第18話 υ10月16日
来客を知らせるインターフォンが家中に鳴り響く。
膝を抱えトイレの隅に踞っていた言ノ葉は恐る恐る顔を上げ立ち上がりトイレからでて、電子画面に映ったその姿を見て、玄関の扉を開ける。
「遅くなって悪かった」
「八重……くん!遅いわよ!」
言ノ葉にとっては腹立たしくも、何よりも安心出来る存在は、この瞬間だけはありとあらゆる不安を払拭してくれた。
「それで早速だが事情を聞かせてくれ、何があったんだ?」
「……とりあえず中に入って」
泣き腫らした瞳と何度も擦った頬には、薄らと赤みを帯びており、八重の手を引く指も微かに震えていた。
玄関で靴を脱ぎ、硯家で座るであろうリビングの椅子の一つに座り、八重の対面に言ノ葉も着席する。
対面の言ノ葉には、何時もの強気な姿はなく、沈鬱と瞳を伏せ、黙ったままポケットに丸め込んだ一枚の紙を八重に手渡した。
「……広げてみても、いいのか?」
力無く頷いた言ノ葉に、八重は破けない様慎重にその紙を元の状態へと戻す。
裏と表、全ての確認を終え、机の上にその紙を置く。
登校時間は今しがた遅刻のリミットを超え、どんなに急いだところで遅刻は免れないだろう。
だが遅刻しようとも、此処に来て良かったと八重は思う。
「これは、今朝来たのか?」
「わかんない……登校しようとした時に……ポストに入ってた……」
ポストに入っていたという事は、これをした人間は言ノ葉の家を把握しているということだ。
「この事は、言ノ葉のご両親には話したのか?」
「話してない……こんな事、話せないわよ……」
「なら警察はどうなんだ?こういう事件ならまず警察に相談するのがいいんじゃないのか?」
「前回もそうしたわよ……でも、誰かも分からない事に警察は首を突っ込まない。警察に行っても、大した事はしてくれないのよ……」
両親に話していない。
そして警察も当てにならないという事は、つまり言ノ葉を助けられる人間が極端に少ないという事だ。
「これをやった人間の目星は?」
「ついてる訳がないじゃない!」
涙を浮かべ、机を叩き付ける言ノ葉は、向けるべき憤りのやり場を失っていた。
当然いえば当然だ。
これでは最初からやり直しをさせられるよりたちが悪い。
「だろうな……だが、これでハッキリした。つまり今の現状が指し示すのはお前が解決すべき一件はまだ終わっていなかったという事だ」
残酷かも知れないが、これだけは明確にしておくべきだ。
そして今、彼女が最も受け入れ難い現実でもある。
「……ねぇ、なんで?教えてよ八重くん!八重くんは未来を知ってるんでしょ!なんで私ばっかり……折角手に入れたのに、こんなの、もう嫌よ……もうなにも、失いたくない……」
こんな時、気の効いた言葉の一つでも掛けられたなら、どんなに良かっただろうか。
薄暗いリビングで向かい合いながらも、嗚咽を堪える彼女に八重はかける言葉が見つからない。
だが、八重自身に言い聞かせるべき言葉は知っている。
あの場所で死に、八年前に戻って来た。
そして今、彼女は自分の死に怯えている。
「私、また死ぬのかな?それで、また意味の分からない退屈な時間を永遠に繰り返したりして……そしたら、もう八重くんも一度目の私の繰り返しの中に入っちゃうね……」
思い出すのは、地獄の様な繰り返しの日々。
この十六日間が、言ノ葉の一度目とされるなら、死を回避した十月一日時点からの十六日間、つまり今日までの日々が一度目ということになる。
そうなれば、八重はもう言ノ葉を繰り返しの日々から助け出す事はできない。
何故なら繰り返しをした時点で、未来からやって来る八重は過去になってしまう。
だが、そうであるなら答えは一つだろう。
「簡単だ、お前が死ななければいい。もうお前が死ななければ繰り返しは起こらない。そして俺も同じ過ちは繰り返さない」
八年前の十月一日
今の八重がまだ十七歳の頃、彼女は刺され八重の目の前で落命した。
