6 罪も、本も
――「ここまでだ、弟よ」羽虫の音に紛れて、兄は言った。
「これまでお前は、よくやってくれた。おれの足が腐り溶け、ウジが腹を食い破っても。人に忌み嫌われ、石を投げられようとも。決して、お前はおれを離そうとしなかった」自分の背は、兄の腐臭と液体で、じっとりと湿っている。
「おれは、嬉しい。だからもしお前が、罪を犯して神への門をくぐれなくても。きっとおれはお前の神となり、お前を赦そう」
「――こっちの世界には、赦してくれる兄さんはいない。兄さんは、死んでしまった。俺が……死に追いやってしまった」
ぱたりと、本に涙が落ちる。それはじわじわと字を滲ませ、歪な形にした。
「物語の外は、苦しい。人は嘘をつくし、人生の全てを捧げるほどに好きになった人には拒絶される。慎太郎はああ言ってくれたけど、一週間後も同じことを思ってくれている保証はどこにも無い。
……物語から出てしまえば、俺はただの人殺しだ。どこまで行っても罪がついて回り、誰とも心を通わせられないひとりぼっちの男が残るだけ」
紐綴じの本の最後の頁が、帆沼の落とす涙に侵食されていく。次第に、字が読めなくなっていく。
「俺は……俺の夢が苦しくなって、ここに来ました。でも、現実はもっと苦しいなんて知らなかった。本当に、俺は知らなかったんです」
「……うん」
「慎太郎がいる場所なら、とても暖かいと思っていました。だけど、俺にとっては……」
……現世堂内に、帆沼の嗚咽が満ちる。檜山は、そんな彼の手を握ったまま、じっと見守っていた。
ほのかに影の落ちる店内。彼らを取り囲むのは、整然と収められた古い本たちのみで。
その静けさの中で、ふいに檜山は動き出した。握っていた方の手を離し、そっと帆沼に向かって伸ばし……。
「……」
黙って、彼の真下にあった本をどかした。
「……」
「……」
帆沼の嗚咽が、止まる。
――いや、止まるだろこんなん。檜山が動いた理由は、これ以上本が涙で濡れるのを嫌ったからなのは、火を見るよりも明らかだった。
「……あなたは、こんな時でもきっちり現世堂の店主をやってるんスね」
半分呆れ、半分拗ねて帆沼は言う。対する檜山は、しっかりと頷いた。
「当たり前だろ。僕は現世堂の店主で、それ以外の何者でもない」
「今はただの檜山正樹でいてくださいよ」
「ここは現世堂だ。無茶を言うな」
「頑固だなぁ」
「褒め言葉かい?」
「ダイレクトな悪口に決まってるじゃないスか。……それに、俺の本なんざ今更読めなくなったって構わないでしょ。そんな歪みきった、くだらない本なんて……」
「いや、僕はそうは思わない。これはとても大切な本だ」
真顔でのたまう檜山である。それに少しばかり拍子抜けしたらしい帆沼は、しかし気を取り直して吐き捨てた。
「でも、それってどうせあれですよね? 古本屋として、小説家・帆沼呉一の実質の処女作が損なわれることを恐れたからでしょ? 恐るべき犯罪者であることが明らかになった文学賞受賞の新人とくれば、また話題にもなりますし」
「意地悪な物言いをするね。……言っとくが、僕は古本屋である以前にただの本好きだよ。その上で断言するが、僕はこの『天の国に向かう人』が好きだ」
その一言に、今度こそ帆沼はキョトンと檜山の顔を見た。――二人の目線が合う。ぐしゃぐしゃに濡れた帆沼の顔に、檜山はつい火傷痕を引き攣らせて吹き出した。
「なんて顔をしてるんだ。……本当だよ。これは、君が思っている以上に面白くて貴重な本だ。恐ろしくて、悲しくて、どこか愛しくて。じゃなきゃ、今の今までこうして持ってない」
「……」
「だから、この本を愛する者として、状態が損なわれるのは見逃せなかった」
そう話す間にも、檜山は本に紙を敷き丁寧に水分を取っている。涙の跡を頬に走らせたまま、帆沼はそんな彼の骨張った手の動きを見つめていた。
「……確かに、君の犯した罪は消えない。だけど、それはこの本だって同じじゃないだろうか」
作業を続けながら、落ち着いた声で檜山は言う。
「君の罪で苦しめられた人もいれば、君の書いた作品で救われた人だっている。……善ではなかった。だけど、悪のみでもなかった。これは紛れもない事実で、今後君が生きていく上でもそうなるだろう。ただ、その割合を少しばかり変えられるかもしれないだけで」
「……」
