第136話 油断の代償
「……ちょ……ちょっと待ってソフィア! せっかく……!」
つかつかと館の門の方へ歩き去っていくソフィアに呆気に取られながらも慌てて追いかける。
こんなチャンス滅多にないのに、何でそれを投げ捨てるような真似するんだろう?
「幸せそうな2人の邪魔をする気はないの。クラウスは貴方の事を心配していたけど杞憂だったと伝えておくわ」
こちらを振り返らずに真っすぐ進む足取りは早く、動きやすいとはいえやはりドレス姿の私はこれ以上距離を空けられないようにするのが精いっぱいだった。
「何でそんな言い方するのよ……!? 幸せだったらさっきみたいに打ち上げられたりしな……」
そう言いかけて、突然の来客と強制スカイダイビングによって頭から吹き飛んでいた状況が再び思い起こされる。
(ソフィアとリチャードを見た時、見られた時、私……何してた!?)
何でよりによってそこを見たのかと言わんばかりの不味い場面だったと思う。
普通のカップルのそういうシーンを見てしまえばソフィアのように立ち去ろうとする人間だっているだろう。
でも私だって、地球に帰らなくていい、とまで思った訳じゃない。ただ、感情にちょっと流されただけ――流されかけただけだ。
止まりそうな足を半ば無理やり動かして歩くうちに門の近くでソフィアが止まった。少し離れた場所に白馬車が見える。
「ソフィア……私、諦めた訳じゃ、ないから……! 確かに、ちょっと言い訳できない所見られてしまったけど……!」
そう呼び掛けた処でしつこいと言わんばかりの視線を向けられ、首を横に振って肩を竦められる。
「言い訳なんてしなくていいわ。貴方の事を責めてる訳じゃないのよ。彼に恋したのならそれでいいじゃない。彼に幸せにしてもらえばいいじゃない」
駄目だ。聞く耳持ってない。
何でソフィアがこんなに頑ななのか分からないけど、こんな、誰が聞いているか分からない所で地球に帰る押し問答を繰り広げる訳にもいかない。
「……分かった。それじゃあ、せめてクラウスに……」
「貴方……さっきあの人にあんな顔しておいてクラウスに何を言おうって言うの?」
こちらを振り返ってキッパリと言い切られるそれは、拒絶と軽蔑の態度。
確かに――私は、『貴方を傷つけてごめんなさい』と伝えたいけど、クラウスには『貴方を裏切ってごめんなさい』としか受け止めてもらえない気がする。
実際あの人のキスを受け入れる、という事はあの人を心底嫌っているクラウスへの裏切りに等しい。
どう言い訳を重ねようと彼のこれまでの善意を最悪の形で裏切ってしまった事に変わりない。
あの人の思い通りにさせないようにと協力しあって地球に帰ろうとしていたのに。
皮肉にもソフィアの冷たい態度が私の頭を冷やし、同時に私の足に大きな枷が付けられてしまった事を教えてくれた。
「クラウスがあの人を嫌ってるのは、まだ数日しか一緒に居ない私でもよく分かる……その人とあんな事しておいてなおクラウスを自分に引き留めておきたいなら甘いとしか言いようがないわ」
ソフィアからしてみれば今の私はダグラスさんと良い感じになりつつ、クラウスをキープしようとしてるようにしか見えないんだろう。
実際、恋愛的な意味ではなく極楽から垂れる蜘蛛の糸を何とか維持したい的な意味でクラウスを全力キープしたい気持ちがあるのだから――あながち間違ってはいない。
(でも、子づくりならまだしも、キスを受け入れようとした位でまさかここまで状況が悪化するとは思わなかった……)
それが甘いのだと言われてしまったら、それまでだけど。
「……こぼれたミルクを見て泣いてる暇があるなら、今手に持ってるミルクを大切になさい」
「……どういう意味?」
ため息を付いたソフィアに、自然と俯いていた顔が上がる。
「こぼれた物はもう、どうしようもないって意味よ。それじゃ、さよなら……ごめんなさいね」
何も言えなくなった私に、呟くように別れの言葉が告げられる。まるでもう会う気がないような悲しい言い方。