余りにもあっけなく、こんなにも人が簡単に死んでしまうのだとあの時八重は初めて知ったのだ。
そして、あっけなく失われていい命など、八重の知り合いに存在しない。
今の八重は見ているだけで、一歩が踏み出せなかったあの頃とは違う。
必要な技術も、記憶も未だに八重の中に蓄えられている。
なら、八重は出来る事をやるだけだ。
「俺達でこの相手を見つけ出す。そしてお前は死なない。そうすれば全て解決だ」
それは言ノ葉にとっては何と魅惑的で手を伸ばしてでも掴みたい言葉だろう。
だが、それが簡単でない事を言ノ葉は知っている。
「そんな簡単に出来る訳ないわよ……私がどれだけの時間を繰り返しても見つけられなかったのよ?」
「出来る出来ないではない。これは決定事項だ。でなければ、俺が死んでまで此処に来た意味がない。この戦いは俺の死を無駄にしない為の戦いでもある。なら俺も、お前のために全力を尽くそう」
八重に訪れた死も、余りにもあっけなかった。
余韻も情緒もない『死』という一つの経験を、無駄にする訳にはいかない。
それこそ、ここに来て意味まで無くしたのなら目も当てられない。
そして、何よりいの一番に此処に呼ばれた意味が分からない八重ではない。
「それにお前は俺を信頼して此処に呼んでくれたんだ。なら俺もその信頼に応える義務がある」
何故こんなにも言ノ葉の事が気になっているのか、八重自身にも分からなからない。
ただ、このままでは『硯 言ノ葉』という一人の女性は、大筋は違えど今の大見八重の知る死の運命を辿る事になるという事だけは分かる。
「分かる……これから先の事を、俺は知っている……?」
辿る運命……
とそこまで考えて、八重は一つ秘策を思いついた。
「成る程……お前は比較的幸運だったな。俺はこれからの未来を知ってる。それはつまりこれから起こることが概ね分かってるという事だ」
未来を知っているという事は、ある意味これは光明だった。
言ノ葉の居ない未来を知っている事は、これ以上ない言ノ葉を救い出す手がかりになるだろう。
「でもそれって、私の居ない未来の事なんでしょう?それじゃ意味がないじゃない……」
「そうだな、確かに俺が知っているのはお前の居ない未来の事だ。だが、俺がお前の居ない未来を知っているからこそ、この紙を書いた犯人の目星がつくかもしれない」
言ノ葉は分からないと、首を傾げ話の先を促して来る。
「分からないか?俺は十月一日以降の『硯言ノ葉』が居ない未来を知ってる。それはつまり今のお前『硯言ノ葉』の居る現在と、八年前のお前『硯言ノ葉』の居ない世界で人々の生活にズレが生じている。そのズレの中には当然俺や信吾、それに京子も含まれているがこれはつまりお前が生きていてズレの生じる人間は、お前に対して関わりのある人間という事だ」
「じゃあ、それって……」
影の落としていた言ノ葉の表情に生気が戻る。どうやら、八重の考えが伝わった様子だ。
「そう。お前を中心に、お前と関わっていたいと思う人間には多かれ少なかれ俺の知る歴史から誤差が生じる。そこに犯人の手がかりが在る」
「でもそれって、八重くんがずっと私と一緒に居ないといけないんじゃないんじゃ……」
「気にするな、お前に死なれては俺も寝覚めが悪い。それに友人の恋の仲間を増やすには持って来いの恩を売れるなら、それも悪くないだろう」
言ノ葉は視線を手元の一点に集中させ、申し訳なさと、縋るしかない願いが重なり合う表情を浮べている。
しおらしいその姿に何処と無く笑いが込み上げ、喉の奥で小さく処理したが、非難の眼差しを飛ばして来るところを見れば、押さえた笑い声はしっかりと聞こえていたのだろう。
「すまない、別に今の言ノ葉の置かれている状況が面白くて笑ったんじゃない。お前のその珍しい落ち込みが妙に面白くてな」
「私が落ち込んでいるのがそんなに楽しいわけ?」
