第16話 10月15日

十月十五日水曜日放課後。

言ノ葉、八重、信吾の三人は『life for reversibles』送られた

京子『暇な人は、放課後四階集合』

のメッセージを頼りに、美術部の部室である別棟四階の屋上前踊り場に集まっていた。

京子は隅に重ねられた椅子を人数分、円状に配置していく。

全員が促されるまま座席に座りれば、開いている窓から、季節外れの熱風が入って来た。

集まっている全員がブレザーを脱いでいる所を見るに、今日の暑さは説明するまでもない。

「あっつい!何だよ今日は!急に暑くなりやがって、暑くなるならそう言ってくれないとよう、こっちも準備ってもんがあるからなあ?八重!」

今日の熱気と相まって、存在が暑苦しいと思えて来る信吾が、ブレザーを脱いでも足りないとズボンを膝まで捲り、行儀悪くワイシャツの裾を出すが今日ばかりは誰も咎める事は無い。

それ程までに今日の気温は十月としては稀に見る猛暑日だった。

「確かに……蝉が鳴いていないのが不思議なくらい暑いわね……」

暑さに弱いのか、言ノ葉も優等生然とした態度を崩し、椅子に浅く腰掛ける。

「コレばかりは仕方が無い、諦めろ」

八重は半袖を着て、半分解けた保冷剤を額に当てている。

「つうかよう、何で八重そんな準備がいいんだよぅ……ブレザーの下に半袖着て来るとか、保冷剤持って来るとか……いろいろ準備おかしくねえ?」

「そうね……教室でも妙に八重くんだけ、快適に過ごしてたものね……」

おでこに貼った熱冷ましに、首に巻いた冷感タオル。

まだまだ融けない保冷剤を見れば、今日の為に八重が対策をとって来た事は一目瞭然だった。

「知っていたからな、今日が暑くなるのは」

今日の熱波は記録的な物となった為、八重の記憶でも特にこの日は印象的だった。

それに加え、設備点検の為集中管理されているエアコンが使えず、今日だけは授業中の水分補給と購入が許されるという異例の事態となった。

そのため八重は、暑さ対策を万全に整え今日の熱波に備えていたのだ。

「最初に、言いなさいよ!何で知ってて……いわないの……よ……あつぅうぃ……」

「ずりぃ……何でだ八重……言ってくれてもいいじゃねえかよぅ……」

感染末期のゾンビの様な緩慢な動きで、決して逃れられない暑さから逃げようと横に座る言ノ葉と信吾は、椅子に座りながらのたうっている。

「職員室前の掲示板に設備点検の有無は乗っていた筈だ。それにこの暑さは昨日の時点で天気予報によって予告されてた。つまり誰でも知る事の出来た情報の組み合わせと言える。情報収集を怠った二人の怠慢だ。分かったら大人しく諦めることだ」

だが二人の批判は留まる事はなく、もう一人の暑さ対策を行っている京子へと向いた。

「京子も、なんでそんなに涼しげなのよ!こっちはこんなに暑いのに!不公平じゃない!」

暑さでイライラが頂点に達している言ノ葉の言葉は、単なる逆切れに近いが京子は何も気にした様子はなく、むしろ呷る様に取り出した内輪で自らの顔を扇ぐ。

「私は八重くんに教えて貰ったさね、むしろ二人は教えて貰えなかったんだねえ、おやおや可哀想だねえ」

二人の非難の視線は当然八重に戻って来る。

「語弊があるから伝えておくが、今日の熱日で俺の知る『荒木 京子』は途中で具合が悪くなって帰ってしまった。だから教えた。それともお前達は京子の具合が悪くなる事を望んだのか?」

「そんな訳ないじゃない!でもそれとコレは話が別よ!何で私達には何も言わないわけ!狡いじゃない!卑怯よ!」

「そうだぜぇ八重ぇ……こんなのあんまりだぜ」

「お前達は身体が丈夫だからな、今現在も元気に悪態を付いているじゃないか。何ら問題はなさそうに見えるがな」

「誰が身体だけが丈夫な、がさつな女よぅ……」

「誰が身体だけでかい木偶の坊だよぅ……」

もう座るのも億劫だと二人は背もたれにしなだれ掛かり、こちらを見ようともしなくなった。

「そこまで言ってない。京子はお前達と比べて身体も小さく筋肉総量も代謝も低い。そうなれば必然体内の温度管理が苦手と言える。総じてお前達より繊細な身体をしていると結論付けられる、であれば……何をする京子」