ソフィアの後にリチャードも続く。彼からは言葉こそかけられなかったけど私を通り過ぎる際に気の毒そうに一礼する姿が心に刺さった。
2人が白馬車の中に入って馬車が動き出すのをただ茫然と見送る。見えなくなってから振り返ると、周囲は静けさを取り戻していた。
(このまま、外に逃げ出せないかな……)
周りに誰もいない状況からそう思っては見たものの、こんなドレス姿で一人逃げ出してみた所で捕まる未来しか見えない。
部屋に帰るだけの気力も無く、丁度視界に入った庭園の椅子に腰かけてテーブルに両肘をついて項垂れる。
胸にこみあげる押し寄せる反省や後悔に耐えかねるように、重く長いため息が漏れた。
私がまだ一度も恋をした事がない人間だったならこの気持ちに向き合わずに地球に帰る事に集中できたのかもしれない。
だけどそうじゃない以上、自分の中にある『好き』という感情に向き合わざるを得ない。
近づいたら駄目だったのにと自分を責める自分と、あの人の穏やかな表情が頭をよぎれば温く柔らかな感覚に包まれてしまう自分がいる。
後者の感情を抱いたままクラウスの力を借りるのは、あまりにクラウスに悪い。
クラウスの力を借りるのならこの感情を打ち消さなきゃいけない。
それができないなら自分の力で塔まで辿り着かなきゃいけない。
(……でも、運よく塔に辿り着けたとしてもダグラスさんが追いかけてくると思うと……ああ、そうか。だからソフィアは……)
そう思った時、頭の隅でずっと足りないままだったパズルのピースが綺麗にハマる。
ダグラスさんは恐らく私さえ残れば――ソフィアや優里が逃げようとしている事を知っても止めない。
皇家が手助けしている事を知ればなおさら我関せずを貫くだろう。
だけど、私が彼女達と一緒に逃げようとしている事を知ったら――恐らく以前にも増して全力で何としてでも引き止めてくる気がする。
『私は正直そっちの覚悟もしておいてほしいわ』
いつかそう言っていたソフィアの言葉がずっと重みを増してもう一度心にのしかかった。
彼女にとっては、私はここに残った方が都合が良いのだ。
分かってた――ここに来る前から、分かっていた事だった。それでも心の何処かで見放される事はないと甘えていた。
だけど今、ハッキリと見放され邪魔者として扱われた事に気持ちがこれ以上ない位に沈んでいく。
それでもまだ、地球に帰るのを諦めきれない――他に方法はないだろうか?
僅かな希望に縋るように考えてみたけれど、今の時点で自分の力で帰る方法なんて、ダグラスさんの子どもを産んだ後に地球に帰りたいですって言って帰してもらう位しか思いつかない――そうなると早くても3年後になる。
3年後に地球に帰るのは今いち現実的じゃない。パッと考えただけでも家賃、年金、税金を滞納している。「しばらく地球にいなかったんで」なんて言い訳はまず通用しない。
結構な借金抱えた状態から生活を立て直していかなきゃいけないと思うと――
(本当に、あの人と、この世界で生きていく事を考えた方がいいのかな……)
でもそれもクラウスを深く傷つける事になってしまうと分かってしまった今、胸の高鳴りは喜びも優越感も運んで来てはくれない。運ばれるのはただただ罪悪感ばかり。あの甘い感覚も戻ってきてくれない。
それでも、胸の細やかな高鳴りはやんでくれない。何も良い物を運んできてくれないならこの鼓動もやんでくれたらいいのに。
油断の代償が大きすぎてこの絶望的な状況に涙も出ない。
撮影の日が後1日遅ければ。ソフィア達が来るの数十分早かったら。私がもっと引き篭もり期間を重要視していれば。あの人を気にかけなければ。あの二人に因縁が無ければ――
「おや……美しい女王様はもう帰っちゃったかな?」
あれこれ過去を恨み悔いている間に、頭上から声が下りてきた。
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