「そう、睨むな。そもそもお前の心配のし過ぎということもあるだろう?確かにあの時、受けた一撃は致命傷だった。だが今回の相手が言ノ葉に危害を加えて来る可能性は果たしてどの程度なのか考えてみろ。確かに最悪を想定するのは意味がある事だが、その起こるかどうか分からない最悪で動けなくなってしまっては元も子もないだろう」
八重の言う事は気休めにもならないが、居るかもしれない影に、四六時中怯えて居たのでは無意味なやり直しをしていた時と変わらない。
「お前は今までと変わらずいつも通りの日常を送ってくれ。鬱陶しいかもしれないが、俺は片時も離れずお前の傍に居て、俺の知るこれから先の未来との差異を見つけてみせる」
「……私そこまで八重くんにして貰っても、何も返せないわ。それに、今の八重くんは自衛隊でもない。誰を守る義務も無い八重くんがまた危ない目に遭うかもしれないんだよ?それなのになんで八重くんは私を助けてくれるの?」
単純な疑問だったのだろう。
自分の時間を使い、これと言った見返りもなくあまつさえ自身を危険に晒す行為だ。
誰もが避けたいと思うのは当然だろう。
……そう、当然の筈なのだ。
八重にとって、ただ困っている人を助けるという極々自然で有り触れた当たり前の感情で、その感情の発露が何処から来たものなのかを問われた時、八重はその答えを失っている事に気が付いた。
「……分からない」
「分からないって、なによそれ……」
「いや、何故なんだろうな、俺にも分からないんだ……」
記憶の隅の隅まで思い返していく途中で、真っ黒に塗りつぶされている記憶に辿り着く。
そして、その記憶は絶対に忘れる筈の無い記憶だったと、思い出せるにも関わらず八重はその記憶をどうあっても思い出せない。
「俺は、何故お前の名前を思い出せなかったんだ?」
「そんな事、突然私に聞かれても分からないわよ」
その通りだ。
言ノ葉へ聞いた所で、これは結局八重自身の問題である。
問題……
そう、これは問題だ。
なら、気が付いた一番の問題とは一体なんだったのか?
それは、自身が自衛隊となった理由の根幹を担う少女の名前を最初に言葉を交わした時、思い出せなくなっていたことだろう。
此処に来て、言ノ葉に問われて初めて気付いたのは、巧妙に記憶の隙間を埋められていたからに他ならない。
今思い返せば、その違和感を如実に八重は思い返す事が出来る。
何故、硯言ノ葉を助けた?
何故、父親をあんなにも必死に病院へ連れて行こうとした?
何故、白米だけの弁当を美味いと感じるのか?
何故、何故、何故?何故なのか?
思い返す事が出来た筈なのに……
今は思い返す事ができなくなっている。
使った記憶が消去されて行くかの様にそれは少しずつ削られていったからこそ、八重はその違和感に気付けなかった。
だが、今は覚えていない記憶を何処まで覚えていたのかは覚えている。
前触れもなく、突然記憶が脳内から消えたなら流石に八重も気が付くだろう。
なら、問題はその前後にあった事……
それは間違いなく、『左目の痛み』である。
左目が痛むと、その視力は、十七歳の自分の持っていた視力へと近づいていく。
そして痛み、視力が戻ると共に、八重は持っていた筈の十七歳からもっと言うなら『硯言ノ葉』を助けた10月1日から先の記憶を失って行っている。
それが現す事はつまり一つだ。
「今の俺は十七歳の……つまり、本来の俺に戻っているのか?」
「……突然なんなの?戻るってどういう意味?」
懐疑的な視線を寄せて来る言ノ葉だが、八重にとっては確信に近い結論だった。
「情けない事にさっき言ノ葉に聞かれるまで気付けなかったが、俺は色々な事を忘れ初めているんだと……思う」
現在から八年先の未来で経験した出来事は、山ほどあった。
それこそ八年間の記憶は忘れ去ろうとも忘れ難い記憶ばかりだったという、この時代に来てから思い返した感情としての記憶は残っている。
にも拘らず、感情に結びついていた詳細な記憶が思い出せない。
「だと思うって……それで良く戻ってるなんて言えるわね」
