番外編 檜山正樹は懊悩する
――恋人が、可愛い。
深夜十二時。檜山正樹は、頭を抱えて悩んでいた。
恋人が可愛い。どう考えても可愛過ぎる。元々養育係的な贔屓目があるとはいえ、それにしたってもう可愛いくて仕方がない。
まず、顔。パチッとした目に、口元のほくろ。髪はちょっと癖っ毛だが、あの髪質だとむしろスタイリングには向いているだろう。何より笑った顔が愛らしすぎるのが問題だ。恐らく本人は無自覚だが、あれに心臓を射抜かれる人間は自分だけではないと思う。今まで恋人はできたことが無いとは聞いたものの、正直あの容姿では放っておかれる方が難しいんじゃないか。
言わずもがな、性格も可愛い。そもそも気立てが良すぎるのだ。毎日ニコニコとしながら食事を用意してくれるし、店の手伝いも積極的にしてくれる。流石に少しぐらい休んでもいいと伝えると、「檜山さんの奥さん気分を味わえて嬉しいから大丈夫です!」ときたもんだ。死ぬかと思った。可愛すぎて。
明るくて、優しくて、まったく自分には勿体無いぐらいの子である。そんな彼が、まさか会えない間もずっとこちらを想っていてくれたなどとは思いも寄らなかった。
……いや、嘘だ。正直言うと、薄々勘づいてはいた。しかしそのたびに、彼はただ兄のように自分を慕っていてくれているだけだと自分に言い聞かせ、なんとか気づかないふりをしてきたのである。……うん。多分できていた、と思う。
そして、色々あって付き合うことになってしまった今。最初こそ自分の気持ちはぶち殺して断るつもりだったけど、結局彼の熱意と自分の欲に押し負けてしまった。あの子はまだ若いというのに、自分が情けない。
――そうだ、彼はまだたったの二十歳なのだ。長く自分に憧れてくれていたとはいえ、たくさんの出会いや経験を経てしまえば、こんな自分の存在などすぐに色褪せてしまうだろう。それを彼の気持ちにつけ込み、今だけでもと自分の屈折した感情を満たそうとするとは卑怯にもほどがあると思う。
だから、せめて嫌な思い出にだけはさせるまいと。手を出すことはせず、彼が飽きるその日まで、あくまで一歩引いた付き合いを心がけようとしていたのだが……。
「ぐうー……」
「……」
――早速、揺らいでいる。何故なら今、件の恋人が恐ろしく可愛い顔をして自分の隣で寝ているからだ。
「ごはん、たきわすれてましたー……」
三十分ほど前、むにゃむにゃと言いながら慎太郎君が二階から降りてきた。たまたま自分は本の仕入れで起きていたので、慌てて手を振って返してやる。
「いいよ。僕がやっとくから、君は寝てるといい」
「ひやまさんに炊飯器まかせたら……なげられるから……」
「いや、あれは帆沼君にしか……ってなんで君がそれを知ってるんだよ。何故話したんだ、帆沼呉一」
「いってきますー……」
「ああもう足取りが覚束無くなってる。いいから寝てなさい」
「おふとんはっけん」
「僕の布団」
そのまま寝てしまうかと思ったが、頑張って立ち上がると台所へ向かった。そういえば、もう夜もだいぶ遅い。自分も作業の手を止め、片付けに入ることにした。
パソコンの電源を落とし、手元の資料をまとめてファイルに入れる。少し離れた場所で米を研ぐ音がして、耳を澄ませた。……自分じゃない、誰か他の人が生み出す音。一人には慣れていたつもりだったけれど、今となっては彼の立てる音がとても心地良いものになっていた。
「ねむいぃー……」
そして、慎太郎君が戻ってきた。布団を整えていた自分の背中にぽすっと顔を埋め、何やらもぞもぞとしている。
「せなかかたい」
そりゃそうだろうな。
「僕は枕じゃないよ、慎太郎君」
「だきまくら」
「上に行って寝なさい。何なら運ぼうか?」
「いやー」
眠たいせいか、だいぶ甘えた声を出すものである。仕方ないなぁと思うと同時に、心を許してくれているのだろう彼を愛しく思う。
……いや、ほんと可愛いな。めちゃくちゃ可愛い。なんだこの子。
「ここでねるー……」
「じゃあ僕が君の布団で寝ようか?」
「やだ。だっこ」
「今日の抱っこタイムは終了したよ」
「けちー」
「一時間も取ったのにケチ呼ばわりとは心外だな」