色素の薄い肌に青筋を立て、枝の様な細い腕で八重の胸にポカっと握りこぶしを叩き付けた。

「何をするじゃないねえ!八重くんは何を言ってるんだい!」

「何の話題をしているのかと聞かれたなら、お前の身体の話をしている」

「何で勝手に人の身体の話をしているんだい!やめておくれよ!恥ずかしいじゃないかい!」

「すまない、どうやらデリカシーに欠けた発言だったようだな」

「この!この!」と京子は人生最大の連打を繰り出すが、八重が手首の心配をする始末だ。

「ねえ京子……怒るのは後にして、そろそろ暑さに耐えられないから、なんで私達此処に呼び出したのか……聞いていいかしら?」

言ノ葉は半分程の温くなったペットボトルに入った水を片手に、疲れ果てたボクサーの様に頭にタオルを被せていた。

見かねた八重は、バックから最後の保冷剤を取り出し、言ノ葉と信吾それぞれに渡していく。

「最後の清涼だ、脇と太腿の付け根、それから首回りを重点的に冷やせば三十分は使える」

「あっ……ありがとう……意外に優しいのね」

「お!サンキュウ!八重!」

「気にするな、困った時はお互い様だ」

八重が保冷剤を配り終え、自分に宛てがわれた席に座れば、全員の視線が京子へと集まった。

「じゃあ、話を始めようかねえ。今日集まったのは、他でもない八重くんの話さね。まず八重くんその眼帯外してもらっていいかい?」

京子から促されるまま、八重は眼帯の結びを解く。

「やっぱり、八重くん大分良くなったみたいだねえ」

「……俺はお前達の前でこの結び目を解いた事は一度しかない筈だが。京子お前は何時から気付いていた?」

「正直なことを言えば、今こうして見るまで確証はなかったのさ。ただ、階段の昇り降りと歩くスピードに少しだけ違和感があったのさ。学校じゃあ八重くんは頑なまでに眼帯を外さないからねえ、今此処で見るまでは正直賭けだったさね」

「……そうか、だがいい機会だ。こっちとしても外すタイミングを逸していた所だったからな」

八重は左目を開き、見る具合を確かめる。

右目と比べ著しく視力が落ちている左目の視力はやはり本調子とは程遠いが、左目は確かに光を写し、物の実像をぼんやりと浮かび上がらせるまでに回復していた。

「life for reversiblesと言ったか?成る程、恐ろしい組織だ。よもやここまでとはな」

「私達、八重くんに何かした記憶がないわよ?」

「お前達に無くとも、左目にとってはそうではないということだ。なにせ左目は八年後の未来だ。お前達は図らずも着実に俺の未来を変えているという事だろう」

八重の左目は八年後と通じている。

左目が治るということは、八重の左目を失う未来が変わってきていると言う事だ。

「そう……それは良かったと、思っていいのよね?」

「お前達が企画したことだろう?俺に良い悪いの判断を委ねるのは間違っているんじゃないのか?」

滴りそうになる汗の玉を、少し長めの前髪をかきあげて拭う。

いつも通りの表情で、いつも通りの言葉で、八重は自身の事を他人事の様に語るのを聞いて、三人は内心面白くない。

「他人事みたいに喋ってるけどよ、皆お前の為に集まってんだぜ?それにお前その左目が見える様にならなけりゃお前自身が八年後の未来で死んじまうかもしれないんじゃねえのかよ?」

八重以外全員の気持ちを信吾は代弁した。

信吾の言葉を肯定する沈黙の中で八重は垂れる邪魔な前髪を耳に掛ける。

「それこそ問題はない。変えようとして変わるならまだしも、変えようとせず変わっている今の現状、お前達と関わっている限り俺は死ぬ事はない。だから、それは……つまり……」

余りにも唐突な八重の沈黙に、先を求める視線が集中するが、珍しく八重はその先を言い淀む。

「どうしたんだ?つうか、こいつなんか恥ずかしがってねえか?」

「本当だねえ、少し耳が赤くなっているねえ」

「へ〜八重くんでも恥ずかしがる様なことがあるの、それは俄然、今の言葉の続きが気になるわね」

底意地の悪い人相を浮べた三人は、弱っている事を良い事に八重の顔を覗き込む。が対照的に八重は全員に向かって頭を下げた。

「お前達が俺の命綱になっているということだ、だからこれからも……いや、この後の俺もよろしく頼む」

深々と、パフォーマンスではない感謝を告げる為のお辞儀だと、分かる九十度に頭を垂れた謝辞だ。

「なっ、別に私達が何かした訳じゃないんだから、別に頭を下げる必要もないわよ」

「そっ、そうだぜ、八重!今更改まって堅苦しいって!そこまで誰も責めてないから大丈夫だぜ!」

「そうか……だがよろしく頼む。俺はきっと死にたくはない」

暑さのせいか、言ノ葉と信吾は気付かなかったが、京子違う。何故だと思うまでにコンマ一秒とかからなかった。

「八重くんどうしてそんなに他人行儀な言い方なんだい?八重くんの事を話しているんじゃないのかい?どうして『筈』とか『後の』なんて言葉がでるんだろうねえ?」

八重は自身の思考に問い直し、それでもその理由を見つける事が出来なかった。

「……済まない、何故か自然とその言葉になってしまった」

ただ単純に思った事を口走ったと、首を傾げる八重に京子は言葉にならない苛立ちを覚える。

「私は理由を聞いてるんだけれどねえ、そうかい、選んだ理由も分からない言葉があるんだねえ……」

滲む感情に次いで出ようとする京子の言葉を信吾は遮る形で言葉を紡いだ。

「言い回しの違いじゃねえの!?この暑さだしさ、あんまり八重も頭回ってないんだよ。頼む!この通りだから許してやってくれって、な?それにちょっと休憩しようぜ?この暑さじゃ皆が苛立つのも分かるしさ!」