「俺自身上手く言葉では表現出来ないんだが、俺が現在の過去に戻って行動として来た事が、此処から未来に起きる事とすり替わってる。つまり、俺の未来が変わって俺が今まで経験して来た事を覚えていられなくなって来ている、という事だ」
此処に来て二週間とちょっとが過ぎた。
殊更に思い返せば、合点が行く事の方が多い。
思い返せず、思い返そうとする隙間もない程、完璧な記憶の隠蔽だった。
そして何より、この生活が普通だと思い始めている八重自身が何よりも異質である事に気付く事すら出来なかった。
「とは言っても、俺自身まだ覚えている事の方が多いのが現状だ。それに此処から先の未来はまだ俺の記憶の中にある。お前をストーカーしている犯人を見つけるまでは意地でも忘れたりしない。それに俺のこの問題に根本的な解決方法はない。だがお前の抱える問題はそうじゃないだろう」
欠落している多くの記憶は、八重の両親と自衛隊時代に培った物が大半を占めていた。
「俺はまだ大丈夫だ。それよりストーカーに狙われているお前は此処から先に繰り返しが起きる確約はない。一度のミスで最悪の事態を招く結果になれば、取り返しがつかないだろう」
人の命に関して取り返しが付く事など無い。
だが幸か不幸か言ノ葉はその命を何度も取り返し、繰り返してきてしまった。
「お前は、繰り返しが怖いと言うが、それよりも先に繰り返せない可能性を考えた方がいい。お前にとって当たり前になっているのかもしれないが、普通死んだ人間はもう二度と人生をやり直す事なんて出来ないんだ」
余りにも当たり前で、当たり前ににも関わらず忘れていた事を言ノ葉突き付けられる。
繰り返す事に憔悴していた反面、言ノ葉は繰り返す事に依存していたのかもしれない。
嫌だと声に出しながらも、最悪を回避出来る最悪の方法に縋っていた。
「お前はこれが最後だと思え。これから先お前が望んだとしても、もう同じ時間は生きられない。お前は今を精一杯生きて、此処に生きる全ての人間と同じ様に向かって来る死に抗う必要がある。……あぁ、そういえば最初に俺に教えてくれたのは、お前だったな」
八重が過去に来たばかりの頃、言ノ葉にそう言って叱られたのを思い出す。
「来るかどうかも分からない火の粉に構える人間は馬鹿だが、何時か来ると分かっている火の粉に対処をしない人間はもっと馬鹿だ。そして何もしない馬鹿は、何処に居ても生き残れない。言ノ葉、お前は今を生き残りたいんだろう?」
八重の確認に僅かに前に頷いた言ノ葉を見て、八重は床に置いていたバッグを拾い上げ、座ったままの言ノ葉の腕を引っ張り上げた。
「ちょっと!急になによ!何処に行くつもりなのよ!」
「何処にも急も、学校に行く。さっきも言ったが俺には時間がない。それに、お前だって一秒でも早くこんな理不尽から解放されたいだろ?」
遅くなればなるほど、八重の知る未来の記憶は失われていくのだろう。
そしてその原因は目の前の少女にこそある事を八重は理解していた。
八重自身が築き上げてきた八年間の記憶の根幹を担う彼女の喪失こそ、八重の八年の在るべき姿だ。
そして『硯言ノ葉』が生きている限り、硯言ノ葉が喪失している八年『大見八重』の記憶は失われていく。
ならば、大見八重はこの記憶が失われるまでこの先にある未確認の未来に抗わなければならない。
それは単純な理屈だろう。
八重の持つ未来の記憶は即ち、硯言ノ葉が失われた記憶。
であるなら、この記憶が残っている以上、硯言ノ葉が失われる可能性のある未来が残っている事に他ならない。
だからその前に……
「俺が絶対にお前を未来まで届けてやる」
ずっと昔に願った事は忘れない。
これは記憶ではないから、
ただ一つだけ、
失われない記憶を、どうにか想い続けて繋がりを保つ後悔という名の八重の願いを、確かに思い返すのだ。
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