6 新たなる事件2
「ほ、帆沼さん……!?」
「や、慎太郎。昨日ぶり」
片手を上げたのは、紛れもなく帆沼さんその人だった。呆気に取られるオレだったが、檜山さんの方は鋭い眼光を隠そうともせずに一歩前に踏み出る。
「なぜ君がここにいる? 真っ当に罪を償っているのなら来られないはずだけど」
「そんな怖い顔をしないでくださいよ、檜山サン。俺だって、丹波刑事に頼まれたからこそここにいるんです」
「丹波刑事に……?」
「ええ、私から説明するわ」
丹波さんが、檜山さんの前に立つ。そうされると聞かないわけにもいかず、檜山さんは口をつぐんだ。
「さっきも言った通り、VICTIMSは麻井紋(まいもん)によって圧力をかけられた警察上層部に盗まれ、その事実は揉み消された。つまりVICTIMSは、表向きはなおも警察で厳重に管理されたままってことになっているの」
「なるほど。であれば、もしVICTIMSを使った事件が起きても、そもそも警察は紛失自体を認めるわけにはいかないから……」
「ええ。下手をすると、立件することすらできないかもしれない」
「えっ!?」
驚くオレだったが、ここで丹波さんは帆沼さんの方を見た。それを受け、帆沼さんが言葉を引き継ぐ。
「だから、俺に捜査協力の打診が来たんです。檜山サンも警察内部に様々な派閥があることはご存知ですよね? 不幸中の幸い、丹波刑事の所属する派閥は麻井紋グループの影響下には無かった。それ故、彼女の派閥は何よりVICTIMSによる犯罪を防ぐことを優先としたんです」
「……無期懲役刑に処された君を使ってまでもか?」
「はい。俺はあの本の作者で、当然中身を知っています。そして“どう使うか”も、ある程度は予測できる。
丹波刑事たちは犯罪が起こるのを止めたがっていて、俺は俺の本がこれ以上の罪を犯すのを恐れた。そういう点では、利が一致したんです」
「……」
一通りの話を聞いても、まだ檜山さんの眼光は和らがない。しかしゆっくりと、彼は口を開いた。
「先ほど君は、男から『お前は帆沼呉一に相応しくない』と言われたと言ったけど」
「はい」
「どういう意味か教えてくれる? 男がVICTIMSを盗んだ理由と関係あるのか?」
「……そうですね。彼は、俺に過剰な信仰心を抱き偶像化していました。ですが俺に拒絶されたことで、その理想像は崩れてしまった。
愛が憎悪に変わることなど容易い。結果として、彼は彼自身が俺に――帆沼呉一に成り代わることで、再び理想像を作り上げようとしたんです」
――帆沼さんに、成り代わろうと?
異様な発想にゾッとするオレだったが、なおも檜山さんは辛辣だった。
「要するに、類は友を呼んだというやつか」
「ひどい。俺は反省してるのに」
「君はそうかもしれないけど、その男がそうとは限らない。……いずれにしても、一般人が関わるには危険すぎる案件だ」
「それは、檜山サンは協力できないという意味で捉えても?」
「まあね。というか何故僕が協力しないといけないんだ? 犯人も分かってるんだ、莉子さんや君らで解決すればいい話だろ」
至極もっともな疑問である。そして、これには丹波さんが答えた。
「……正樹さん、どうしてもあなたが必要なのよ。事件の重要参考人である帆沼呉一は、まだとても不安定な状態でね。“精神的な監督者”が必要だと判断されたの」
「精神的な監督者?」
「ええ。自らの犯した罪を反省している彼だけど、一度あなたによって打ち壊された価値観や判断基準の影響は大きい。帆沼呉一の思考の基盤は、未だグラグラと揺らいだままなの。
彼は今、自分で何かを考え決定するのにとても負荷がかかる精神状態なのよ。何故なら、物事の答えを出すにあたって今まで信じていた価値観に頼れないから。適切なサポートが無いと、事件解決より先に本人が潰れてしまう」
「……そう、ですか」