務めて明るく振る舞ってみせる信吾に助けられてしまった形になり、八重は自分のバックから飲み物を取り出して底数センチに溜まった温いお茶を飲み干せば、隣に座る言ノ葉も丁度水を飲み干した所だった。

「来て早々に済まないが、飲み物を買って来ていいか?」

「水分補給は大事さね、早く行ってくるといいよ」

京子の許可を得て八重が席を立つと、次いで言ノ葉も空のペットボトルを振って見せた。

「あっ、私も行く、京子は何か飲み物いる?」

「じゃあ、冷たいレモンティをお願いしようかねえ」

「了解、太田くんは……水筒だから、要らないかな?」

カポッと飲み口を開けて、喉を潤している信吾はグッと親指を立てて見せるが、言ノ葉の問いに関する肝心の返事が返って来ない。

「はいはい、水筒が凄いのは分かったから、とりあえず飲むのやめてくれるかしら?飲み物は要るの?要らないの?」

「まだいっぱい入ってるから、大丈夫だぜ」

「あっそ、じゃあ八重くん行こうか」

素っ気ない態度で、言ノ葉は階段を降り、続いて八重も階段を降りていく。









屋上四階に二人で残された信吾と京子だったが、信吾は何かを気にした様に視線を左右に振り何処と無く落ち着きがない。

「どうしたんだい?何か気になる物でもあるのかい?」

「あっ……いや、そうじゃなくてさ……そうだ!荒木さ、文化祭に出展する絵はもう出来たのか?そういえば一年の時も絵描いて何かスゲエ賞貰ってたよな!」

「そうだねえ、昔の話は好きじゃないのだけれど、一年の時の文化祭の絵は我ながらいいものだったねえ。ただ今回の絵はちょっと問題があってねえ、正直筆の進みが芳しくないのさ」

問題を語っている京子の口ぶりに深刻さは見当たらない。

むしろ楽しんでいる節すら感じさせる声音に、信吾は少なくない不快感を抱く。

「問題ってなんの?荒木が絵を描けないとか、そうなると文化祭の出展とか諸々ヤバいんじゃねえの?」

昨年の文化祭を体験した人間ならば知っていることだが、様々な関係者が一年度に描いた京子の絵を見て、絶賛した。

なればこそ、二年となり更に腕を磨いた『荒木 京子』に注目が集まらない訳がない。

「私は今絶賛スランプ中さね、注目するのは勝手だろうけど、出す事まで前年度に確約してないから、別に今年はまぁ、どうでもいいじゃないかい?」

「どうでもいいって!それ大丈夫なのかよ!お前の絵楽しみにしてる奴いっぱい居るんだろ?そいつらだってお前の絵を待ってるんだぜ!?」

信じられない京子の言に、信吾は攻める様な言葉を吐き出したが、京子は煩わしいと軽く手を振って見せる。

「うるさいねえ、私はそんなの知らないよ。そいつらも勝手に楽しみにしてるんじゃないのかい?私が楽しみにしていてくれと頼んだならまだしも、勝手に楽しみにしている人間に、私が責任を果たす必要があるのかい?」

「そりゃ、そうかもしれないけどさ……でも楽しみにしてくれてる人が居るなら、普通期待に応えたいもんだろ?」

「それは私の普通じゃないさ。誰かの思い描いた予想に添って私が作品を仕上げる道理はないんじゃないのかい?それに今の私は別に色んな人に見てもらおうと思って作品を描いていないのさ。そんな私の作品で楽しんでもらおうなんて、そもそも烏滸がましいと思わないかい?」

