トンネルの向こうの白い巨人

鈴木 桜

第1部「逃げられない戦いへ」

第1話 「トンネルの向こう側」

 2020年7月27日、午前7時ちょうど。


 鈍色の空からは、今にも雨が降りそうな気配を感じる。じっとりとした湿気と汗で、肩まで伸ばしている髪が頬に張り付く。おかげで、連休明けの憂鬱な気持ちがさらに沈んでいく。

 弘華ひろかは、今にも泣き出しそうな空を睨みつけた。

 雨が降るようなら、今日の朝練も狭い屋内スペースを運動部で取り合うことになる。

 今年は変な感染症の流行で、思うように練習ができていない。貴重な練習時間が減ってしまう。とはいえ、大会や記録会は軒並み中止。部員のモチベーション維持が目下の課題だ。

 陸上部の部長を務める弘華は、そんなことを考えながら自転車のペダルを蹴っていた。

 朝練は7時30分から。練習着に着替えることを考えると、あまり時間はない。

 連休明けですっかり油断していたのか、はたまた、弘華自身もモチベーションが保てずにいるのか。


 それなりに長い登り坂を一気に駆け上がると、古びたトンネルが見えてくる。


 弘華が毎朝通る、鶯谷うぐいすだにトンネルだ。


 正確には、東進専用が鶯谷トンネル。西進専用が”新”鶯谷トンネルという。

 自転車が通る歩道があるのが鶯谷トンネルで、1947年開通、正真正銘の古いトンネル。完成前の戦時中には防空壕としても利用されており、心霊スポットとしても有名だ。

 正直、このトンネルは好きではない。あっちこっちで水が漏れているし、コンクリートが剥がれて鉄筋が剥き出しになっていることもある。剥がれたコンクリートが自動車にぶつかるという事故も起こっている。照明は十分ではないので薄暗くて、さらに車の走行音が反響して不気味な雰囲気を醸し出している。