「そうなの。そりゃあ、私が彼の監督者になれれば一番良かったわよ。でもこの人、すごく生意気で腹立つの。せっかく私が答えを提示してるってのに、全部論破しちゃうもんだから」
「だってやりたいと思うことをやればいいって、それ結局俺に結論を丸投げしてますよね。俺は自分の思考に自信が無く責任が持てないから他の人を頼りたいと思っているのに丹波刑事は」
「あ、これは二人の相性が悪いね。致命的に悪い」
……感情的直感型の丹波さんと、論理的計画型の帆沼さんである。いくら同じ目的の為に行動するとはいえ、既にディスコミュニケーションが起きているのではなかなか共同捜査は難しいだろう。
そしてそれは彼女自身が一番分かっているらしい。丹波さんは、パチンと両手を合わせて潔く頭を下げた。
「そんなわけなのよ、正樹さん! お願い! 帆沼呉一の監督者になって! 勿論、あなたや慎太郎君に被害が及ばないようにするから!」
「……ええー」
「報酬も増やすから! お願いします!!」
丹波さんの切願に困り果てたらしい檜山さんが、オレの方を向く。けれど何やら動いた彼の口は、突然右から肩を抱き寄せられたことで見逃してしまった。
「……ねぇ、慎太郎」
帆沼さんである。見上げると、いつも通りの分厚い前髪がオレを見下ろしていた。
「慎太郎はさ、俺の決めたこと、本当に正しかったと思う?」
「え、いきなりどうしました?」
「俺が、捜査に協力すると決めたこと。
……さっき丹波刑事も言ったように、今の俺は自分の思考に一欠片の自信も無い。今まで根拠にしていた価値観は歪なものばかりで、どれもアテにはならないからだ。
今は、何か一つ決めようとするだけでも、足が震える。心臓が痛くなる。
……怖いんだよ。また、間違えるんじゃないかって。慎太郎を殺そうとした、あの時の自分と同じ答えを出すんじゃないかって」
「……帆沼さん」
「でも、このまま犯人を放置していたらきっと新たな被害者が出る。それだけは、絶対ダメだと思った。
……けれど、そう思ったことも果たして正しかったのか、俺には分からない」
「……」
「だから慎太郎、判じてくれ。それだけで俺は救われる。事件解決に協力したいと思った俺は、間違ってなかったか?」
そう言う帆沼さんの左目は、酷く不安げな色を宿していた。手はぎゅっと俺の服を掴み、まるで迷子になった子供のようで。
そんな彼の姿に、オレの胸はどうしようもなくざわついていた。
「……そんな大事な判断、オレがしてもいいんですか?」
「うん。俺は、慎太郎の答えを自分の答えにしたい。俺は慎太郎の生きる世界に生きていたいんだ。……責任は、全部俺が取る。慎太郎は、慎太郎の思考に従って答えを言ってほしい」
……人は、思考や経験を積み上げて己の価値観を作り、そしてそれに伴った決定を下して生きていく。けれど帆沼さんは、夢から覚めるため一度全てを瓦解させてしまった。
今のこの人には何も無い。少なくとも本人は、そう思っているらしい。
――それは、どれほど寄る辺なく不安な世界だろうか。
だから、俺は心を決めたのだ。ガシッと両手で帆沼さんの手を掴み、まっすぐ帆沼さんの左目を見る。何故か少しオロオロとした彼に向かって、オレは言った。
「――分かりました、帆沼さん。オレでいいなら断言します。あなたが出した結論と行動は、間違ってません」
「慎太郎……」
「そしてオレも、これ以上帆沼さんの本で誰かが苦しむのは嫌だ。帆沼さんが協力してくれることで事件が早く解決するなら、そうするべきだと思います。
……だから」
ぐっと帆沼さんに顔を近づけ、言い切る。
「――檜山さんが帆沼さんの監督者になれないって言ったら、オレがやります!」
「え」
「え!? 慎太郎君!?」
「檜山さんほどじゃないですけど、オレだって話ぐらいなら聞けます! それに帆沼さんは元々すごく頭がいい人ですから、事件にさえ協力してくれればきっとすぐ解決できるはず!