京子の首筋に汗が滴り、僅かに濡れたワイシャツがその向こう側の華奢な身体を浮き上がらせる。

信吾自身の据えた汗の匂いと別の香りは交互に鼻孔をくすぐり、頬が赤くなった信吾の思考を鈍らせる。

「べつに……烏滸がましいなんて、思わねえよ。誰の為に描いたって、荒木が描きたいって思ったものなら俺は見たいと思うし……つうか俺は見てえよ」

「そうかい、でももう先約がいるんでねえ、まぁその次なら見せていいさね」

一瞬信吾の息が詰まったが、京子はそれに気付く事はなかった。

一年の文化祭からずっと、信吾は『荒木 京子』を目で追っていた。

追っていることに気付いて信吾は彼女が好きなのだと悟った。

信吾の中で京子を気にする様になった切っ掛けだったか今でも、よく憶えている。

「覚えてるか?一年の時、文化祭に出すお前の絵を初めて見たの誰だったか……」

あの時の事を信吾はずっと忘れない。

あれはきっと単なる偶然が招いた結果で、信吾だけが特別だったなどとは思わない。

けれど……

それでも、信吾は信じたかった。

あれは、丁度一年前。

美術室に居た彼女は今よりずっと髪が短く不機嫌を隠そうともせず一人居残りをしていた京子に、部活終わりの信吾は声を掛けたのを思い出す。







クラスメイトでもなんでもなかった当時の信吾と京子の仲は、他人同然で信吾が声を掛けた開幕一番に警戒を露わにされた事が印象的だった。

『なんで、一人で居残りしてるんだ?』

そんな一声を掛けたのを覚えている。

そうすると京子はもっと不機嫌そうにこう言ったのだ。

『他の人間が、先に帰ったからに決まってるさね』

『絵描いてるのか?』

『見て分かる事を一々聞かないでくれないかい?悪いけど、今は集中したいから用事がないならさっさと消えてくれるかい?』

初めてはそんな短い言葉を連ねた出会いだった。

信吾からすれば印象は最悪とまでは行かずとも、最悪の一歩手前だったと言える。

そして、次の日も、その次の日も彼女は不機嫌そうに居残りをしていた。

だから連日信吾はその横顔に声を掛け、素気無く返される日々が続いた。

『なあ、何でそんなに何時も何時も不機嫌そうに一人で居残って絵を描いてるんだ?』

そんな最中のある日、信吾は何の気無しにそんな質問を投げかけた。

すると京子は珍しく筆を置き、視線だけ信吾を見て……

『あんたみたいなお喋りが、この美術室にも居るからさね。言ノ葉ちゃんに言われて部活に入ってみたけれど、こんな事なら部活なんぞに入るんじゃなかったねえ』

初めてこの時信吾はこの、『荒木 京子』との会話に成功した。

『お前の集中出来る環境があればいいのになぁ』

『なら私の集中出来る環境の為に、今すぐ消えてくれないかい?』

彼女が仄かに、微笑んだ様な気がして、信吾は少しだけ胸の奥に温かさが宿った来たがした。

『へいへい、分かりましたよぅ、今消えますから安心して作業に勤しんでくださいよ〜』

戯けてみせて、何事もなかった様に振る舞ってその次の日も、そのまた次の日も京子ヘ会いに別棟一階にある美術室へ顔を出した。

そしてあの日がやってきた。

忘れもしない、

『太田 信吾』という人間に『荒木 京子』が刻み込まれた日だ。

その日は何故か、何時も見る京子の横顔が何時もより上機嫌だった。

晴れやかだったと言って言いだろう。

いつも通り静かに美術室の扉を開けると、その上機嫌は少しだけ不機嫌になった。

『なんだい、今日も懲りずに来たのかい?まぁ毎日皆勤賞でご苦労な事だねえ』

『もう俺にとっては日課みたいになってるからな!それで?今日は調子がいい感じじゃねえ?つうか何か何時もより上機嫌じゃん』

此処まではいつも通りの『荒木 京子』で……

そして此処からが何時とは違う『荒木 京子』だった。

『そうさね、丁度今これで終わるから、暇なら黙ってそこで見てるといいさね』

いつもなら、二の句を継ぐ事無く、この部屋を追い出されて居たのだが、この日はそうならなかった。

『……居て、いいのか?』

気遣う様に尋ねた信吾に、視線をくれる事無く、京子は筆を走らせながら口を動かす。

『黙っているなら、居ても良いさね』

信吾は入り口、入ってすぐの席に腰を下ろし一心不乱に紙に向かう京子の姿を眺めていた。

アクリル絵の具の匂いが充満する、斜陽のキツくなった美術室に筆を走らせる微かな音と壁掛け時計の秒針が交互にリズムを刻む。

どのぐらい経っただろうか?

