8 僕はバケモノ(1)

 ――その日、慎太郎の両親は仕事でいなかった。弟のつかさも、幼馴染の大和の家に泊まりに行っていた。

 だからこの夜、自宅には慎太郎と檜山の二人しかいなかったのである。


「ひやまさん! ばんごはん温めたよー!」

「わー、オムライスだ。美味しそうだね」

「いっしょに! 食べよ!」

「うん、そうしよう」


 慎太郎も、もう小学生だ。故に彼の母からお守りを相談された時も一人で大丈夫なのではと思ったが、頼りにされては無下にもできない。加えて、今日自宅に帰ってきた時の慎太郎が少し落ち込んでいるようにも見えたのだ。結局承諾し、檜山は彼と夜を過ごしていた。

 けれど、もりもりとオムライスを口に運ぶ姿を見るに気のせいだったかもしれない。相変わらずの食べっぷりを眺めていると、ふと彼の顔にご飯粒がついているのに気がついた。


「慎太郎君、ご飯粒ついてる」

「え、どこ?」

「口のとこ。えーと、君から見て左下?」

「?」

「ここ」


 手を伸ばし、彼の口元のほくろ辺りについたご飯粒を取ってやる。捨てるのも勿体無くて自分の口に運ぶと、目の前の慎太郎の顔が茹でだこのようになった。


「ひひひひやまさんっ!」

「ん?」

「そっ、それはダイタンじゃ……!」

「大胆……?」


 つまり行儀が悪かったのだろうかと首を傾げ、保護者として反省する。けれど慎太郎は目をウルッとさせたあと、ため息をついてうつむいた。


「……なんでもない。ごちそうさまでした。オレ、お皿あらってくるね」

「あ、僕がやるよ」

「ダメだよ、ひやまさんお皿わっちゃうもん。オレのほうが上手にできるから」

「言うようになったなぁ」

「わわっ、なでないで!」

「いいから甘えときなよ。大体、何の為に君のお母さんがプラスチックのお皿を用意してくれたと思ってるんだ? この為だよ」

「そうなの!?」


 そうじゃないかもしれないが、違うとも言い切れないではないか。檜山は多少強引に慎太郎君から皿を奪うと、流し台へと持っていった。大体、自分も成人間近なのに小学生に世話を焼いてもらうなんて申し訳ない。

 まあ、三秒後に全て床にぶちまけたのだが。

 そして、夜も更けて。慎太郎は自分の部屋で眠り、檜山はリビングにて自分用の布団を敷いていた。慎太郎の家に泊まる時には、ここが自分の定位置なのだ。

 しかし、いざ布団に入ろうとした時である。


「ぐっ……うぐっ、ひぐっ……」


 ――微かに聞こえたのは、誰かのすすり泣く声。この家には、自分と慎太郎以外に人はいない。そうなると、自ずと泣き声の主は絞られる。


「ッ!」


 がばっと布団を跳ねのけて、リビングを飛び出す。彼の部屋の前にまで行きノックもせずにドアを開けると、ベッドの上で丸くなった背中を見つけた。


「慎太郎君……!」


 近づき背中に手を置くと、びくりと体が震えた。ゆっくりと振り返った顔は涙に濡れていて、鼻の頭は赤かった。


「どうしたの。お腹痛いの?」


 ――そうじゃないだろうな。幼い頃からの付き合いだ。分かってはいたものの、聞かずにはいられなかった。

 そして、やはり慎太郎は首を横に振った。


「ち、ちがう……」

「じゃあ、どうした?」

「……なんでもない。あっち行って」


 布団を被り直されて放たれる、今までに無い拒絶の一言。それに、檜山の腹の底はすっと冷えた。

 ――なんだよ、それ。自分にすら隠さなきゃいけないことって、何なんだ。

 けれど薄暗い感情を押し込み、彼の肩を抱いて優しく引き寄せた。


「慎太郎君。学校で、何かあったの?」

「……!」

「お父さんやお母さんには言わないよ。約束する。……一人で抱えておくのもしんどいだろ。僕だけでもいいから、話せない?」

「……ひやま、さん」


 顔にかかった布団を払いのけると、ぱっちりした目がこちらを見上げる。まだ自分よりは小さな手が、ぎゅっと自分の服を握った。

 少しだけ、待つ。やがて、形の良い唇が開いた。


「……オレね、もう学校行きたくないの」

「学校に?」

「うん。……友達の一人がさ、オレとひやまさんがいっしょに買い物してるのを見たって、言ってきて」

「僕と……」

「……。そんで、ひどいこと言われた」

「それって」


 檜山は、思わず空いた手で自分の顔の火傷痕に触れた。……この外見は否応無く目立つ為、人を、特に幼い子供をよく怖がらせる。通りすがりに心無い言葉を吐かれたことも、何度もあった。

 まさか、慎太郎も人目を気にして、これ以上自分とはいたくないと思っているのか?

 けれどそう確認する間も無く、幼い彼は檜山にすがりついてきた。


「ちがう! オレはひやまさんのこと、怖いって思ったこと無い! ひやまさんは……えぐっ、すごく優しくて、かっこいい、からっ……!」

「……慎太郎君」

「でも、学校のヤツらは違くて! ひやまさんのこと、何も知らないからって……ば、ば、バケモノって……!」

「……!」

「あ、あんなヤツらキライだ! もうともだちなんかじゃない! オレ、ずっとひやまさんといる!」


 ……泣いているせいで、慎太郎の体温はいつもよりも高い。その熱っぽい体を腕に収めて、檜山は彼を抱きしめ直した。

 しゃくりあげるたびに、小さな肩が腕の中で跳ねる。けれど彼の温度とは裏腹に、自分の指先が冷たくなっていくのを感じていた。


(……じゃあ、そうする?)


 もっと強く抱きしめる。「痛い」と小さく聞こえたが、檜山は喉まで迫り上がる自分の声を押しとどめるので精一杯だった。


(僕も、君と一緒にいたい。ずっと家にいて、君のお父さんやお母さん、つかさ君と暮らして、他の誰とも会わないで。そして大人になったら、二人どこか遠くへ行って、暮らすんだ)


 頭が真っ白になっていく。口元を押さえる。言葉がこぼれ出さないように。どす黒い感情が落ちぬように。


(君は何も怖がらなくていい。僕が君を否定するもの全部から守ってあげる。だから君は安心して僕の側にいたらいい)

(君の為なら何でもする。僕を救ってくれた君の為なら)

(僕は……)


「……ひやまさん?」


 慎太郎の呼びかけにハッとする。見ると、彼は檜山の腕の中でもぞもぞと身を捩っていた。


「苦しい。いぶくろ、口から出そう」

「あ……ごめん」

「ううん、オレも泣いちゃってごめん」


 ようやく檜山に解放され、ふぅと慎太郎は息をつく。目尻に涙は残るものの、彼はもう泣き止んでいた。


「……」


 沈黙の中、互いに見つめ合う。ふと、檜山は慎太郎に袖を引かれているのに気づいた。


「……ひやまさん」

「ん?」

「今日はいっしょに寝て。昔みたいに」

「……うん」


 彼からの申し出に頷き、ベッドの上に自分の体重を乗せる。スプリングが軋む音がしたが、まあ二人分ぐらいなら大丈夫だろうと判断した。

 慎太郎にしがみつかれたまま、身を横たえる。自分の胸の辺りで、鼻を啜る音が聞こえた。

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