8 学生鞄

 一方二時間ほど前、丹波刑事を伴った檜山らは、つかさが拐われかけたという歩蛇交差点を訪れていた。


「ここに車が停まってて……つかさは、黒い服の人に後部座席に押し込まれようとしてました! こう! こんな感じで!」


 薄暗くなってきた中、身振り手振りで熱っぽく当時のシミュレーションをする大和である。

 ……分かりやすい。分かりやすいのは、いいことなのだが。


「君、せっかくイケメンなのに人の目は気にならないんですか?」

「何言ってるんですか、刑事さん! つかさを襲った犯人を逮捕できるなら、僕は全身全霊を尽くしますよ!」

「なるほど」


 丹波は納得した。そして、いよいよ大和の再現は佳境に入る。


「で! ここで僕が大声を上げたら、犯人はつかさを投げ捨てて逃げたんです! あっちに向けて、車でブーンと!!」

「大通りの方ですね。監視カメラを見てみることにしましょう。足取りを追えるかもしれない」


 丹波が指示を出すと、すぐに彼女以外の警官は動き出した。手際のいいことである。


「それで大和君、他に何か変わったことはありませんでしたか? ほんの些細なことでもいいのですが」

「変わったこと? ええと……ああそういえば、車に乗る直前、犯人は何か探してたようでした」

「何かを? 大和君以外の目撃者とか?」

「いえ」


 大和は、当時の犯人の素振りを真似て、辺りを見回した。


「どっちかというと、探してるみたいな? とにかく、地面を見てました」

「ふぅん、落とし物でもしたのかしら」

「いや、回収したかったのかもしれませんよ」


 そう答えたのは、一人干からびた排水溝を覗き込む檜山である。彼は膝をつくと躊躇いなくそこに腕を突っ込み、土まみれになった学生鞄を引き上げた。


「それ、つかさの……!」

「うん。殴られた弾みで落としたんだろうね」

「え、鞄? ちょっと、なんでそんなもの犯人が欲しがるのよ」

「それは恐らく、これのせいでしょう」


 檜山は無遠慮に鞄の中を探ると、プラスチックケースを取り出す。それを見た丹波は目を見開いた。


「本?」

「そうです、莉子さん。つかさ君がとある人から借りた貴重な本」

「じゃあ物取り目的の犯行ってこと?」

「いいえ、だとしたら本人まで誘拐する必要はありません。逆に誘拐に失敗したからこそ、本が必要になったのだと思います」

「……ん、うううん? もー、さっきから要領を得ないわね! スパッと言いなさいよ!」

「ええと」


 檜山は少し周りを警戒した後、親指で後方を指した。


「とりあえず、場所を変えましょう。ここに長居するのはあまり得策じゃありません」

「どうして?」

「犯人がここに戻ってくる可能性もあるからです」

「だったら捕まえればいいじゃないの」

「現段階ではそれができないんですよ。何故なら……」

「あれ、現世堂さんじゃないですか」


 檜山の言葉を、太い男の声が遮った。檜山は一瞬苦い顔をしたものの、すぐにいつものにこやかな笑みを作る。


「……どうも、紫戸様」

「こんな所で会うとは偶然ですね。おや、大和君もいるじゃないか」

「先生!」


 他方大和は、知っている人が現れ、目に見えてホッとしているようだった。とことこと駆け寄り、彼の手を取る。


「先生、良かった! 今から連絡しようと思ってたんです!」

「大和!? なんでここに……!」


 しかし紫戸は、何故か大和の姿を見るなり奇妙に顔を歪めた。が、大和の方は気づかなかったらしい。


「じ、実は、つかさが誘拐されそうになったんです! あの、つかさってのは先生のクラスの男子生徒で!」

「そ、そうか。そうだったんだな」

「はい! それで僕、もしかしてあの呪いの本が関係あるのかって心配になって……!」

「うん、うん、後でしっかり聞いてやる。……それより、店主さん」


 紫戸は、濃い眉の下の目を現世堂店主に向けた。


「その本はうちの本ですよね? こんな時に何ですが、返してもらえないでしょうか」

「……どうしてです?」

「どうしても何も、私のものだからです」


 渋られて明らかにムッとした紫戸に、しかし檜山はかぶりを振った。


「断ります。この本は、まだつかさ君に貸し出されています。彼のいない所で勝手はできません」

「どういう理屈ですか。いいですか? 私は本の持ち主なんですよ」

「持ち主だろうと何だろうと同じです。小生の手からお返しすることはできかねます」

「困るのですが。あまりしつこいと警察を呼びますよ?」

「……」


 ここで檜山は、チラッと丹波を見た。――先程の会話で大体を察したのだろう。長い付き合いの頼もしい刑事は、しっかりと頷いた。

 そしてほんの数秒、誰も何も発さない沈黙の時間が訪れて。

 次の瞬間、檜山は脱兎の如く逃げ出していた。


「ま、待て!」泡を食ったのは紫戸である。だが、その行手に立ちはだかった女性がいた。


「大変、泥棒が出たわ! どう考えても泥棒だわ! 急いで追いかけて捕まえなきゃ! ね、大和君!!」

「え、僕!?」

「他に誰がいるってんですか! さぁ、あのへらへら白髪を牢にぶち込んでやるわよ! お兄さん、後で大和君通して連絡するから待っててくださいねー!」


 丹波は、戸惑う大和の手を無理矢理引いて走り出した。一方紫戸はというと、目の前で繰り広げられた謎の茶番に完全に毒気を抜かれ、その場に立ち尽くしていたのだった。










「……なるほど、そういうこと。容疑者筆頭は、現段階ではあくまで善意の第三者……あの紫戸太郎さんってわけね」

「はい」


 それから三十分後。檜山と丹波は、額を突き合わせて話し合っていた。


「やっと正樹さんが渋ってた理由が分かったわ。本の持ち主が容疑者なら、本を返せと言われても断れないもの。ま、あなたが逃げたおかげで何とかなったけど」

「だいぶ強引でしたけどね。どうしよう、あれ僕前科つきます?」

「つけたいわね」

「そこをなんとか」

「あの……お二人とも……」


 そんな二人に、おずおずと割って入ったのは大和である。湯呑みを差し出しながら、彼は檜山の隣に座った。


「逃げた理由はなんとなく理解したのですが――その、どうして逃亡先を僕の家に指定したんですか?」

「近かったから」

「大和君のご両親が仕事でいなかったから」

「それにしたって!!」

「まあまあ、実はいくつか事情があってね。僕の自宅はおろか警察署にも行きかねてたから、迎えてくれてとても助かったんだよ」

「え、警察署にも?」


 首を傾げる大和に頷き、檜山は火傷痕を引き攣らせて笑う。その手には、小さな機械。


「なんですかそれ」

「GPS」

「GPS……って今いる位置がバレるやつの!?」

「そうそう」


 檜山の膝には、無惨にも背表紙を破られた本が転がっていた。機械がそこから取り出されたのだとすると、つまり……。


「とりあえず、話を聞いてもらえるかな」


 常に友人が追跡されていたと知ってゾッとする大和に、檜山は言う。


「つかさ君を襲った犯人を捕まえるには、君の協力も必要なんだ。どうか、力を貸してほしい」

「……」


 愕然としながら、大和はしばらく檜山の顔と機械を交互に見る。そして、恐る恐る頷いたのだった。

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