しっくりと描く彼女の姿を信吾は永遠に見ていられる気さえしていた。

一分或は一〇分程度だったか?終わりの合図は京子が顔を上げた時。

汗を拭おうと京子は手で顎を擦り、緑の一筋の一線を自身の顔に描く。

『さぁ、出来たよ。感想を聞かせて欲しいねえ、お前さんがこの絵の一番乗りだ』

信吾は今まで見た事の無い無邪気な笑顔と、何時もより強引な京子に腕を引かれて、信吾は絵の前まで引っ張って連れて行かれ……

その絵を見て言葉を失った。

『どうだい?私の子さね。自慢の子供はやっぱり見せたい相手に一番に見てもらいものさね』

信吾にとって『荒木 京子』は特別ではなかった。

だがこの時から『太田 信吾』にとって『荒木 京子』は特別になった。

『これって……すげえよ!俺、美術とか全然わかんねえけどよ!お前のこの絵はすげえ!俺よくわかんねぇから、上手くは言えねえけどさ!多分お前天才だって!』

信吾は、この時自身の語彙力の少なさが何よりもどかしかったのを覚えている。

でもこの感動は……

彼女の苦悩を少しでも知る信吾自身が伝えなければいけないと思ったのだ。

『そうかい?いやぁ照れるじゃないかい……あっ……そういえばアンタ名前なんて言うんだい?聞いていなかったねえ』

『え?俺の名前?そういえば言ってなかったな、俺は太田信吾!バスケ部の一年だぜ』

『そうかい、私も一年生だよ。美術部の一年、荒木京子さね。それにしても身長が大きいから先輩だと思ったけど、同じ一年ならもっとしっかり追い返せば良かったねえ』

しっかり追い返されていらと思うと、怖くも感じる信吾だが、今はそんなこすらどうでもよかった。

『なんだよそれ!つうか、俺が来たから完成した様なもんじゃねえ?俺に感謝してもいいんだぜ?』

『言い得て妙だけれど、でもちゃんと終わったのはアンタのおかげさ。太田くんが来たから私も投げ出さないで此処に居続けられた、完成したのは太田くんのおかげさ。毎日追い返して悪かったねえ』

キュッと両手を包まれ信吾はドギマギしながら迂闊にも見上げて来る京子の両目を見てしまった。

『ありがとう、太田くんのおかげさね』

きっとこれが、全ての切っ掛けだったのだ。








そして信吾は、一年前の思い出を未練がましく今もこうして抱えている。

廊下から美術室のガラス越しに見える不機嫌な、『太田信吾』を映した『荒木 京子』はもう何処にも居ない。

誰がこうした?

言ノ葉か?

クラスか?

それとも、アレだけ嫌っていた美術部でなにかあったのだろうか?

信吾は、一つの可能性だけを避けて通りたいと願い、結局その人物に行き着いて澄んで居た筈の信吾の感情が濁りを帯びていく。

「あんなに、手負いの獣みたいだった荒木にも、絵を見せたいと思う相手が出来たんだな……」

「手負いの獣かい、当時の私はそうだったかもしれないねえ、でも手負いの獣にも当時は太田くんが来てくれたから私はあの絵を完成させる事が出来たさね」

「じゃあ、今回もさ、俺が居るからさ!二人で絵完成させようぜ!そうすれば……」

「いいや、今回は駄目さね。これは私が一人で考えて答えを出すべきことさ。それに、毎度毎度アンタに頼っていたんじゃあ、私は一人で何も出来ない女になってしまうからねえ」

言葉を繋げば無様になる事は信吾が誰よりも分かっていたが、それでも言葉は止まってくれはしなかった。

「別にいいんじゃねえの?前回も今回もその次もさ!ずっと俺が居るから!別に一人で全部を荒木が出来る様にする必要なんてねえよ!出来ない事は俺が手伝うしさ!何でも頼ってくれよ!」

手伝う事だけが繋がりではない。

だとしても、信吾はその繋がりを何より大切に温めてきたのだ。

だが、京子は今何か別の目的の為にそこから離れようとしていた。

「それは違うさね。私は一人で出来る様にしなきゃいけないんじゃないだよ、私は一人で出来る様になりたいのさね」

京子の決意の瞳の奥には確かに一人の存在が刻み込まれていて、信吾はその存在が自分でない事に、深い焦燥を募らせる。

「なぁ、俺ってお前のなんなんだろうな……」

意を決して聞いた言葉は……

「友人さね、それも一等大切な友人さ」

想像通りの言葉で……

期待はずれの答えだった。

だから、熱に浮かされた信吾の理性は、望む本能を望まぬ言葉で体現する。

「八重……なんだろ?荒木が一番に完成した絵を見せる相手ってさ……」

感情が理性の箍を外し、決壊していく。

「ズリいじゃん……なんだよそれ。急に現れてさぁ!未来で死んで此処に来て、人一人簡単に救っちまって、本当何だよそれって感じじゃんかよ……あぁ、そういえば、お前八重の事は下の名前で呼ぶもんな……」