 子供の頃は通るたびに泣いていたと母に聞かされた。とはいえ、今は慣れたもので、弘華は一瞬も躊躇せずにトンネルに入る。


 入ってすぐに、弘華は車が一台も通っていないことに気づいた。

 朝早いので車通りが少ないとはいえ、交通量は決して少なくない道だ。

 珍しいこともあるものだと、弘華がそう思った瞬間のことだった。


 正面に小さな白い点が見えた。


「何?」


 その白い点をよく見ると、それは光の点だった。

 点が徐々に大きくなっていく。

 対向車かと思ったが、そんなはずはない。このトンネルは2本のトンネルがそれぞれ一方通行だ。

 白い光はその大きな口を徐々に開きながら弘華に迫ってきた。

 そして、自転車を止める間も無く、呑み込むように弘華の視界を真っ白に染めてしまった。


 真っ白な世界の中に放り出された弘華は、ひたすら自転車を漕ぎ続けていたように思う。

 もしくは、ひたすら前に向かって走り続けていたか。

 自分が何をしているのかもよく理解できない空間の中で、白い光は強くなったり弱くなったりをひたすら繰り返した。

 何度それを繰り返したかは分からない。

 13までは数えていたが、それ以上は分からなくなってしまった。

 弘華は目を瞑ることも背けることも許されず、ただその白い光を見つめることしかできなかった。



 どれだけの時間、白い光の中にいただろうか。

 ふと気がつくと、弘華はトンネルの出口に立っていた。


「自転車」


 そう呟いて辺りを見回してみたが、乗っていたはずの自転車がない。

 弘華は、ブルっと身震いした。ーー寒い。


「なんで」


 早朝とはいえ7月末。半袖を着ていて震えるほど寒いはずがない。吐く息まで白く染まってしまう。これでは、まるで真冬だ。霧が立ち込めているようにも見える。

 異常なのは寒さだけではない。周囲には車どころか人の気配すらない。空気は埃っぽく、思わず咳き込んでしまう。霧のように見えたのは乾いた埃だ。

 空を見上げても、青空どころか雨雲の姿すら見えない。さっきまで、今にも雨を吐き出しそうな灰色の雲があったのに。今は、のっぺりとした真っ白の空が広がっている。


 弘華は、今度こそ寒さではない震えを感じ、慌てて駆け出した。


 トンネルの出口から先は緩いカーブを描く下り坂になっている。少し走れば、今いる道よりも車通りが多い幹線道路と合流する。

 慌てて駆け出したものだから躓きそうになりながらも、必死に足を前に動かした。


 幹線道路に出ると、そこにも人の気配がない。

 それどころではない。全く違う場所に迷い込んだのかと思ってしまうほど、町の様子が変わっている。

 左手に見えるビルは西側のコンクリートが崩れ落ちて中が丸見えになっている。右手に見える民家は、ぺしゃんこに潰れて屋根しか見えない。東西に伸びる県道はきちんと整備されたのに、今はあちこちで剥がれたアスファルトが盛り上がっていて、とても道路とは呼べない有様だ。ここから西側の道路の両脇にはプラタナスの並木があったはずだが、根こそぎ倒れて枯れているか、途中で折れて枯れているかのどちらかの姿しか見えない。


 弘華が暮らしていたはずの世界に似ているのに、違う。


 朝練に向かう人通りの少ない道を、少し冷たい風を切りながら走るのが好きだった。

 可愛らしい犬を連れて散歩する老夫婦、足早にコンビニから出てくる作業着のおじさん、道の向こうから手を振る同級生、かぜに揺れる並木の葉、どこからともなく聞こえる子供の笑い声、トラックの排気ガスの匂い……朝の人と景色と音と匂いが好きだった。

 それなのに。

 その何もかもが壊れてしまった世界。人の気配を全く感じることができない世界。


 これでは、全くの別世界だ。


 どこか別の世界に迷い込んでしまった。たった一人で。側には、誰もいない。

 恐怖で叫び出しそうなのに、喉が震えて声さえも出ない。

 手も足も震えて力をなくし、弘華はその場にペタリと座り込んでしまった。

 その時になって、ようやく制服のポケットにスマホが入っていることに気がついた。

 震える手でスマホを取り出し、操作してみるが、電源が入らない。

 そんなはずはない。寝る前に充電コードを挿して、朝までそのままだった。充電量は100%と表示されていたのを覚えている。


 スマホの画面に、涙が落ちる。真っ暗な画面には、弘華の泣き顔が映っている。

 画面に映る自分の顔を見た弘華は、自分の身体もさっきまでとは違うことに気がついた。

 肩までの長さしかなかった髪は座り込んだ弘華の腿まで届いている。いつも短く整えていた爪も、長く伸びている。半袖の制服から伸びる腕は、部活動で日に焼けていたはずなのに、すっかり白くなってしまっている。


