第16話 来ない彼女とハンカチ

「痛ーい、痛いよぅ」


 爽やかとはあまり言えない、暑さのせいで空調もあまり効いてくれない部屋で、つぐみは大騒ぎをしながら着替えている。

 品子に送ってもらい家に着いてから、左腕には大き目のばんそうこうを貼っておいた。

 傷は当然ながらえることもなく、痛みを継続してつぐみの脳に送り込んでくる。


 その怪我の時に巻いてくれた、シヤのハンカチを手に取る。

 血が付いてしまっていたので、その場では返すことも出来ず、そのまま持って帰ってきてしまった。

 急いで洗ったおかげで、血の染みは分からない位にまで消えている。

 とはいえ、さすがにこれを返すのも申し訳ない。

 どうしようかと思いながら彼女のハンカチを見つめる。


 青色の綿の生地に、二匹の子猫が音符と遊んでいる可愛らしい絵柄だ。

 ふんわりとした触り心地と、綺麗にアイロン掛けがされているハンカチ。

 これだけでも彼女がとても大切に使っていたのがわかる。


「こんなに大事に使っているならば、やはりこれは返すべきだよね。うん、あと貸してくれたお礼として、新しいハンカチも買ってプレゼントをした方がよさそう」


 今日の学校の帰りにでもプレゼントを買って、改めてこのハンカチにアイロンがけしたら彼女に返そうと決める。


「彼女の家は……、人出先生に聞けばいいよね。教えてもらえなかったら、先生から渡してもらえばいいし」


 やることが決まれば行動開始だ。

 時計の針は、そろそろ家を出なければいけない時間を指しつつある。

 鞄を抱え、学校に向かう。

 

「あ、そうだ。沙十美にきちんと、昨日の事を説明してあげなきゃ。シヤちゃん達のことを、誤解しているんだって教えてあげよう」


 そうして浮かんだあるアイデアにつぐみはにんまりする。


「沙十美に、一緒にハンカチ選んでもらおう。きっと誤解が解けたら、彼女も謝りたいって思うよね。一緒に買物にいけたら、嬉しいな」


 ほのかな期待を胸に、つぐみは学校へと向かう。

 だが沙十美はこの日、学校に来なかった。

 体調不良かと思いメッセージを送ったが、既読もつかず電話も出てくれない。


 二限が終わり休みに入ると、鈴木がつぐみの元にやって来て沙十美のことを聞いて来た。

 彼女の方も、同様に連絡が付かないようだ。

 滅多に話をしないつぐみのたどたどしい返事を気にすることなく、相手をした鈴木はにこやかに去っていく。


(どうしたんだろう。一度、様子を見に行った方がいいかな?)


 講義が終わり、沙十美の家に様子を見に行こうとつぐみは急いで片づけに入る。

 駅に向かうため学校の坂を下っていると、後ろから軽くクラクションが鳴らされた。

 振り返ると品子が、運転席から手を振っているのが見える。

 車をつぐみの横に寄せると、窓を開けて声を掛けてきた。


「やぁ、見つけた見つけた〜! 冬野君。……ってあれ、なんか急いでいる感じだな?」

「あ、すみません人出先生。ちょっと用事があって」

「ん? 何だか顔色がよくないな。何かあったのかい?」

「え、えっと。実は沙十美が今日は休みなんですけど、スマホに電話しても出ないのです。メッセージも既読が付かないので、今から家に寄ってみようかと思って。……ところで先生は何か私に?」