「生きていく上で、あらかじめ立てたプロット通りに歩める人なんて殆ど無い。善として生きていたくても意図せず悪側に立つこともあれば、矛盾や理不尽に打ちのめされる日もある。皆自分が叫ぶのに必死で、こちらの絶叫など見向きもされないと気づいた日もある。
……それでも、人は夢の中では生きられないんだ。夢は所詮夢でしかない。いつかは、肉体のある現実へ戻ってこなければならない」
檜山は、最後の頁を開いた本を差し出す。あと一歩を躊躇う帆沼に、手を差し伸べるかのように。
「……大丈夫。生きてみれば、案外なんとかなるもんだよ。加えて君も言ったように、こっちの世界には慎太郎君のような人だっている」
「……」
「彼と言葉を交わしたいなら、君がこちら側に来るしかない。……監禁して分かったろ? 慎太郎君はのほほんとしてるが、あれでなかなか強固な自我を持っている。故に、彼は決して君の夢に取り込まれることはない」
「……ええ。それは、俺も理解してます」
「だったら、君が勇気を振り絞るべきだ。怖くても、理不尽でも、夢から醒めてこっちの世界で生きる為に。……さあ」
檜山が、殊更強く本を突きつける。対する帆沼は、ガラス細工でも扱うようにそろそろと本を受け取ると、また自分の前に置いた。
そして、最後の頁をめくるべく手を載せる。
「……」
けれど、その手は途中でぴたりと止まってしまった。
「……どうした?」
「……すいません。まだ、足りないと思って」
「足りない?」
「はい。俺、まだ檜山サンの過去を聞いていません」
その言葉に、檜山の眉間に皺がよる。そんな彼に構わず、帆沼はたたみかけた。
「お願いします、檜山サン。このままじゃ終わらないんです。最初にも言いましたが、俺が慎太郎に目をつけた理由は檜山サンにとって彼が特別だと思ったからです。でも、あなたは彼から離れた。……それは、何故だったんですか?」
「……さあな、なんでだろ」
「一緒にいれば良かったじゃないですか。あなたは俺と違って、慎太郎が生きる世界に生きてたんでしょ? ……それに、あの子だってずっと引きずってました。もしかしたら覚えてないだけで、自分が何かしてしまったんじゃないかって」
「いや、慎太郎君は何も悪くない」
「じゃあ、檜山サン側の問題なんですか?」
鋭い指摘に檜山は怯む。そんな彼の姿に、帆沼はため息をついた。
「……ねぇ、檜山サン。俺だってずっとあなたのことを見てたんですよ。あなたが複雑なものを抱え、何かを酷く恐れていたことぐらい知っています」
「……」
「そして、あなたの抱えたものは俺の世界で唯一の穴でした。……愛しているはずの人から離れるという、理解できない空白の部分。それを俺は、あなたの愛情が歪んでいるせいだと結論づけたんです。
だからVICTIMSを通して、俺はあなたを自分の世界に引きずり込もうとした。俺の世界に飲み込んで矯正し、苦しみを消せば、あなたは俺を愛してくれると思ったから。……でも、できなかった。結局、依然としてあなたは何かを恐れていて、俺の世界には穴が空いたまま。そこだけ、何も変わらなかった」
帆沼の前髪は乱れ、潰れた目があらわになっている。しかし彼は両の目で、まっすぐに檜山を見ていた。
「お願いです。あなたの言葉で、俺の世界(なか)を埋めてください。……そうすれば、俺はようやく世界を終わらせられる。だって、俺のいる世界は、あなたに愛されたくて歪んだものだから」
「……帆沼君」
――必死に訴える帆沼の勢いに、押し切られたのか。もしくは、ただ抱えていられなくなっただけかもしれない。
「……分かった」
やがて、檜山は低い声で言った。
「そういうことなら……あの日の僕について、今から話すことにしよう」
「! あ、ありがとうございます!」
「だけど、一つ条件がある」
「条件?」
「ああ」
そして、今度は帆沼が押される番だった。檜山はカウンターから身を乗り出し、帆沼の唇に人差し指を当てる。その仕草はどこか扇情的で、帆沼はゾクリとした。
「このことは、他言無用。……特に、慎太郎君には言わないように」
「……そのぐらいなら、お安い御用ですよ」
――風のせいだろうか。店の外で、小さな物音がした。
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