赤みがかった京子の顔が何よりも答えだった。

「ちっちがっ……」

言い淀んでも、分かりきっている事実に、堪えようとして喉の声が掠れ、みっともない状態なのだと信吾は自覚した。

京子から見れば何故か急に苦しみ出した信吾に掛ける言葉が見つからないとアタフタするばかりだ。

「わりい!オレ今日は帰るわ、本当ごめんな困らせちまって!でもアレだからな!俺も絵はめっちゃ楽しみにしてるから!」

そう言って信吾は床に置いていた鞄を引ったくり早足で階段を駆け下りていく。

途中階段を上がって来る二人に勢いのまま『じゃあな!』とだけ挨拶とも言えない言葉を交わし信吾は学校を後にした。

言ノ葉と八重は、不審に思ったが、何か用事があったのかもしれないと高を括り四階の美術部ヘと行くと、立ち上がったままの京子と目が合った。

「どうした?凄まじい勢いで信吾が階段を駆け下りて行ったが、何かあったのか?」

尋ねる八重に、京子は苦々しく瞳を伏せる。

「……分からないさね、急に行ってしまって私も何がなんだか……」

「……じゃあ、今日はもう解散でいいかしら?暑くて話が出来る気温じゃないわよ、もし続けるなら場所を移動しましょう?」

「いや、今日はもう終わりさね。二人は帰ってくれて構わないよ」

二人は、それは逆に言えば京子は此処に残るという事だろう。

そして此処に残って、出来る事など限られている。

「あんたこの暑さで絵描くつもりじゃないでしょうね?夏もそれで倒れたの忘れた訳?」

「覚えているさね、でも描かないと終わらない、仕方ないじゃないかい」

尻窄みになっていく京子の言葉で、今ここで何か在ったのは明白だった。

「京子が倒れるぐらいなら絵なんて完成しなくていいわよ、それに死んだらどうにもならないわ」

それは言ノ葉だから、言える事で言ノ葉だから絶対に止めたい事だ。

「死んだ二人が此処に居ると、その言葉もあんまり説得力がないねえ」

「好い加減にしなさいよ!あんた、描くときは窓も開けないじゃない!密閉されたクソ暑いこんな場所で集中出来る訳がないわよ!良いから今日は諦めて帰るわよ!」

「グチグチとうるさいねえ、帰りたいなら言ノ葉ちゃんは帰れば良いさね」

熱し易く冷め易い言ノ葉が肩に力込め、一歩前に出ようとした所で、八重は言ノ葉の肩を引いた。

「二人とも落ち着け、それから言ノ葉、乱暴をしようとするな。それは意味が無い」

「別に……してないし」

言ノ葉はあからさまに握っていた拳を解き、プイッと八重から顔を逸らす。

「そうか、それは疑って悪かった。だが言い争っても意味が無い。京子には京子の、言ノ葉には言ノ葉の言い分がある。お互いに譲れないのなら折衷案をとるしかないだろう。それで京子。お前のそれは今日、やらなければならない事なのか?」

真夏日の太陽から燻される様な熱の籠る踊り場に、不気味な静寂が舞い降りる。

「……そうさね」

「ふむ、なら話は簡単だ、俺がここに残ろう。言ノ葉は家に帰って頭を冷やせ」

納得がいっていないと言いたげに言ノ葉は京子を睨みつけたが、その視線を八重が遮ると、諦めた様に寄せた眉根を元に戻し「そうする」と言い残し、言ノ葉は床に置いていた鞄を持って、京子の為に買って来ていたレモンティを八重に押し付けた。

「この距離だ、自分で渡したらどうだ?」

八重を挟んでいるとは言え、数メートルと離れていないが、どちらも意識的に視界に入れようしなかった。

「喧嘩してるから無理」

それだけ言い残し、言ノ葉は踊り場から背を向けて階段を降りて行く。

残されたのは八重と京子の二人だけ、途端に集中力を掻き立てる静寂が辺りを包むが、京子が持った筆は全くと言っていい程進んでいなかった。

一〇分程だっただろうか、無言の時間は京子が筆を置いた音によって破られた。

「八重くんも帰っていいだけれどねえ……」

「俺はお前を見張る義務がある、お前が帰ると言うまで帰る事は出来ない」

「アンタが居ると集中出来ないんだよ。帰っておくれ」

「集中出来ていないのは一人でも同じだ。人のせいにする方が間違っている」

「違うさね!八重くんが居るから!」

その言葉に八重は言葉を被せた。

「同じだ。今のお前では何処にようと、誰が居ようと集中出来る筈がない。それだけは俺が保証しよう」

中には苛立ちを製作意欲に変える人間も居るが、京子は明らかにそのタイプの人間ではないだろう。

「アンタに何が分かるんだい!ろくに絵も描いた事が無い人間が!」

「そうだな、俺には京子の描いている絵の事はさっぱり分からない。だが、今お前が苦悩しているのは本当に絵のことなのか?」

「アンタに何が分かるんだい……」

「俺は何も知らない。信吾と京子で何を話したのか興味はあるが、二人の話を知ろうとする事は野暮というものだろう?だから俺からは何も聞く事はしない。当然お前も話したくないのであれば話さなくてもいい。今は絵に集中したいというのなら、絵を描いてみせろ。だが向こうのお前は、誰がいようと、どんな雑音の中でも集中していた。もしまだ、向こうの……俺の知る『荒木 京子』に今でも勝ちたいと思っているのなら、今は考を正すべき時だ。今のお前ではあの『荒木 京子』に勝つ道血筋は万に一つもない」

