第68話 木津ヒイラギと奥戸透の場合

「どういうことだ?」


 目の前で起こっている出来事に奥戸は思わず呟く。

 突然だった。

 つぐみの手のひらに淡い青い光が灯ったかと思うと、部屋の外へ向けて光が線を引くように繋がっていく。

 光の行方を追い扉の方へ目を向けてすぐ、今度は邪魔が入らないように作っておいた障壁の一つ。

 扉に仕掛けていた方の障壁に、何者かが触れているのに気付いた。

 発動者ではない薄い反応を感知したことで、奥戸は一般人が扉を開けたのだと認識する。

 さらにその直後。

 あろうことか、店の前に施しておいたもう一つの壁が破壊されたのだ。

 相当に強力に作っておいた壁が容易たやすく砕かれたことで、奥戸は屈辱に拳を強く握り締める。


白日はくじつの仕業か」


 だが奥戸はまだ自分が有利であることを疑わない。

 ここは、明かりの入らない真っ暗な部屋。

 自分はこの部屋に先に入っているので、かなり闇に目が慣れている。

 相手はこの暗さと目の前でぐったりとしているつぐみの元へ、まずは向かうのだ。


「どんな相手だか知らないが、入ってきたらそのすきに逃げるなり、場合によっては相手を片付けてしまえ……」


 ダン! という音と共に扉が大きく開くと、若い男の声が響く。


「な、真っ暗? いるのか! どこだ! 返事しろ!」


 あまりに早い相手の登場に、驚きながらも奥戸は相手の様子をうかがう。

 自分の組織の汐田クラムと同じ年くらいの少年が、青い光を伝いつぐみに向かっていくのを部屋の隅で見守る。


「いた! おいっ! 起きろ!」


 相手が背を向けていることに奥戸は笑みを浮かべる。

 彼の場所が青い光でしっかりと把握できるという事実に、笑いをこらえられないのだ。

 相手は部屋に彼女しかいないと勘違いしている。

 つぐみに気を取られて、背後にいる奥戸を全く振り返る様子はない。

 必死につぐみを揺さぶり続けている彼の後ろに、奥戸は静かに近づいていく。

 相当に近づいているのも関わらず、少年には気付く様子がない。


 彼女を助けるのに必死な少年の姿。

 実に勇ましく健気な姿に、奥戸は敬意すら覚える。

 彼にはせめて苦しまずに、次の世界への扉を開けてやるべきだろう。

 いたわりに近い感情を抱き、奥戸は胸ポケットからそっとケースに入った十センチほどの長さの針を取り出し相手に向ける。


 針に塗られているのは、蝶の毒。

 本来の蝶の毒は嘔吐程度のもの。

 だがこれは奥戸により改良を施され、最初に刺された痛みだけを感じて命を消すことが出来る針なのだ。


 (どなたか存じませんが、さようなら)


 奥戸は心で呟くと、彼の首に向かって振りかぶった針を思い切り突き立てた。


 ……はずであったのに、奥戸の手は空を切る。

 少年が立っていた所には誰もおらず、目の前には気を失ったつぐみがいるだけ。


「そんな、……馬鹿な」


 幻でも、見ていたというのか。

 目の前のつぐみと針を交互に見ながら奥戸が呟いた次の瞬間。


「馬鹿はお前だよ。ばーか」


 後ろからの声に奥戸が反射的に振り返ると、衝撃で体は横へと吹き飛ばされる。

 床に倒れこみながら奥戸が感じるのは頬の痛み。

 反射的に頬を押さえながら、ようやく殴られたのだと気付く。


「そんな! おかしいだろう?」


 目の前にいたはずの人間が消えたと思えば、後ろに回り込まれていたなんて。

 一体、何が起こったというのだ。

 混乱が収まらず、それでも思考を続ける奥戸に上から少年の声が降ってくる。


「お前のことは後で考える。とりあえずは寝とけよ」


 暗闇の中でほんのりと光る青い光が、少年の足元を照らしている。


「私が。……この私が、こんな少年に見下ろされてるだと?」


 なぜこんな屈辱を、受けねばならないのだ。

 怒りを胸に奥戸は立ち上がろうとする。

 だがその肝心の足が動かず、そのまま転倒してしまう。

 驚いて見た自身の足に「なっ! これは一体」と叫んでしまった。

 いつの間にか足首からふくらはぎにかけて、何重にも革紐が巻きつけられている。

 この紐は、奥戸が店の商品に使用している革紐ではないか。

 

「なぜ紐がここに? それよりも、いつこんなことをされたというのだ?」


 呆けたように呟く奥戸の声に、少年が反応した。


「あ、それ向こうの部屋にあったから借りた。さんきゅ。じゃあな、おっさん」


 つぐみを抱えながら出て行く少年を、奥戸は見送ることしか出来ない。

 静かに閉まりゆく扉が、視界を徐々に塗りつぶしていく。

 奥戸はそれをただ、見ていることしか出来なかった。

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