だから、帆沼さんが不安になったらいつでもオレを頼ってください! いっぱい電話とか出ますから!」
「慎太郎……そんなに俺のことを」
「待て。待て待て待って待って」
「丹波さん、どうでしょう! 檜山さんが断ったら、オレが帆沼さんの監督者になっても構いませんか!?」
「……そうね、事態は一刻を争うわ。慎太郎君がいいって言ってくれてそれで帆沼さんが動いてくれるなら、ぜひ」
「やった、ありがとうございます!」
「ちょっと莉子さん!?」
「慎太郎、本当にありがとう。お前の優しさに報いるよう、俺も頑張って事件を解決する」
「天の助けね」
「だから! 待てと言ってるだろ!!」
オレの頭を抱え込もうとした帆沼さんの手を払いのけ、檜山さんがオレを回収する。びっくりして目を丸くするオレを腕の中に収め、彼は帆沼さんと丹波さんに言い放った。
「分かった分かった! 僕が帆沼君の監督者になる! それでいいんだろ!!」
「やった」
「そうこなくっちゃ」
「君たち!!!!」
「違うわ、決して正樹さんをはめるつもりじゃなかったの。今の帆沼さんに判断力と決定力が欠如しているのは明白だし、監督者が必要なのは事実。でも慎太郎君の優しさには感服ね。何より檜山さんが協力してくれるなら百人力だわ」
「俺も檜山さんがついてくれていると思うと安心して動けます。ありがとうございます、これからよろしくお願いします」
「今著しく君たちの好感度が下がってるからな。とにかく、絶対に慎太郎君を巻き込むようなことをするなよ!」
「でも慎太郎だって、仲間はずれは嫌だよな」
帆沼さんが、長い腕を伸ばしてオレの頬をつつく。なんだか久しぶりに帆沼さんに触られた気がしてえへへと笑うと、檜山さんに引き離された。
「……慎太郎君。事件を解決するまで、極力この二人とは会わないようにね」
「わあ独占欲だ。妬けますね。どうです、俺も慎太郎は好きですし、腕の一本ぐらいシェアしてくれませんか?」
「君の分は無い」
「そこをなんとか」
……檜山さんは怒ってるし、それが分かってるはずの帆沼さんは何故かまだからかってくる。そもそもこんな真っ昼間から檜山さんに抱っこされるとか相当異常事態で、オレはあわあわとしていた。
けれど、混乱というものは大抵において畳みかけてくるものである。
「兄さーん! ちょっと近くまで寄ってみたから偵察……じゃない敵地視察……じゃない会いに来たんだけど! いるかー?」
「こらつかさ! 外の張り紙『臨時休業』になってただろ! 入るのはまずいって!」
弟のつかさが、幼馴染の大和君を連れて颯爽と現れた。しかし彼の目に飛び込んできたのは、檜山さんと帆沼さんに挟まれて真っ赤になっている兄の光景。
つかさは一瞬呆然とした後、怒髪天を突く勢いで叫んだ。
「この泥棒猫!!!!」
「間違ってる! 言葉のチョイス間違ってるよ、つー君!!」
「つーかなんで犯罪者がここにいんだよ! 巣に帰れ! 臭い飯食ってろ!」
「どうしましょう、流石に彼に事情を説明するのは難しいわね」
「そっすね。俺が事件に協力しているというのは丹波刑事からすると面目が潰れる話でしょうし、ここは脱獄したってことにしときます?」
「ほら慎太郎君、今の聞いた? こんな感じなのよ。帆沼呉一、気の遣い方すら致命的にズレてるのよ」
「も、問題ですね……」
「やあつかさ君、大和君。上がってく? 美味しいどら焼きがあるよー」
「檜山は! 早く兄さんから離れろ!」
「ありがとうございます。お菓子食べたいです」
「大和君!!」
予想だにしない大和君の裏切りに、つかさはショックを受けていた。大和君は甘党なのである。
向こうでは丹波さんと帆沼さんが何やら言い合っていて、大和君はいそいそ靴を脱いで座敷を目指していて、その背中を慌ててつかさが追いかけている。そうしてなんとなく、ぽつんとオレと檜山さんだけが残された。
「……なんだかなぁ。僕はやっと、慎太郎君と二人で静かに過ごせると思ったんだけど」
喧騒の中で、ため息混じりに檜山さんが呟く。
「こうなったら超特急で事件を解決するしかないか。慎太郎君、それでもいい?」
「いいも何も、オレも手伝いますよ!」
「うーん……巻き込みたくないけど、変に遠ざけた結果帆沼君にさらわれた実績もあるしなぁ」
「じゃあつきっきりとかどうですか? ずっと檜山さんと一緒にいるんです!」
我ながら名案だと思った。けれど檜山さんはオレを見つめて黙考した後、がっくりと肩を落とした。
「……いっそ家に閉じ込めとこうかな」
「檜山さんの家にですか? ちゃんと食べさせてくれるならいいですよ!」
「冗談だ。真に受けないでくれ」
「えー」
ごまかすように頭を撫でられる。甘えて彼の胸に擦り寄ると、少し躊躇うような間のあとで軽く抱きしめてくれた。
きっとまた、檜山さんもオレも苦しんだり悩んだりするのだろう。けれど今のこの瞬間だけは、ただ一緒にいられる喜びを味わっていたい。
オレは他の誰にも聞こえないよう彼に愛の言葉を囁いて、思いきり抱きしめ返したのだった。
現世堂の奇書鑑定・完
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