15 それは、笑顔を向けられるだけで

 今日もしっかり講義へ出て、学生の本分を果たした偉いオレである。早く檜山さんの元へ帰ろうと自転車を漕ぎ、ウキウキと家路を急いでいた。

 空は澄み渡っていて、深呼吸をするたびに体の中の空気が全部入れ替わるような心地だ。こんな日に檜山さんと二人で散歩できたらいいだろうなぁと思っていると、現世堂が見えてきた。


(……あれ?)


 店の前に、檜山さんがいた。それともう一人、女性のお客さんも。

 常連さんと呼んでもいい人だった。オレが店番している時も見えられる方で、でもなんとなくオレは常々その人が檜山さんに好意を持っているように感じていた。

 そのお客さんと檜山さんが、店先で楽しそうにおしゃべりしている。そんな二人を見ていると、オレの胸の中にもやもやとした感情が湧き上がってきた。


(……)


 二人から見えない位置で自転車を止めて、自分の心臓のあたりをぎゅっと押さえて言い聞かせる。

 ――やめろ。良くない。オレは嫉妬ができる立場じゃない。

 檜山さんは、恋人じゃないのだ。それどころか、こちらの気持ちすら知らないのである。だから、彼がどんな人と喋っていても恋をしても……たとえ結婚したとしても。オレが何か言う権利など、当然無い。

 空を見上げる。大きく息を吸って肺に溜め、ゆっくりと吐き出す。それで、多少は胸の中の空気が変わったように感じた。

 けれどそうしていると、ふいに昨日見た女性の姿が思い起こされた。


(……愛し合った人に裏切られたと思った麩美さんは、報復としてその人を殺してしまった)


 自分の目の前で泣いていた、愛しい人を恨んで殺したという女性。もしオレが檜山さんと恋人同士になれたとして、彼がオレより優先したい人がいると言ったら自分はどうなるのだろう。

 ……多分、めためたに泣くだろうな。ぐちゃぐちゃにすがって、喚いて、理由を尋ねると思う。だって想像するだけでもう悲しいもん。だけどそうまでして好きな檜山さんを、オレは麩美さんがしたように殺せるのだろうか。

 ……無理なんじゃないかなぁ。何なら逆に自分が死にそうだ。いや本当には死なないけど、人としてほら。

 だってどんなに檜山さんの手を離さなきゃいけなくなったとしても、きっとオレは彼を好きなままなのである。そんな人がこの世界のどこにもいなくなるなんて、考えただけで苦しい。

 ――人を愛する行為と、壊す行為。それがどうすれば結びつくのか、やはりオレには考えが及ばないらしい。

 もう少し考えてみようかと思ったが、「またどうぞ」という低い声に現実に引き戻される。見ると、彼はお客さんを見送り店の中に戻る所であった。


「檜山さん!」


 だから、つい声をあげてしまったのだ。白髪頭が止まり、半分火傷で覆われた顔がこちらを向く。一見すると痛々しく見える顔。それがオレを見るなり、陽の下でくしゃりと笑み崩れた。

 ――ああ、愛しい。

 そしてその瞬間、さっきまであれほど痛んでいたオレの胸はあっさり溶けてしまっていたのである。

 ――やっぱりオレは、檜山さんを好きで好きでたまらないのだ。

 ……オレだけを見ていて欲しいなんて、そんな願いを口にする勇気はないけれど。それでも彼が笑みを向けてくれるだけで満ちてしまう単純さを胸にしまいこみ、オレは彼に向けて駆け出していた。










「そういえば、檜山さん」

「んー?」

「推理されてる時にも思ってたんですが、なんであんなにSMについて詳しかったんですか?」

「ぶっ!!?」

「え、ど、どうしました?」

「ええええSMって……君、もしかして聞いてたのか!?」

「はい、まあ」

「聞いちゃダメって合図出したろ!」

「でもオレ二十歳ですよ?」

「二十歳だろうとダメなものはダメだ! 教育上よろしくない!」

「とっくに義務教育は終わってるのに」

「終わってようが何だろうが、君が学生としてここに住んでる限り僕は君の一保護者だ! ……ああもう、慎太郎君がここで妙な知識をつけたとしたら、僕はご両親にどう申し開きすればいいんだ……!」

「大丈夫ですよ。オレなんでもかんでも親に話すようなことはしないですし」

「それでもダメだ! 例の件については綺麗さっぱり忘れること! いいね!?」

「むう。……はい、わかりました」

「よろしい」

「でも、それと檜山さんがSMに詳しかったことについては別の話じゃないですか?」

「君のその屁理屈は誰譲りだ」

「さぁ……」

「……それも忘れてほしいんだけど」

「難しいです。気になって母さんに相談するかもしれません」

「それだけはやめて本当やめて頼むやめて」

「じゃあ教えてください」

「……えーと……」

「わくわく」

「………………ひ、秘密」

「えええええええ!」

「ごめん。普通に恥ずかしいんだ」

「教えてください! あ、じゃあオレの恥ずかしい思い出とかも教えるんで! えっと確かあれは5歳の時、オレは弟のオムツを頭にかぶり……」

「こらこらこらこら聞いたら話さざるを得なくなるような交換条件を出すのはやめなさい。殆どテロだぞ、それ。あとその話なら僕も知ってる。伊達に君の養育係やってないぞ舐めるなよ」




或る小説家の遺稿 完

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