第56話 すこぶる嫌な感じ

 気が付くと私は茫然と今も人工呼吸器レスピレーターを装着されている女を見下ろしていた。

 日々、病状の悪化が進み、彼女はもうこんな無骨な機械なしで息をすることすら許されない。

 元より、そういう疾病で、現代の医学では治癒が不可能な不治の病。こうなることは端からわかっていた。

 でも、自分ならなんとかなる。またあの彼女の笑顔を取り戻せる。そう思ってしまっていた。否! そう必死に思い込もうとしただけだ。

 だが、奇跡という名の神様は決して私には微笑まず、いくら研究してもその取っ掛かりすらつかめず、終わりが近づいていくだけだった。


「今晩が峠だろうな」


 私と彼女の共通の友人でもある担当医の言葉が妙に遠く感じる。

意識は混濁し、その双眼には既に何も映ってはいないのだ。わざわざ、奴に指摘されずともわかっている。


『ブレ……イン?』


 彼女の掠れた声に心臓が跳ね上がり、


「ああ、私だ! ブレインだ!」


 みっともなく裏返った声でそう叫んでいた。


『夢を……みたの』

「どんな夢だ?」


 彼女の右手を握りながら問いかける。


『不思議だけど……幸せな夢』

「それでは、抽象的過ぎてわからんな。具体的な説明を希望する」


 彼女は私を見据えると、


『大好きだよ』


 そんなこっぱずかしい宣言をする。


「ああ、私もだ! だから、この先もずっと一緒にいよう! もちろん、お互い、爺さん、婆さんになるまでだ!」


 溢れる涙で視界が塞がれる中、


『そうなったら……いいなぁ』

「なるさ! いや、この私が絶対にして見せる。だから――」

『ブレインがずっと一緒……嬉しいなぁ……嬉しいなぁ……』


 彼女は満足そうに、幸せそうに微笑む。そして――。



 聖暦907年12月20日 午前6時 旧ノバル伯爵領、ウルグス



 深い湖の底から浮上するような独特な感覚の中、窓の外から鳥の囀る声が聞こえ始める。次第に大きくなる活気のある生活音に、顔を上げると、最近頻繁に利用する執務室の風景。

 

「書類整理をしたまま、寝落ちしたというおちか」


 誤魔化すように、今も絶えず流れている頬の液体を袖で拭って机から立ち上がり、窓のカーテンを開ける。

 泣いていたと言う事は夢でも見ていたのだろう。最近、起きるとこの手の情けない状況に頻繁に陥っている。そして、決まって夢の内容は全く覚えていないときた。

 ここまで再現性があるのなら、きっと理由はあるんだろうが、正直、いくら思い出そうとしても切っ掛けすらつかめない。 

 もしかしたら、この夢は私の転生前の記憶なのかもな。なにせ、過去に得た知識や常識などは鮮明に思い出されるが、過去の記憶についてだけはさっぱりだし。

 きっとこれは、転生をした際の制約か何か――。


「領主殿! お疲れのところ、申し訳ない!」


 丁度、思考が迷宮に迷い込みそうになったとき、チョビ髭文官、アーノルドが領主の執務室に勢いよく入ってくる。

 ここ数か月、既に私の手を離れつつあるラドル領の運営はジュド達サガミ商会の幹部たちに任せて、私はここ旧ノバル領、改めナヴァロ領の領地改革に集中している。

なにせ、ノバル伯爵の無茶苦茶な領地経営のせいで、この地は瀕死の状態だった。

 領地内に碌な産業を育てようとせず、農地の運営も全て領民任せで、鉱山の採掘により全てを賄う経営方針。そのくせ、しっかり税は徴取するから、凡そ8割近い領民は飢える羽目になる。

