第74話 井出明日人
黒い水の痕跡を消す。
それが今の自分のすべき行動だ。
他は、何も考えなくていい。
ただそれだけを思い、品子は階段を降りビルの出口へと急ぐ。
建物から一歩、外に出る。
途端に体を貫いてきそうな日差しが自分を襲ってきた。
「これだけ日が照らしているならば、すぐに
手近なところから水を流し始める。
路面を擦るまでもなく水は混じりあい、日差しに焼かれては消えていく。
十分もかからず、店からビルに続いていた黒い水はほぼ消え失せていた。
もう少しだとため息をつき、品子は空を見上げる。
「しーなーこさーん」
この場に相応しいとは思えない、のんきな声が自分を呼んでいる。
声のする方を振り返り、品子は小さく「嘘だろ」と呟く。
自分に向かい予想外の人物が、笑顔で手をぶんぶんと振りながら走ってくるのが見えたからだ。
彼は四条の発動者だ。
ありえない人物の登場に、動揺を隠せず品子は言葉をこぼす。
「……おかしいだろう。四条の発動者は今『
品子の驚きはそれだけではない。
井出は上級の治癒の発動能力を持っている。
この事件は上級レベルの人間が来るような案件ではないはずだ。
「ふわぁ~、あっついですねぇ。僕自身が溶けてしまいそうですよ~」
ネイビーのテーパードパンツにグレーの半袖のボーダーTシャツ。
さらりとそれを着こなした青年は、その言葉に反して涼し気な立ち姿で品子にのんびりと話しかけてきた。
ふわりとしたマッシュパーマの髪が、風で揺れるのを眺めながら品子も答える。
「君がどうしてここに? っと、その話は後でも出来る。取り急ぎ、診てもらいたい女性がいる。頼む」
「わかりました、と言いたいところですが。ご存じの通り、僕にも出来ることが限られています」
相変わらずの笑顔で明日人は答える。
だが彼の目は全く笑っていないのを品子の目は捉えていた。
「……あぁ、よくわかってるよ。出来る限りでいいんだ。彼女は私達の為に本当に尽くしてくれたんだ。もう一度、言う。どうか頼む」
「品子さんが、そこまで言うなんて珍しいですね。……急ぎます」
彼は笑顔を消すと、ビルに向かい走っていく。
井出が本気を出せば、彼女の手足を治すことは可能なのだ。
だがそれは出来ないと、暗に彼は品子に宣言をしている。
水を流す作業を品子は再開させていく。
彼が望んで先程の言葉を口にしたわけではないのは十分に理解している。
知っているだけに、自分が何も言えないもどかしさに品子は唇をかみしめていく。
気持ちを切り替えようと顔を上げた品子は、ふと奥戸の店の方を眺めると目を見開いた。
「……参ったね」
品子の口から思わず言葉がこぼれる。
それは明日人への言葉であったか。
それとも奥戸の店から現れた、一人の男のことだったのか。
品子は考える。
いや、考えざるを得ない。
どうすれば自分はあの男に殺されずに済むのかということを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます