6 夏の日のこと

 兄の部屋から、現世堂まで向かう。その道中、俺はとても美しい夢を見ていた。

 俺の歩く少し離れた所では、檜山サンが立っている。その火傷痕には微笑みが浮かんでおり、俺を誘惑してはまた遠くへと走っていく。


「待って」


 ――待ってください。俺、ひどく頭が痛むんです。うまく走れないんです。

 そう言おうとしたけど、舌が張りついていて思うように喋れない。それでも追いつきたくて、触れたくて、仕方ないからただ足を動かす。

 だというのに、俺の口元は緩んでしまっていた。

 ――ああ、やっぱり檜山サンは俺を好きだったのだ。この目の前の光景が証明だろう。夢を越えて現実にまで現れるほどに、俺を愛してくれているなんて。

 檜山サンは、笑いながら先を走っていく。俺は無我夢中でそれを追う。

 暑い。全身の血が煮えて、口を開けるとそのまま蒸発していきそうだ。周りの景色は天国のようにぼんやりとしたパステルカラーで、俺と檜山サンだけが鮮やかだった。

 足がもつれる。蝉がうるさい。檜山サンが俺に手を伸ばす。掴もうとして、右手は空をきった。


「あ……」


 バランスを崩した俺の視界は、ぐらりと斜めになる。次の瞬間、俺の体は熱いコンクリートの地面に叩きつけられていた。

 じんじんとした痛みに、少しずつ世界は元の色へと戻っていく。檜山サンはいなくなり、周りの景色は何の味気もない夏の街並みへと変わり。

 けれど、ひとつだけ残っていたものがあった。


(……檜山サンの、笑い声……)


 よろよろと起き上がる。ここは、既に現世堂のすぐ近くだった。店はとっくに開いていて、俺の求めてやまない人は入り口で段ボールを抱えている。

 けれど、彼の前にいた存在に俺の全身は硬直した。


「……だれ?」


 茶色く染まった、肩より少し伸ばされた髪の毛。白いワンピースからはほっそりとした手足がのぞいていて、儚げな印象を与えた。……女性だ。いや、そんなことはどうでもいい。それよりも、檜山サンに被せた女の声が耳についた。


「――それにしてもすごい火傷の痕ですよねー。手術とかしないんですか?」

「お金の問題もありますしねぇ。それに、そこまで不便もしてませんし」

「えー、でも夜会っちゃったらギョッとしますけど」

「はは。でしたら、夜散歩は控えないといけませんね」

「ほんとですよー」


 ケラケラ笑う女の手が、親しげに檜山サンの肩を叩く。……悪意は無いのかもしれない。何気無く発した言葉だったかもしれない。

 でも、その時の俺はたった一つのことしか考えられなかった。


「……なんで?」


 ――なんで、そんなに笑ってるんです? なんで、そんなに優しそうなんです?

 その女は、檜山サンを侮辱したのに。


「なんで」


 なのに、まだ檜山サンは女に笑いかけている。女もそれに応えて笑っている。側からだと、もしかしたら恋人同士にすら見えたかもしれない。


「なんで……なんで!」


 頭に血が上っていく。無意識のうちに足が動き出していた。

 走り出す。音に気づいた檜山サンがこちらを向いたけれど、すぐにその顔は引き攣った。段ボールを投げ捨て、女を後ろに庇う。

 ――どうして彼がそうするのか分からない。訳がわからない。


「帆沼君!」


 右手首を掴まれて、ハッとする。俺の手は、いつのまにか兄の部屋に落ちていた包丁を握っていた。

 その切っ先にいたのは、女。檜山サンの後ろに隠れた女は、恐怖と嫌悪に顔を歪めて俺を見ていた。

 また目の後ろに血が集まっていく。――見るな。汚らわしい。俺の全ては、檜山サンのものなのに。

 女の目に映るのが気に食わなくて、包丁を振り上げようとする。けれどその前に、俺の手を押さえた檜山サンが女に向けて言った。


「早く逃げてください! ここを離れて、通報をお願いします!」


 ……その女のことなんて、どうでもいいだろう。苛々としていたら、檜山サンがこちらへと向き直った。

 視線がかち合う。それが嬉しくて、つい笑みをこぼした。


「……檜山サン、やっと見てくれた」

「またそんなことを……! いいから包丁を下ろせ!」

「断ります。俺はあの女を断罪しなければ」

「どうして……!」

「あなたに酷いことを言ったからです」


 俺の一言に、檜山サンは少し怯んだ。その隙をつき、彼の手を振りほどいて包丁を構え直す。


「あなたが怒らないなら、俺が怒ります。あなたが抵抗できないなら、俺が守ります。……あなたは優しい人です。だから俺が代わりに、あの女に思い知らせてやらなければならない」

「それは違う! 僕は気にしてないし、彼女だって悪気があったわけじゃ……!」

「ですが、許せません」


 殴られるような頭痛に、記憶と意識が混濁していく。さっきまで女と対峙していた檜山サンの顔が、静かに俺を拒否した彼の顔へとすり替わる。女に迷惑してやまない、顔に。

 ――ほら、やっぱり嫌がってたんじゃないですか。


「そこにいてください。俺が、二度とあの女があなたの目の前に現れないようにしてきます」


 辺りを見回す。……女は、どこにいったのだろう。蝉がうるさい。頭が痛い。吐き気がする。暑い。熱い。焼かれた肌がそのまま溶けそうだ。

 ――まもなく、角のところで女の姿を見つけた。女は三人に増えており、背の低い集団に混じってニヤニヤニヤニヤとこちらを見ていた。ケラケラケラケラとうるさい。蝉の鳴き声と混ざって、ケラケラケラケラと。

 煩わしい。早く、早く排除しなければ。


「やめろ!!」


 女が、俺の前に割って入った。――なんだ、そこにもいたのか。俺は、女の醜い火傷痕を更に傷つけてやろうとナイフを振り上げた。

 が、防がれる。女に腕を掴まれたのだ。

 ……強い力だが、所詮は女の力だ。一層力を込めてやると、ぼやけた顔をした白髪の女は悔しそうに歯を食いしばった。

 ――このまま、殺してやろう。そう思った時。


「――ッ!!」


 視界に、包丁が落ちてきた。夏の熱が、顔の右半分で弾ける。肉が潰れる音。血の匂い。膨らんだ兄の死体。破れた皮膚から溶け出す液体。拒絶。群がる虫。虫。虫。女の笑い声。蝉の鳴き声。ケラケラケラケラ。ケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラ。


 ――ああ、痛い。


「帆沼、君……!」


 血まみれの檜山サンが、血まみれの包丁を持って立っている。……俺の愛しい人。彼は、いつからそこにいたのだろう。なんで、真っ青な顔をしているのだろう。


「帆沼君……ごめん……! ああ、ああ、僕は……!」


 震えている。可哀想に。またあの女に酷いことを言われたのだろうか。慰めてあげなければ。俺が。他でもない、俺が。

 けれど、がくりと足が崩れた。檜山サンのもとへ行かなければならないのに、何故か体に力が入らない。

 口に血の味が広がる。どうしてか、うまく唇を閉じられなかった。


「……!」


 檜山サンが来て、何か言いながら俺の体を抱き起こしてくれる。でも、聞こえない。俺の耳は、ケラケラとした煩い蝉の声でいっぱいになっているからだ。

 だけど、彼が俺に触れてくれているのはわかる。悲痛な目で、俺を見下ろしてくれているのは。


 ――良かった。


 優しいその人に、俺は手を伸ばす。


 ――俺、あなたに嫌われたんだと思ってたんです。


 触れる前に、ぐにゃりと視界が暗転する。そのまま、俺は意識を手放していた。











「――長期に渡る抑圧、ストレス、極度の脱水症状によるせん妄、眼球の裂傷。命の危険すらあった君はすぐさま入院し、こんこんと眠り続けた」


 とある昼下がりの現世堂。日の差し込まぬカウンターに肘をつき、総白髪の男は言った。


「しかし数日後、目を覚ました君の妄想は取り返しがつかないほど重篤なものになっていた」


「僕と君は付き合ってることになってたし、結婚の約束もしてたらしい。そもそも僕が現世堂にいたのも、君の為という設定だったよ。けれど僕に関して以外はまったくの健常者だった為、ついに君は退院とあいなった」


「そこからしばらくは大変だったなぁ。どこに行っても君がついてくるし、家にまで上がってくるし。何より困ったのは、会話が成り立たないことだ。僕が何度話し合おうとしても、君はいつも僕じゃない誰かと話していた」


「そして結局、たまりかねた僕が警察に相談し、法的措置によって僕らは離れることになったんだ」


 ここで彼は、言葉を区切った。こめかみに手をやり何か考えたあと、またゆっくりと言葉を紡ぎ始める。


「……正直に言うと、君は僕のトラウマの一つだった。一つ……というより、恐怖を連想させるトリガーと呼ぶべきか。君が僕に向けた言動や行動は、僕の最も恐れる存在を眼前に突きつけるものだった」


「僕が特殊な幼少期を送ってきたのは君も知ってるだろ。そのあと出会った人達のことも」


「……そう、よく調べてるな。とにかく僕はとある出会いを果たし、そして自分のおぞましさを思い知った」


 檜山正樹は微笑む。現世堂の入り口に立つ、大きな肩掛け鞄を持った一人の男に向かって。


「――帆沼呉一。君と僕は、よく似ている」


 カウンターの上には、色褪せた和綴じの本。


「約束を守ってくれてありがとう。君を待ってたよ」


 言葉を向けられた帆沼は、疲れたように微笑みを返した。




 言葉を隠したツバメ 完

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