「おう、大有りさ。まず予告通り容器を返すぞ! 糸コンたくさん入れてくれてありがとな~」


 空になった容器をごそごそと自分の鞄から取り出し、つぐみへと差し出してくる。


「あ。でも今、渡されたら迷惑か? 千堂君のところに行くんだったな?」

「いえ、大丈夫ですよ。空だから重いわけでもないですし」


 そう答えると、少し考えた後に品子はつぐみを見つめる。


「なぁ、もしよかったら。肉じゃがのお礼に、千堂君の家の近くまで送ろうか? 場所を知らない私が言うのもなんだけどな」

「いえ、さすがにそれは申し訳ないですから」

「でも今、君は腕を怪我しているだろう? 学校の教材も重いだろうに。正直、私も連絡が取れないというのは、教師としても心配なんだ」


 ここまで心配をしてもらって、無下むげにするのも失礼であろう。

 そう判断したつぐみは品子の言葉に甘えて、沙十美の家まで一緒に向かうことにした。


 昨日と同様に品子へ道を案内する。

 違うところは、案内している場所と品子の態度だ。

 今日は品子はあまり喋ろうとしない。

 沙十美のことを心配しているからだろうか。

 沈黙が気まずくなったつぐみは、何か話題を振ろうと思いシヤのハンカチのことを思い出す。


「先生。実は私、この怪我の件でシヤちゃんにハンカチを借りたんです。もちろん返すつもりなのですけれど、お礼にハンカチを新しくプレゼントしたいんです。それでシヤちゃんのお家って長根町ですよね。もしよかったら場所を教えてもらってもいいですか?」

「……いやいや、いいぞ。そんなことまで気にしなくても。多分、シヤもあげたつもりで渡したんだろうし」


 やはり品子の声に、少しだけ緊張が感じられる。

 昨日の態度とのあまりの変わり具合に、戸惑いを覚えながらつぐみは続けた。

 

「いえ、私の気持ちが収まらないので。でも迷惑になりそうだったら、先生から渡してもらってもいいですか?」

「ん~、そうだな。たしかそろそろあいつ試験期間のはずだから。よかったら私が預かろうか?」

「いいですか? じゃあ、お願いしたいです」

「わかった。ではその際にはいつでも言ってくれ」

「はい。あ、あそこの広いところで止めてもらっていいですか? そこから見える茶色の屋根のアパートの一階が、彼女の家です」

「あぁ、あそこだな。私が一緒に行くと彼女を驚かせるだろうから、車の中で待たせてもらうよ。でも、報告は聞きたいな。一度、こちらに戻るなり彼女の家に留まるつもりなら、連絡が欲しいね」

「はい、多分すぐ戻ってくると思います」


 車を降りてつぐみは一礼をする。

 向かおうとすると、品子が自分のスマホを取り出した。


「すまないが冬野君。今だけでいいから私の番号を登録しておいてくれないか? スマホを手に持って、いつでも私にかけられる状態にしておいてくれ。大げさかもしれないが」

「ご心配いただきありがとうございます。では行ってきますね」


 少し歩き振り返ると、品子がこちらを見ていた。 

 その顔は心なしか青ざめて見える。


(何だろう? 先生は、……怯えてる?)


 その様子に、つぐみに得体のしれない恐怖が起こる。


 スマホの画面に品子の番号が出ているのを確認し、沙十美の部屋の前に着くと呼び出しのチャイムを鳴らす。

 しばらく待ってみるが、返事や彼女が出てくる気配はない。


 家にはいないのだろうか?

 それとも居留守?

 もしかして倒れている?

 そう頭を悩ませていると、持っていたスマホが鳴り出す。

 うわっと小さく呟きながら画面を見ると、品子からの電話だった。

 慌てて通話ボタンを押し、耳にあてる。


「先生。チャイムを鳴らしてみました。でも沙十美が出ないです」

「……そうか。ならば今から電話を切るから、千堂君のスマホにかけてみてくれないか? そのドア越しから、部屋の中で彼女のスマホの呼び出しが聞こえるか、聞いてみたらどうだろう?」

