第30話 冬野つぐみは優しさを知る

 水を流すとつぐみはトイレの扉を開く。

 どれくらい時間が経ってしまったのだろう。

 そう考えながら、なんとか心を落ち着かせて出た先にはシヤが立っていた。


「あ、ごめんね。トイレをずっと使っちゃって」

「問題ありません。洗面台にコップとタオルがありますので、それを使ってください」

「……ありがとう」


 よろよろとした足取りでつぐみは洗面台へと向かう。

 コップで口をゆすぐと、いくぶんか気分がよくなったのを感じる。

 そのまま何度も顔を洗い、鏡を見る。


 ここ数日で何度か見た、ひどい顔が現れる。

 じわりとつぐみの視界が歪んでいく。

 見ていられなくなり、まぶたを閉じてタオルを顔に当てる。

 柔らかな感触にすがるようにタオルを強く握りしめていく。


(困ったな。涙が止まらなくなってしまっているみたい)


 しばらくタオルで顔を押さえたままで動かないでいると、隣から声がした。


「おい、大丈夫か?」


 心配しているであろうヒイラギの声が耳に届く。

 だが今の顔を見られるのは、少し恥ずかしい。

 そう思いタオルを顔に当てたまま、つぐみは声のする方へ向いた。


「はい、大丈夫ですよ」


 タオル越しに、くぐもった返事をする。


「そんなタオルお化けみたいなやつに言われても、説得力ねーんだけど……」


 それが聞こえた直後、タオルが消えた。

 代わりに目の前にはヒイラギの端正な顔が現れる。

 色白な肌に、すっとした一重の瞳。

 見つめてくるその目には、つぐみを気遣う思いが表れていた。


 だが、近い。

 とても近いのだ。

 たちまち自分の顔が、赤くなるのをつぐみは感じる。

 思わず一歩、後ずさりしてしまう。

 ヒイラギもつぐみの動揺した様子に、慌ててくるりと後ろを向いた。


「……いっ、今のは突然で悪かった。冷凍庫にレモンのシャーベットが入ってる。多分、食欲は無いだろうけど。でもそれくらいなら、食べられるだろうからっ!」


 背中を向けたまま一気に話すと、ヒイラギは小走りで去っていく。

 彼は自分を心配していたのだ。

 そう気づくのに少しかかってしまい、お礼を言いそびれたことに気付く。


「気が利かなかったなぁ……」


 思わずぽつりと呟く。


「そうだよなぁ。そこで本当は『俺の胸で泣いてもいいんだぜ』くらいの気遣いは、欲しいところだよなぁ」


 そう言ってうんうんとうなずきながら、洗面台の入り口で品子が立っているではないか。


「えっ、なっ! いつの間にっ」

「え、『そんなタオルお化けみたいな』あたりから、そこの隅っこでですが」

「先生。それはにこにこしながら、話す内容ではないと思います!」


 つぐみの声に品子はにししと笑う。


「ヒイラギはね。急にアイス食べたくなって、コンビニでシャーベット買ってきたんだって。無理はしてほしくないけど、良かったら食べてあげてね」


 品子はそっとつぐみの頭に触れると、廊下へ去っていく。


「ねぇ、ヒイラギ~。チョコのアイス買ってある~?」

「あぁ? お前にやるアイスなどないわ!」

「ひどい! 私が無類のチョコ好きだと知っての狼藉ろうぜき!」


 洗面台の向こうから、賑やかな声が響いてきた。

 それも全部、自分を元気づけようとしているからだとつぐみにもわかる。


 ならば今、自分がすべきこと。

 こんなところでグズグズしていないで、いなくなった人達を見つけること。

 たとえそれがどんな結末だとしても。

 つぐみは、タオルで顔を覆い小さく呟く。


 ――もうこれで、泣き言はおしまい。


 そっとタオルを脱衣かごへと戻す。

 新たな決意を心へと入れ直し、つぐみはリビングへと向かうのだった。

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