このウルグス以外の領民は、税と労役だけ徴収されて生死ギリギリの生活を営んでいた。早急な立て直しが望まれていたのである。


「いや、いいさ。というか、疲労という点ではお前たちも大差ないだろう?」

「あのな、あんたほど、働いている奴はこの領地にはいないよ」


 そりゃあ不本意ながら、私は領主だからな。個人的にはこんな経営の真似事より、実験室に籠って研究をやっていた方がなんぼか性に合っているんだがね。


「そうかい。今日は外せぬ用があるから、手早く頼むぞ」

「アクイド殿たちから聞いているよ。例の魔導学院の教え子の晴れ舞台だろ?」

「そうだ」

「今このくそ早い時間に来たのもまさにその件さ。領主殿の本日の業務は私が引き継ごう」

「引き継ぐっていっても、お前だって自分の業務があるだろう?」

「心配ない。他の奴らが手分けして分担することになっている」


 確かに今日は私でなければならぬ用などない。どちらかというと、書類と格闘する類のものばかりだ。

 最近はアーノルドを始めとするウルグスの役人たちの事務処理能力は著しく向上している。今日くらい、アーノルドたちの好意に甘えるとするか。


「わかった。頼む」


 机に山のように積まれた書類につき、私は説明を開始する。



 帝立魔導騎士学院前の木陰まで転移し、校舎へと向かう。

 教授会室に入り、部屋の隅の自分の席でだべっていると白髪の翁が近づいてくる。


「久しいのぉ」

「ああ、久しぶりだ。聞いているぞ。Sクラス、中々の評判のようじゃないか?」


 魔導学院内では、現三年のSクラスは至高のクラスと評され全校生徒の羨望となっている。彼らの活躍のお陰だろう。学院内では全校生徒統一のカリキュラムでの必修の授業を行うことを望む声が日ごとに高まっている。それは、この魔導学院が、亡霊のような封建的な化石システムから解放される事を意味していた。

 為政者からの妨害がなく、十分で正確な情報が与えられさえすれば、あとは勝手により利益を最大値にする結末へと向かって歩き出す。これは進歩や発展を渇望する人類という種の、ある意味本能のようなものだ。

 もっとも、私は全ての必修教科を近代化しろとは言っていない。例えば、教頭の『帝国繁栄記』は、おおざっぱに帝国の歴史を知るという点では優れているし、何より、国家に対する愛着を抱かせる。この国の教育には必須のものだろうさ。

 それに最近、あの教頭の授業だけは大分聞きやすくなったと貴族、平民の両者からの受けもよい。まあ、私たちに対する対抗心の可能性が高いわけだが。


「うむ、あやつらの頑張りのお陰で学院の改革派が優勢じゃ。此度のSランク同士の試合で、学院改革を決定づける!」


 最近は問題が山積みの旧ノバル領の経営が一杯一杯で魔導学院の改革にはノータッチだったが、鼻息を荒くして力説するジークから察するに順調に門閥貴族どもの勢力を削ぐことに成功しているのだろう。


「今日、奴らが少ないのもそのせいか?」


 門閥貴族派の教授はもちろん、この手の行事には常に一番乗りしていた教頭の姿さえも見えない。とうとう奴ら、諦めたのだろうか。


「いんや、そんな可愛げなどあるはずがなかろう。大方、また無駄で姑息な策でも練っているんじゃろうて」


 カッカッカ、とどこぞの天下の副将軍のように高笑いするジーク。随分と余裕だな。

 ジークたちSクラスの教師陣も、既に今回の実技試験の対策はばっちりなんだろうさ。

 Sクラスの教育方針には、あの野獣も興味を持っている。昔ならいざ知らず、門閥貴族の連中がいくら考えなしでも強引な方法はとれまい。今回はジークたちに委ねて大丈夫だろうな。

 そこで教授会室の扉が開かれ、門閥貴族派の教授たちが入ってくる。何れも勝ち誇ったような笑みを顔中に浮かべていた。

 その中で唯一、教頭だけは一切の感情が抜け落ちた顔で己の席に座ると両手を組んで遠い目をする。

 通常、あの爺さん、例え己が風邪をこじらせていても私につっかかってくるような奴だ。それがこの変わり様。あの門閥貴族どもの余裕の表情からも、碌なものではあるまい。


「すこぶる、嫌な感じだが……」

「心配するな。今日の試験の試験官は内務卿が派遣した法務官が執り行う。不正など絶対にさせんさ」 

「そうだな」


 諜報のプロである内務卿も出張っているなら、実技試験での公平さは確保されていよう。確かに、余計な心配だろうさ。

 私たちも話題を生徒たちの最近の教育の進行具合に移行させていく。

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