個人サイトむかしばなし
そろそろ“昔話”と言うものをするような歳になったのだな、としみじみ思うのですが、今回の話題は20年程前、SNSと言うものが台頭する以前におけるネット小説の体験談です。
これまでも別項で何度か、学生時代に個人でWebサイトを開設して小説を公開していた事にはちらりと触れてきました。
サイトの素材は自作するか素材配布サイトから入手し、HTMLを覚えて自分で打ち込み(もしくはホームページ作成ソフトを使い)、レンタルサーバーを借りてアップロードする……。
当時は、これが自分の創作物をネットに陳列する手段でした。
交流の広め方について、私の場合は適当に「オリジナル小説」等のキーワードで検索するか、Yahooのカテゴリから無作為に選んで、大抵何処のサイトにも設置されていた
また、サイトを登録して集めた、ウェブリングと言うものも少しだけ試した事はあります。
小説のサイトだけが登録できるもの、イラストサイトだけが登録できるもの、その他特定の趣味のサイトが集まるためのもの、はたまたジャンルを問わないもの等々。
やはり、ウェブリングと言うものも、自分から精力的に他サイトへ行かないと、なかなか自分の方へも来て貰えません。
カクヨム等でタグづたいに作品を探すのと、そう大差なかったように思えます。
何かと腰が重い性格上、個人的にはあまり性に合いませんでした。
また、今からすれば意外な事に、小説とイラストを両方創作している方が(少なくとも私が知り合った人達では)多数派であった印象でした。
サイトの項目に“Novel”と“Gallery”が決まって並んでいました。
しかも、皆さんどちらも上手い。(※当社比)
私もそれに倣うように、イラスト講座サイトでそれなりに勉強して描いてはみたものの……この手のセンスが壊滅的なのは、こちらの近況ノートを見ていただければ、お分かりになるかと思われます。
https://kakuyomu.jp/users/7ryu7/news/16816927861016644223
これについてはふざけ半分なのもありますが、当時の個人サイト時代でも人物の顔のアップを書くだけで精一杯でした。
身体の部分とかどうやってあんなバランスよく描けるのか今もってわからないばかりか、他人の絵を見てバランスが良いのか悪いのかもいまいちわかりません。
友人や妻などが「この絵、バランスがおかしい」と言っても、そうかな? としか感じなかった事も多々。
こればかりは個々人の資質と、努力する気が起きるか否かなのでしょうけれど「とりあえず絵も置かなきゃ」と言う義務感は何となくありました。
今からして思えば自分自身、慣れない・モチベーションの続かない事を無理にするよりも、小説一点特化で頑張るべきだったと思いますし、近年のSNSや投稿サイトでは、そうした“無理”をしている人はほとんど見掛けない気がします。
そして、サイト管理人同士、相手の小説の人物をイラストにして贈ると言った交流も盛んで、
やはり、自分の作品をイラストと言う形で絵にして貰えると言うのは非常に嬉しいものでした。
自分でサイトデザインを作る関係上、文字の装飾、つまりフォントの自由度も高かった時代でした。
小説のみならず、雑多なエッセイを書き連ねるテキストサイトなるものも人気で、私もいくつかのサイトを愛読していました。
先述のイラスト同様、エッセイのコーナーを併設している創作サイトも結構ありました。
そこで、文章の強調したい部分を大きな赤色にする等の、所謂“フォント弄り”と言う手法が多く見られました。
当然、これの匙加減にも個々人の技量が出るものです。
わかりやすい所では、やはり、無闇にフォントを装飾しているサイトは今一つな印象でした。この辺りは、小説等の描写に通じるものがあると思います。
流石に小説を公開しているサイトでは、その傾向はほとんど見られませんでしたが……私が知らないだけで、フォントをいじりまくった小説と言うものも何処かにはあったのかも知れません。
とにかく、個人的に、このカクヨムでも太字くらいは設定できても良いのではとも思うのですが、フォントの装飾については、自由度が低いくらいが若い人達の成長の為ではあると思います。
また、こうしたテキストサイトで思いがけず記事がバズった(※1)ケースを除き、まして自作の小説でアクセス数を伸ばすのは難しかった印象です。
裏を返せば、そのお陰で点取りゲームに勝つ為に書く人が、ほとんど居なかったとも言えるのかも知れません。
書籍化と言う、ある種の“システムチックな”言葉も、この頃には無かった筈です。
個人サイトで公開されていた時代の、かのソードアート・オンラインをたまたまリアルタイムで読んだのですが、これもある意味では書籍化と言えるのでしょうか。
確か、別作品でプロデビューした時に、こちらも出版しましょうと言う話になったと、小耳に挟んだ気がしますが。
昨今のSNSで言う所のフォローにあたる、相互リンクと言う文化(?)も、今からして思えば興味深いものでした。
各々のサイトに、知人やお気に入りのサイトへのリンクをまとめたコーナーが大抵用意されており、お互いに「リンクを貼り合いませんか」と示し合わせた上で行うのが、この相互リンクと言うものでした。
ある程度以上の交流を経てから、掲示板で申し込むので、どこか特別感があったように思えます。
当時の私が無知かつ極度のチキンであった事もありそうですが、申し込んだ時には、自分なんかのサイトが受け入れて貰えるのだろうか? と言うドキドキ感がありました。
前述の通り、個人サイトは編集に手間がかかるためか、形成された文化だったのかも知れません。
余談ですが、このカクヨムにおいて、私は作者のフォロー機能は全く使っていません。
自分の中でも、何となくと言う感覚程度の話なのですが、作品へのフォロー機能だけあれば特に不便が無く、機能の存在そのものを忘れてしまっていたからです。
その為、先日、最初期に登録した方が何名か居たのを全て削除しましたが、特に他意は無いことをこの場でお伝えしておきます。
点数……当時で言えばアクセス数の多い人ほど、自分へのキャラ付けが濃い……嫌な言い方になりますが、自分の言葉や作品に酔っている割合が多く感じられました。
最近は逆に、アクセス数や評価点が高い人ほど淡々として冷静な印象ですが、やはり「高アクセス数」の意味が変化した結果なのでしょうか。
個人的に、交流していて嫌な思いをさせられた“職人気質”のタイプは、それぞれの時代で「心のゆとりが無い層」だったように思え、そしてその層の多い位置(高・低アクセス帯等)と言うのも、今程言ったように昔と今で真逆だったように感じられます。
※これは、あくまでも個人的な体験による傾向に過ぎません。私の巡り合わせに、たまたま偏りがあった可能性もあります。
また、高アクセス帯の定義等についても割りといい加減な感覚に過ぎない事を、あらかじめご了承下さい。
優劣の話ではありませんが、作業性が洗練される事で、文化が少しずつ変化していく事は、今後もあるのでしょう。
蛇足ですが、この辺りの時代背景もそろそろレトロフューチャーとかの題材になり得るのかも? 知れません。
(※1)
有名どころでは、“先行者”ネタが大ウケし、破格の一億アクセスを達成した“侍魂”など。
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