八重は敢えて強い言葉を選び、京子へと投げかけるが、その言葉は、今の京子にとって感情の導火線を擦り上げただけだった。

「アンタに……死んでる八重くんなんかに!今生きてる私の何が!何が分かるって言うんだい!」

当然勢いよく打つけたボールが、勢い良く帰って来るのは道理で、彼女も強い言葉を八重に打つけて来る。

だが、感情のまま吐き出した言葉の意味を理解して、京子は、八重に対して最も言ってはいけない言葉だと喋り終えてから気付いた。

ただ、予想外なのはその言葉を受けてもなお八重が眉一つ動かすことはない。

「知らないな。京子、お前はお前自身を誰にも知らせようとしない。だから俺はお前を理解できない。それは死んでいようと生きていようと変わらない。仮に京子の事を分かって欲しいのであるなら、その努力をすべきだ。何もせず安穏と生活をして、自分を理解してもらおうなどと考えているのなら、それは精々親にしかしてもらえない。もし他人にそれを求めるのなら、自分をさらけ出し相手にその許諾を受け、始めて自分の一端を理解してもらう事が出来る。ただ、それでも一端しか理解し合う事はできないがな」

「あっ……、私八重くんにごめっ、でも…………」

絶対に勢いでも言ってはいけない言葉だった。

謝りたいという気持ちが先走り、でも何かを言い返したいという感情が、それを塞き止める。

グルグルと周り加速して行く思考に、京子の理性は悲鳴を上げ始めていた。

過呼吸の様に胸を抑え、京子は渦巻いた感情の中で助けを求める様に八重を見つめた。

「気にする必要はない。それから鏡を見てみろ。今のお前は傾いている。真っ直ぐに立って俺を見ろ。話はそれからだ」

珍しい事だと八重は思う。

ここまで取り乱した『荒木 京子』を八重は見た事が無い。

何時も平然と、飄々としている彼女の姿は何処にもない。

そこには年相応に現状と感情に振り回されている少女が居るだけだ。

「八重くんに、私は酷い事を……」

長い髪で視線を覆い隠し、八重と目線を合わせたがらない京子は呻きながら、自分の足下に意識を逸らす。

「さっきも言ったが、敢えてもう一度言う。気にしていない。お前の言った事は事実ではあるがその実、今の俺の現状とは異なっている。俺は此処に生きているし、俺はあの場所で死んだ。それを酷い事だと思えるということは、今のお前が正常な感情を伴っている事を何より証明している。それは誇る事であっても、悔やむ事ではない」

八重の言葉は対当性とは程遠いとも感じる事が出来る言葉の羅列で、京子にとっては耳に心地よく意味を理解する度に自分が惨めに感じるのだ。

「八重くんは全然分かってないさね……」

そして、やはりとも言うべきか熱と体温と混じり合った二人の言葉の数程、京子の思考も、言い訳という名の熱に犯されていく。

「狡いさね、八重くんは……」

どんなに強固な理性を伴っていたとしても無理を続ければ綻びが生じ、何時かは終わりが来る。

緩やかに元の位置からズレるとしても、最後に落ちる瞬間とはとてもではないが知覚出来る早さではない。

だから、落ちて初めて『荒木京子』は気付く事が出来た。

今日は奇しくも秋にも関わらず記録的な猛暑日で、夕方の陽が西の空に居座っている。

これでは、この間の様に夕闇の暗さに誤魔化す事も間々ならないだろう。

電気を消したとて、この頬に差す赤さを、この表情を、溜まった涙の痕跡をきっと目の前の彼に知られてしまえば、きっと八重はことごとく京子が内に秘めているそれらの感情を受け入れて、言葉に昇華してしまう。

だから、そんな事はさせてはいけない。

その行程を踏むのはあくまで京子であって、八重であってはならない。

だが、あんな酷い事を言った手前、背を向ける事だけは京子の真理が赦さない。

少しの矜持と鬩ぎあう感情は、僅かな猶予を持って、答えを出した。

「……なんだ、これは」

八重も、そしてその行動を起こした京子自身も驚いていた。

即ち京子の取った行動とは、八重を正面から抱きしめるという物だった。

腕を八重の背中に回しガッチリとホールド。

ただ二人は身長差がある為、八重の胸元に京子は顔を押し付けていた。

「絶対に!私が良いというまでは、離さないさね!」

突然の宣言に、八重は引き剥がそうとした手を緩める。

「何事だ?俺は捕まったのか?」

「そうさね!現行犯さね!」

此処まで来れば京子のこの行動は最早やけっぱちだった。

それでも……

たとえやけっぱちだったとしても、八重の優しさに縋る事だけはあってはならない。

京子はもう一人の大切な友人と約束した。

これは一人で終わらせる事だと。

手は借りないと……

宣言した

言い切った言葉を覆す訳にはいかない。

今の胸中の感情に任せて、目の前に居る彼に縋れば、きっと迷わず答えが出てしまう。

八年も先を行く八重であるならきっと、この『荒木 京子』が求める答えを知っているのかもしれない。

それでも。

今すぐに知りたかったとしても、今それを聞く訳にはいかない。

「私はねえ!迷って!もがいて!遠回りでも、私が一人で答えを出すまでが!私の芸術さね!それは八重くんでも邪魔はさせないからねえ!」

「なるほど、確かに邪魔をするのは俺の本意じゃない。だがそれは具体性に欠けている。何をしてはいけないのか、具体案を教えてくれ」

「簡単だよ!朝は挨拶をして!一緒の教室で授業を受けるさね!昼はまた皆で此処でお昼を食べて、どうでも良い話をして、グループで夜までちゃんとメールのやり取りを八重くんもするだよ……それで、それで……」

