美味しかったし。

 お豆腐にもご飯にも合うから、きっと先生は喜んでくれるな。

 うつぼさんは今日は来るのかな。

 一応、多めに作っておこう。

 ん~、お布団が名残惜しいけど。


 まどろみと思考を追いやると、つぐみはがばりと体を起こす。

 自分の部屋ではないこの景色にも、ようやく慣れてきた。

 つぐみは三日前から、この木津きづ家に世話になっているのだ。


 

 つぐみが住む戸世とせ市で起こった、発動を使い人間を黒い水に変えてしまうという誘拐事件。

 つぐみの親友であった千堂せんどう沙十美さとみが、この事件に巻き込まれてしまった。

 彼女を見つけ出そうと、つぐみは自分の観察力を使い行方を求めていく。

 だが力及ばず、彼女は事件の被害者となり、つぐみもまた同様に犯人に捕まってしまったのだ。


 犯人である奥戸に捕えられたつぐみを救い出したのは、奥戸とは別の組織の発動者でありつぐみの学校の教師でもあった人出品子ひとでしなこ

 そして品子の従兄妹である木津ヒイラギ、シヤの兄妹だった。

 事件のさなか、奥戸から受けた毒でつぐみは命を失いかける。

 そんな瀕死のつぐみを助け出したのは、ヒイラギだった。


 彼はつぐみの毒を『肩代わり』という発動を使い、彼自身の体に毒を引き受け、つぐみを救ったのだ。

 沙十美の死、ヒイラギに身代わりをさせた自分への呵責かしゃく

 それに耐えられず動揺したつぐみに、品子は記憶を消す発動を施した。

 だが発動は上手くいかず、つぐみの記憶は消えずに今も残っている。

 一方でヒイラギは毒の影響で目を覚まさず、病院に入院することになってしまった。


 兄であるヒイラギと二人だけで暮らしていたシヤが、一人になってしまう。

 これにつぐみが学校の夏休みと重なったというタイミング。

 何より品子の一言で、つぐみの生活は大きく変わることとなる。


「シヤが家でたった一人なんて可哀想すぎる。冬野君、君がシヤの代理お姉さんになっておくれよ」


 その勧めもあり、つぐみは木津家に世話になることとなった。

 これには、自分への配慮もあるのだとつぐみは感じている。

 先立っての事件で自分の存在が、奥戸の組織に知られている可能性もある。

 それもあり、つぐみが一人でいるのを避けるという判断なのだろう。


 手早く着替えを済ませ、台所へと向かう。

 時間は七時になったばかりだ。

 冷蔵庫を覗き、朝食の材料を取り出しているとリビングの方からシヤがやって来た。


「おはようございます、つぐみさん。私は何を手伝えばいいですか?」


 中学二年である彼女も、夏休み中。

 それもあり、今はパジャマのままだ。

 前に彼女から借りたハンカチと同じ色の、青い星の模様が入ったパジャマ。

 こちらを見る姿は少し眠そうで、まばたきをしきりにしている。

 その姿はとても可愛らしいと、思わず微笑んでいると。


「ああああーん、眠そうなシヤも可愛いねぇー!」


 気が付けばシヤの隣に立ち、朝の恒例となった高速頬ずりを彼女に施している人がいる。


 そう、今は。

『シヤが大好き! いや、もはやストーカー』と言っていいであろう品子も、木津家で生活をしているのだ。


 人となじむのが苦手な自分が共同生活をする。

 大丈夫だろうかと、当初は思っていた。

 だが、この生活を始めてみると中々に楽しいことに気づく。

 シヤは料理以外の家事はほとんどをこなせる、実にしっかりとした少女だった。

 さすがにヒイラギと二人暮らしをしていただけある。

 たまに品子が暴走をして『今日は私が料理を作る!』とさえ言わなければ、とても上手くいっているといえよう。

 昨日もつぐみはシヤと一緒に、夕飯の買い出しに二人で出掛けた。

 美味しそうなコロッケの街頭販売を見つけ買おうということになり、商品を貰う時に店員から声を掛けられる。


「はい。コロッケは、お姉さんに渡せばいいのかな?」


『お姉さん』


 それを聞き思うのだ。


 なんと素敵な響きなのだろう。

 姉妹に見えたのだ。

 嬉しい、とても嬉しい。


 ふわふわとした感動に浸りながら歩く帰り道。

 それはいつも以上に、楽しい道のりと呼んでいいものだった。

 荷物を半分ずつ持って帰るという体験。

 ずっと一人きりだったつぐみには、それだけで幸せ過ぎる出来事だ。


 夜になると品子も帰ってきて、にぎやかな夕食が始まる。

 ここ最近は、品子と同じ組織の仲間であるうつぼ惟之これゆきも時間が空くと、一緒に夕飯を共にするようになっていた。


 自分だけのために作ったものではなく、誰かのために作る食事。

 上手に出来ても、ただ食べるだけだった時とは違い、「美味しい」という言葉が掛けてもらえる食卓。

 過ごせる時間は、つぐみにとって本当に嬉しく幸せで。

 自分が知らなかった、知りたかった世界はこうして優しく静かに流れていくのだ。


「あ、そうだ! 冬野君。惟之これゆき明日人あすとが今夜、この家に来たいって言ってるんだ。夕飯を二人分、追加してもいい?」


 朝食を食べ始めてすぐに、品子が尋ねてくる。

 井出明日人いであすとは、品子達と同じ組織の発動者だ。

 惟之は情報の解析、明日人は治療の発動を担っている。

 そしてこの二人はつぐみを救い出した存在でもあった。


「もちろんですよ! 何か食べたいものリクエストありますか?」

「何でもいいよ~。あ、でも明日人は辛いの苦手って言ってたから、その辺を避けてくれればありがたいかなぁ」

「わかりました。よしっ! 今日はたくさん、作りますよ!」

「うわぁ、楽しみだね。今日の仕事がすごくはかどりそう。じゃあ帰る前に連絡を入れるね」


 嬉しそうに品子がつぐみを見つめ笑う。


「はい、お願いします」

「あ、このオクラのやつ美味しい。これ夕飯も食べたーい!」

「わかりました。これもメニューに入れておきますね」

「やたっ! 冬野君、大好き!」

「つぐみさん、では買い物に行く必要ありますよね? 私、荷物持ちします」

「ありがとうシヤちゃん、お願いしたいと思ってたから助かるよ」


 とりとめのない会話を交わしつぐみは思うのだ。

 この時間は、本当に大切で愛おしいものであると。

 一人で生きてきた時には知らなかった世界を、ここには教えてくれる人達がいる。

 ここには、ずっと孤独だったつぐみを迎え入れてくれる、受け止めてくれる場所があるのだ。

 あとはそれを教えてくれた、彼がここにいてくれたら。


(だからお願い。早く起きて、ヒイラギ君)

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