「……たりない」
腹の辺りに緩く腕が回される。背中に鼻があたって、くすぐったかった。
「……ぜんぜん、たりない……」
「……」
「おれは、ひやまさんがちょうすきなのに」
「……そうか」
「てをだしてー」
「そんなこと言って先日逃げただろ、君は」
「あれは……ゆめだから……」
「無かったことにするんじゃない」
「ぐうー……」
「あ、こら」
で、寝た。力尽きたと言った方が適切だろうか。
ずしりと重たい背中から、規則的な深い呼吸が聞こえてくる。ぽかぽかとした子供のような体温に、ふと昔を思い出して懐かしくなった。
「……」
――邪な気持ちを、抱かないわけではない。もっと、生々しい想像だったりとか。
よいしょと背中から下ろし、布団に寝かせる。二階に運ぼうかとも考えたけれど、何故か行動には移せなかった。
無防備に眠る横顔に、そっと手を添える。そのまま髪を梳き、少し整えてやった。
「……好きだよ、慎太郎君」
ふと、葉のひとひらから雨水が落ちるように言葉がこぼれていた。すると、へにゃりと慎太郎君の表情が崩れる。まだ起きていたのかと驚いていると、彼は自分の手を掴み、柔らかな頬をすり寄せてきた。
「はい。……おれも、だいすきです」
そして、幸せそうにそう言ったのである。
……。
……。
「……ぐぅ」
……。
……あ、
(ああああっぶなぁっ……!!!!)
一瞬全ての理性が吹き飛びかけた。ギリッギリで踏みとどまった一方でまだ心臓はバクバクと高鳴っており、何かをやらかそうとした右手はなおも宙を泳いでいる。
――いや、無理。無理無理無理、何この我慢大会。だって据え膳に足が生えてこっちに全力疾走してきてるんだぞ。両手広げて「たべて」っつってんたぞ。僕だからまだ耐えてるけど、これ並の精神力の相手ならもうとっくに一線も二線も越えてるからな?
「むにゃー……」
むにゃーじゃあるか、こっちの気も知らないで。チクショウ可愛いな顔。
だが、手を出すのはどうしても慎重にならざるを得ない。多分この子は口ではアレコレ言うものの、まだ自分を保護者の一人として見ている節があるからだ。
先日、少し挑発してみた時の反応で確信した。彼にとって、自分は家族の一人に近いのだ。それがこちらがガンガン押して関係を崩してしまえば、逆に彼は萎縮し逃げ出してしまうだろう。
……そうならないよう、どう慣らして外堀を埋めていくべきか。よそに気が行かないよう引き止めつつ、着実に自分に落ちるようにするには――。
「…………あーーーーー」
そこまで考えて、全く彼を手放す気が無い思考に気づいた。いつぞや帆沼呉一に言われた言葉を思い出す。あまりにも日々が幸せ過ぎて、己の独占欲の強さをすっかり忘れていたのだ。
(……体から落とせるなら、一番手っ取り早いし楽なんだろうけどな)
冷えないよう、慎太郎君に布団をかけてやりながらため息をつく。
(それをするほど焦るのはみっともないし、彼のご家族にも申し訳ない。……何より、彼を怖がらせたり傷つけたりもしたくない。どうしたものか)
癖で胸の辺りをぽんぽんと叩いてやると、慎太郎君がもそっと動いた。寝返りを打って、ふへへと笑う。
「……んふふ……ひやまさん……」
(あれ、僕の夢を見てるのかな)
「……防災頭巾は……ペットの代わりにはなりませんよ……」
「ならないだろうね」
思わずツッコんでしまった。なんだその夢。僕防災頭巾にリードつけて歩いてんのか。怖。
だけど、それでやましい思考も途切れてしまった。もう一度ため息をつき、慎太郎君の頭を撫でる。そして、その隣に自分の身を滑り込ませた。
少々強引に彼の体をこちらに向け、腕の中に収める。これぐらいなら、きっと許容範囲だろう。
……そんなことないか。
まあいい。せいぜい、彼が朝起きた時に状況に慌ててくれるよう祈っておこう。普段散々振り回されているのだから、その半分ぐらいは動揺してくれと思う。
そんなとても健全とは言い難い感情を抱きながら、眼鏡を外す。そうして、世界で一番愛しい人を抱え直したのだった。
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