「随分と、俺も一緒にやってもいいんだな。いいのか?一人で答えを出すんじゃないのか?」

「私は一人で答えを出す。でも、それは八重くんが居てくれないと最後の結論が出ないさね」

八重の脳裏に過るのは、京子が言っていた自分の作品との対決の事だ。

未来から来た八重は文化祭展示で出来上がった京子の作品の完成型を知っている。

確か京子は自分の絵にしか興味がなく、それ故に、違う自分の絵を知っている八重にその判断を任せたいという旨を伝えてきていた。

だがきっとそれだけではないのだろう。

「京子が言いたいとしている事は何となく分かった。だがそこまでしてもう一人の自分に勝つ必要があるのか?」


恐ろしい静寂が満たし、全ての表情が抜けた京子と八重の瞳が打つかった。

「……まぁねえ、そりゃ分かってたんだけれどねえ、いざこうして、はっきりと言われると余計に腹が立つものだねえ」

抱きついても眉一つ動かさず、その動作に一つとして揺らぎがない事から、うら若き京子が抱きついた事ですら、八重にとって感情を動かすに足る出来事でなかったのだろう。

だが、京子はそれが我慢ならない。

自分だけがこんなにも乱れているのに、何故八重は平気そうに受け答えができるのか?

あの鉄の様に変わらない表情を壊したい。

笑うでも怒るでも悲しむでもいい、八重が今浮べている、慈しむ様な表情を見完膚なきまで壊したいと願ってしまう。

今の京子では何かが足りないと感じるのはきっと間違いではない。

こんなに近く、体温の分かる距離に居るのに、もう一枚、後一歩が、八重に届いていない。

「八重くん。私は、向こうの私を超えてみせるさね。だから今の私が向こうの私を超えられたら、一つだけ私のお願いを聞いてくれないかい?」

向こうの荒木京子は強敵だ。

そんな事は絵を見なくとも容易に想像が出来る。

なんと言っても親友を亡くした私が相手だ、一筋縄ではいかない事ぐらいは安易に想像がつく。

「……お願いか、お前の絵を見る対価としては、些か差し出す対価としては足りないかもしれないが、俺の出来る範囲で良いのであれば応えよう。ただし条件付きだ」

「条件かい?」

京子は条件という八重の言葉に、小動物の様にちょこんと小首を傾げた。

「大した事ではない。二週間後の文化祭最終日までに絵を仕上げてくれ。でなければ、俺はお前の願い事には応えられないかもしれない」

「スランプだって言ってるんだけれどねえ、全く無理難題を課して来る人さね。まぁ、でもこっちからお願いしているのだから、そのぐらいの条件は飲まなければいけないんだろうねえ」

「なら、約束だ。京子お前は文化祭最終日までに、俺の知る『荒木 京子』を超える作品を描き上げる。そして俺はお前の願いを一つ、俺が叶えられる範囲で叶える」

「異論はないさね、ただ作品の出来に関して嘘だけは付かないで欲しい。それだけ約束してくれるかい?」

八重だけが知るもう一つの絵に感して八重はいくらでも、今の京子を勝たせてやる事が出来る。

だが、八重には最初から不公平なジャッチをするつもりなど毛頭なかった。

「約束しよう。お前の作品に関して嘘はつかない。これは絶対だ」

一つ確かめる様に頷いた京子は、広げていた絵を描く為の道具を片づけ始める。

「それじゃあ帰るとしようかね」

「……絵は描かなくてもいいのか?」

京子は、描くと言ってこの場に残ったものの、一度としてその描きかけの絵に筆を乗せていなかった。

「意地悪さね、今日描いても絵の具を無駄にするだけさ、そしたらまた買いに行かなくちゃいけないさね。私は行った筈さ、私は無駄に歩くのが、嫌いなんだよ」

振り返った彼女に、先までの弱々しさはない。

出会ったばかりの頃を彷彿とさせる、凛とした佇まいは、何時通りの荒木京子で、一日最後の西日の最後の光が横顔を照らし出す。

夕日の赤とオレンジのコントラストが生み出す幻想的な佇まいに、八重はまた少しだけ広がった左目の視界に彼女の大人びた姿を映したのだった。

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