「わかりました。やってみます」

「とても教師が生徒に話す内容ではないが頼む」


 品子の電話を切り、沙十美に電話を掛ける。

 一回、二回とコールが鳴る。

 つまりは電源はまだ切っていないということ。


 周りに人がいないのを確認して、部屋のドアに再び近づく。

 夏の暑さをそのまま閉じ込めたような、熱を帯びたドアに苦労しながらそっと耳を当てる。

 しばらく聞いてみるが、部屋の方からは何も聞こえてこない。

『ごめん、沙十美』と心の中で謝りながら、ドアに併設された郵便受けを開ける。

 そうしてから中の音が聞こえないかと、聞き耳を立ててみる。


 中からは人のいる気配や、スマホの呼び出し音も聞こえてくる様子はない。

 つぐみは玄関に居るのを諦めて、そのまま反対のベランダ側にぐるりと回りこんだ。

 そちらにある窓にも耳を当てて同様に試してみる。

 こうして聞く限り、中からは何も音は聞こえない。

 部屋の中はどうだろうと思い窓を見るが、カーテンで隠されていて室内は見えなくなっていた。


「冬野君! どこだ? いないのか?」


 玄関側から、品子が呼んでいる声がする。


「すみません! 私、今は裏手の方にいます!」


 品子のいる方に戻りながらスマホを見ると、車を降りてから既に十分程の時間が経過していた。

 つぐみを見つけた品子は、ほっとした表情を浮かべている。


「車で待っていると言っていたのに悪かった。君に電話をしても繋がらないから、心配になってしまってね。ついこちらに来てしまったよ」

「すみません。ずっと沙十美のスマホに電話を掛けていたので」

「いや、気にするな。それで千堂君は?」


 額の汗を拭いながら品子が聞いてくる。


「家にはいないみたいです。……どうしたんだろう」

「まぁ、どこかに出かけているみたいだね。このままここにいても仕方がないだろう。心配なのはわかるがね。一度、君は家に帰った方がいい。送っていくよ」

「大丈夫です。自分で帰れますから」

「まぁ、そう遠慮するな。あまり言いたくないが、今の君の顔色は相当悪い。途中で倒れられたら、それこそ私がずっと後悔することになる。それでもいいのかい?」


 品子は真っ直ぐにつぐみを見すえている。

 ここで断って心配をかけるのも良くないだろう。

 つぐみはそう判断する。


「……ありがとうございます。お言葉に甘えていいですか?」

「おう、どんどん甘えなさい。料理が上手で素直な子は先生、大好きだぞー」


 ポンポンとつぐみの頭に軽く触れながら、品子は笑う。

 そこには彼女の優しさがにじみ出ていて、つぐみは重かった心が少しずつ軽くなっていくのを感じた。


「助かります。あ、そうだ! 昨日から作っておいた茄子の煮びたしがあるのです。よかったら持っていきます? 容器をそのまま使って……」

「……冬野君」


 品子の声のトーンが急に変わる。

 見上げた先には、とても真剣な表情。

 その顔は一昨日の別れ際の、あの時と一緒だ。

 その時の言葉をつぐみは思い出す。


『……過ぎた好奇心には、気を付けた方がいいかもしれない』


 つぐみは品子を見上げたまま、何も言えなくなってしまう。

 しばしの沈黙の後、品子がつぐみの肩を両手で掴んだ。

 苦しそうに顔をゆがめてから、大きく息をつき品子は口を開く。


「煮浸しは昨日つくった。つまりは二日目で味が染みていると」

「……はい?」

「か、隠し味とかは使ってるのかい?」

「えっと、はい。さっぱりしたのが好きなので、生姜と叩いた梅干しを入れて作りました」

「……冬野君、いやここはあえて冬野『さん』と呼ばせて頂こう」


 両手をパンと合わせ、つぐみの方を向き拝んでくる。


「二日連続でおすそわけを貰うというのは、いけないということはわかっていたつもりだ。だがっ! 君の言う煮びたしは、私の我慢をするという理性を、軽々と超える力技をもって私に襲い来る。しかも梅干しの隠し味ってどんな味がするのかなぁ! って考えたらっ……!」


 つまりあの苦しそうだった表情は、煮びたしのことを考えていたからだと。

 あまりに予想外の答えに、張りつめていた空気が一気に緩みつぐみは思わず笑いだす。


「あはっ、あはははは。先生! 味の保証はないですけど、たくさん作ってあるから持っていって下さい」


 その後、つぐみは家まで送ってもらった。

 そうして至福の笑みを浮かべ、煮びたしの入った容器に頬ずりすらしかねない品子を道路まで見送る。

 部屋に戻ったつぐみは再び、沙十美のスマホに電話をかけてみる。

 コール音が流れることなく、無機質な声で電源が切られていることを伝えるアナウンスが流れだした。


「どうしたんだろう、沙十美」


 ぽつりと不安が零れる様に、つぐみの口から言葉が漏れた。

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