 何が起こっているのか、自問したところで答えなど出ようはずがない。

 弘華には、全く理解することができない何かが起こっているのだ。


 自分のものとは思えない白い腕を眺めていると、今度は大きな音と共に地響きを感じた。


「地震?」


 音がした方を見た弘華は、それが地震ではないことにすぐ気がついた。

 二度、三度と音がする、その方角で、大きく砂埃と建物の残骸がが舞っている。

 音は次第に大きくなる。耳が痛くなるほどの爆音が、弘華に近づいてくるのだ。

 爆音が近くにつれ、それの姿が見えてきた。

 大きな体、4階建ての学校の校舎よりも大きいだろう。姿形は、人間に似ている。二本の足で歩いている。


 しかし、その巨体を包む肌は、不気味なほどにーー白い。


 真っ白な体に真っ白な腕、真っ白な足。真っ白な喉が震えて低い唸り声を上げている。頭も真っ白で、目が開いているのに黒目がないように見える。

 その白い瞳と、目があった。

 刹那、白い化物は弘華に向かって叫び声をあげた。大きく開いた口の中も真っ白で、真っ白な舌が覗いている。


 逃げなければ、そう頭で考えるよりも早く、弘華は立ち上がっていた。

 そして、無意識のうちに鶯谷トンネルの方に向かって駆け出していた。

 トンネルを、くぐらなければ。

 元の世界に、戻らなければ。


「なんで」


 朝から何度問いかけても誰も答えてくれない。


「なんで!」


 叫んでも、誰にも届かない。



 トンネルにたどり着いた弘華は、もはや叫ぶ気力すらなかった。

 確かに弘華が通ってきたはずのトンネルは、その入り口だけを残して、他には何も残っていなかったのだ。

 鶯谷トンネルは金華山と呼ばれる山の西端を通るトンネル。その山頂には岐阜城が建っていて、ロープウェイなんかもあって、なかなかの観光地だったはずだ。

 その姿は見る影もない。

 山頂には岐阜城の残骸が見えるが、そこから西半分がなくなっている。スプーンで抉られたアイスクリームのように、山と西側の街がが消えてしまっている。

 トンネルの入り口を茫然と見つめることしかできない。後ろからは、地響きと咆哮が迫ってきている。


 どこにも、逃げられない。


 弘華の胸に去来する絶望。

 手足の震えは、いつも間にか止まっていた。

 諦めに似た静かな波が弘華の胸に覆いかぶさる。



『逃げられないなら、向かって行くしかないじゃん!』



 かつて、上級生に虐められていた幼馴染みに弘華が言った言葉だ。

 言われた幼馴染みは、流していた涙をグッと堪えて唇を噛み締め、その瞳に確かな熱が宿ったのを覚えている。


 逃げられないなら、向かって行くしかない。


 弘華は、あの時の彼と同じように涙を堪えて唇を噛み締めた。

 音のする方に振り返ると、白い化け物はその足だと数歩で弘華の元にたどり着ける程の距離に迫っていた。

 身体を白い化け物の方に向ければ、さらに加速してこちらに向かってきた。

 左足を引き、地面に手をつく。


 向かってくる白い化け物の、その白い瞳を睨み上げた。 


 化け物が地面を踏みつけて割れたアスファルトの音を合図に、スタートを切った。

 スタートダッシュの勢いのまま、ぐんぐん加速する。

 自分はこんなにも早く走れただろうか。自問する暇もなかった。

 その勢いのまま、白い化け物の足元をすり抜ける。

 化け物は、たたらを踏んでその場に倒れ込んだ。


 振り返った弘華は、再びスタートを切る。1、2、3、4、5、6、7、8歩。徐々に大きくなる歩幅。重心は高く、踏み切る。左足は、前に、前に。

 何度も何度も、飽きるほど繰り返して体に染み付いた第一ハードルまでのアプローチ。

 自分の一歩はこんなにも大きかっただろうか。自分のジャンプは、こんなにも高く遠くまで飛ぶことができただろうか。やはり自問する暇はない。

 大きく前に伸ばした弘華の左足は、立ち上がろうとして中腰になっていた白い化け物の、その不気味な白い眉間に突き刺さった。


 けたたましい叫び声が耳を劈く。

 弘華は勢いのままその場に転がった。すぐさま立ち上がって、化け物から距離を取る。

 すると、白い化け物の姿が一変した。弘華の蹴りが当たった額から、ひび割れるように黒い色が広がっていく。化け物の身体は、足の先に至るまで、瞬く間に真っ黒に染まってしまった。


 その時、空から何かが降ってきた。細長くて、白い、何か。

 それが白い化け物に勢いよくぶつかると、一気に光が爆ぜた。

 光より一瞬遅れて熱を含んだ爆風が弘華を襲う。

 踏ん張りが効かずに、ゴロゴロと転がってしまう。その勢いは、トンネル入り口の残骸に当たって止まった。


 強く打った背中が痛い。徐々に、意識が薄れていく。

 少しずつ暗くなっていく視界の中、今度はバラバラというけたたましい音が聞こえてきた。これは、ヘリコプターの音だ。


 人の、声が聞こえる。


 弘華の意識は、そこで途切れてしまった。











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