怒りの激流。


 一夜明けて。

 太陽は昇りきり、屋内でも暑さは最高潮。換気で網戸にしているのに入ってくるのは熱風ばかり。空気は循環せずに足元で体積し続けており、室内は重苦しくよどんでいた。

 そんなオレの部屋に、姫はばつが悪そうにしてやってきた。

 この夏休みの間、多くの時間をここで過ごした。二人きりでエロ本を含む漫画の読み合いで大騒ぎ、時には溜まった宿題相手に真面目に勉強もしていた。

 一夏の思い出、と言うにはいささか絵面が汚い。でもオレと姫にとっては間違いなくかけがえのない時間だった。

 どこか欠けた者同士、その隙間の埋め合わせをするような……。


「昨日は……ごめんなさい」


 口火を切ったのは姫の方からだった。


「お兄さんも……あたしのこと、心配してくれていたのに」


 いじめの事実を彼女の母親――みおさんに話そうとすすめて激昂げきこうされたこと。自分と母親の置かれている境遇のことを知らないくせに、好き勝手な助言をするオレに怒りをあらわにしたこと。

 一晩たって頭が冷えて、謝りたくなったのだろう。


「オレも悪かった……。姫のこと、何も分かっていなかったのに」


 事情を全く知らないくせに中途半端に首を突っ込んで、自己満足な助言を口走ったオレの方が悪い。謝らないといけないのはオレの方なのだ。


「そ、そうだよね。お兄さんのせいでもあるよね。うん、そうだよね」


 まるで自分に言い聞かせるように、姫は繰り返しつぶやいている。何度もカクカクと、震えるように頷きながら。


「じゃあこの話はおしまいっ。折角『お呼ばれ』したんだもん、今日は何して遊ぼうかな~?あはは……」


 無理矢理むりやり打ち切って話題を変えようとするが、その笑い声はかわききっている。空元気からげんきなのは一目瞭然いちもくりょうぜんだった。


「ダメだ。遊ぶ前に大事な話がある」


 本棚の漫画に手をかけようとしている姫の手が、ぴたりと止まる。首をカラクリ人形のように小刻みに回して、オレへと視線を向ける。

 その瞳はやはり空虚だったが――


「あはっ、もしかして宿題のこと?やだなぁお兄さん、それならちゃんと……」

「いじめのこと、澪さんに相談したよ」


 ――自分の母の名前を聞いて、激しく揺らいだ。


「は……?何、何を言っているのお兄さん?ママのこと知っているの?それに相談って……どういうこと?え、意味分かんないよ?」

「勝手なことをしてすまないと思っている。でも――」

「お兄さんのバカッ!大っ嫌いっ!」


 投げつけられる漫画の単行本。それは真っ直ぐにオレのひたいへと吸い込まれ、角が見事にクリーンヒットした。

 懐かしい。初めて彼女と大喧嘩おおげんかした時にもこんなことがあった。感情的になるとすぐ物を投げてくるんだよな。

 ばさり、と単行本がうつせで落ちた。


「どうして、どうしてどうしてどうしてッ!?最低だよ……!全然……あたしの気持ち、全っ然分かってないッ……!」

「そうだよな、最低だよな……オレ」


 あれほど母親に迷惑をかけたくないと言い続けてきたのに、他人のオレが勝手なことをしたんだ。いくらでもののしられる覚悟は出来ている。殴りたければいくらでも受け入れてやる。

 それでも。

 偽善でも、余計なお世話でも。

 オレはになんて出来なかったんだ。


「ふざけないでっ!そうやっていいことした気になって、優越感に浸って……自分は可哀想かわいそうな子を救った正義の味方気取って自慢げになって……それで満足!?」

「そんな大層な人間になった気なんてないよ。ただ、姫を助けたかった……いや、一緒に乗り越えたかったんだ」

「あたしはそんなこと頼んでないッ!」


 机上きじょうのパソコンモニターがぎ倒されて転がり落ちる。だがその代償に、姫の右のてのひらは赤みを帯び、つめがれかけていた。


「姫っ、ケガして――」

「うるさいうるさいうるさいッ!あたしに近づかないでこのロリコン!変態!性犯罪者!もうあたしに……あたし達に関わらないでよッ!」


 血がにじみ始めている右手のことなんかお構いなしに両腕を振り回して、オレが近づくのを全力で拒絶する。ぎりぎりときしむ音がするほど歯を食いしばり、充血した瞳からは大粒の涙が舞い踊っていた。


「……それでも、オレは姫のことが好きだ」

「何よ、童貞卒業出来なくなったから未練でもあるの!?」

「否定はしない!でも、それ以上に姫には幸せになってほしいんだ!たとえオレのことが嫌いになっても!」


 形容しがたい感情、損得勘定そんとくかんじょう抜きの願いだった。

 姫のことが好き、大切。

 もしオレと離ればなれになってしまったとしても、辛い目に遭ってほしくない。いつまでも笑っていてほしい。

 小憎たらしいままでいい、笑顔を絶やさないでくれ。

 この気持ちに一番しっくりくる表現は。

 陳腐でクサい、日陰者のオレには似つかわしくない言葉だけど。

 多分これが世間様のいう『愛』ってヤツなのかもしれない。


「あは、バッカじゃない……?こういう時くらい、童貞臭さを隠そうとしなよ……」


 姫は暴れるのを止めた。でも怒りや悲しみ、失望などの負の感情がない交ぜになった混沌こんとん濁流だくりゅうは瞳の奥から退いていない。勢いこそ弱まっていても一度荒立った波は収まりそうになく、行き場を失って溢れ出しそう。


「……――――もういい、さよなら」


 そしてのたうつ激流のなすがままに、姫は弾かれたように部屋を飛び出した。


「逃げちゃダメだよ、姫」

「……え」


 だが、それより先には進まない。進めない。

 部屋の外にいたのは澪さん。

 荒ぶる激流がどれだけ削ろうともそこにあり続ける、姫の帰る居場所だ。

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