第二章 四節 雨は人の心を狂わせる

 雨は小さいころから好きだった。屋根や地面に弾けるやさしい音、身体を濡らされた時の心地よい冷たさが安らぎを与えてくれる。濁った青と曇天の空。気を落ち込ませる天候は私にとって丁度の良いものだった。


「流石ですね、これは売れると思いますよ」


 いつもの喫茶店。微かに聞こえる雨音に耳を傾けながら古川さんの執筆した小説の原稿を読んでいた。作品が完成間近になる度、読書家の私に一部を読ませてくれる。


「ゼクロス先生、あんたここの所寝てないだろ」


 だが、感心していた私の言葉を置き、古川さんは呆れ口調で心配そうな目で私に問いかけてくる。


「ただでさえ不健康そうな真っ白い顔なのに、青白さ越えて紫に見えてきたぞ。特に目の下の隈。幻覚だと願いたいほどだ」


「知らないうちに麻薬乱用しているかもしれないですよ?」


「はっはは! それだけは勘弁だなぁ」


「古川さんは原稿の締切に追われることってないのですか?」


 いかにも夜更かししていない、健康的な顔色の古川さんは爽やかに笑顔を向ける。


「一度もないなー、そういうことは。ま、俺は幸せ者だっちゅうことだ」


 雨の湿気を忘れさせるほど爽やかに笑う彼は、少年のように無垢だと思わせる。


「流石ですね、僕なんか追われてばっかりですよ」


「そういうもんだろ医療従事者ってもんは。普通に労働基準破ってるしな。まさに理不尽の常識化の権化と言ってもいい程だ。先生の方が流石だよ」


 ありがとうございます、と古川さんに読み終えた原稿を返す。


「そういや先生、AIBEアイビー社が新しい技術の普及を発表したっての知ってるか?」


「あぁ、物質世界の現実物質リアルマターの簡易電脳化ですよね。大容量の物質でもすぐに電子変換してEメールのように他の国や世界に転送できるよう更新アップロードしたと聞きましたけど。確か生物もそれが可能って……」


「やっぱり知ってたかー。ま、この技術はこの先当たり前のように利用されるだろうな。一人一機の携帯端末みたいに」


「最近じゃあ金属生命の人工開発とそれを利用した『生きる再生機械リバースコンピュータ』、まぁ昔でいう『粘菌コンピュータ』の応用化が可能になるほどですからね。政治の『リーベルト議員の問題言動』や『電脳界コードの改修の費用不足』、それと『他世界との安全保障協力の協議』のニュースが希薄に見える程、テクノロジーが発達してきてますよ」


 一気に話した私は喉を潤すため、珈琲マンデリンを口につける。苦味がふわりと舌と鼻腔に広がっていく感覚がたまらない。


「軍事兵器も進んでいるしな」


 私はそれを聞き、自身の開発した数々の生物化学兵器を思い出す。特に気にしているものではなかったはずだが、どうしてか最近になって、それが頭を過る。


「……まぁ、そうですね。現実拡張の武器やナノマシン、麻薬濃霧とか聞きますが、どれもテロや紛争に使われましたしね」


「ゲームに出てくるような空想兵器マシン全身武装フルアームが実現してるのがダメなんだよ。普通に戦争に使われる以外なにがあるって話だ」


 それもそうだ。だが、利益と自国の安全、新しい何かを得るためには武力を使わざるを得ないときがある。仕方ないことなのだろう。その駒として私はそれに加担しているのが何とも言えない。


「あ、そうだ先生」


 何か思い出したように、古川さんが突然話題を振る。その表情は半ば嬉しそうにも見えた。昼頃になったのか、雨に少し濡れた客が増えているのが声の数で分かる。店員は少し忙しそうだ。


「『赤い蜂』って知ってるか?」


 赤い蜂。聞いたこともない。


「なにかの本のタイトルですか?」


 私がそう言うと、古川さんは大笑いする。そこまで変なことを言ったつもりはないのだが。


「いやぁ先生でも知らないことがあるんだな。ちょっとうれしい気分だねこりゃ。じゃあ『青い薔薇』って聞けば流石にわかるだろ」


「……遺伝子改良のことを言っているのですか?」


 古川さんはにたりと笑う。


「まぁそうだな。世界各地の野性薔薇八種の人工交配……じゃなくて、バイオテクでアントシアニンの細胞内局在場所である液胞の酸性条件下でも、青色色素であることの多いデルフィニンを作り出すために必要な酵素のcDNAを他の花から単離して、遺伝子導入することで実現した『不可能・奇跡』を象徴する花。それこそが『青い薔薇』だ」


 丁寧に説明してくれた古川さん。遺伝子学のしっていることとなると少し早口になるのが彼の癖でもある。


「それと何か関係が?」

「ま、直接は関係ないが、青い薔薇ブルーローズっていう生物工学関連の企業メーカーが設計した生物がそれなんだよ」


 不可能を可能にするという意義でわざわざご立派な社名をつけたわけか。とはいえ、設計生物学は確かに今、先端科学技術を往く学術のひとつだ。歴史としては浅くはないが、常に進化を遂げている。


「『赤い蜂』と一口で言っても、チャイロスズメバチやベッコウバチのような赤っぽい蜂もいるんだが、俺が言いたいのはそれじゃない。『医薬用』に造られたMedical-Beeだ」

「所謂クスリバチみたいなものですか?」


 人を刺してアナフィラキシーではなく解毒剤アンチドートを注ぎ込むという考えなのだろうか。だとしたらかなり非効率的だ。


「まぁそんなもんだ。提案者はただ単に作ってみたかったっていうだけの理由で研究開発したんだとよ」


「随分といい加減な研究者ですね。でも作ったってことは何かしら情報として流れるはずなのですが」


 そうでなければ、古川さんがこの話を知った経緯がわからない。


「闇に葬られたんだよ。失敗したから。それも最悪の形で」


 古川さんは肘をつき、笑みを浮かべる。


「情報が抹消されたってことですか?」


「その通り。作られた蜂は人を治すどころか、通常以上に人を襲う殺戮蜂キラービーになっちまった。どっかのB級映画みてぇな話だろ? 積極的に人を刺して、薬を入れるならまだしも、アナフィラキシー以上の猛毒だからな。ま、被害者はそこにいたほとんどの研究者で、全員死亡したよ。運よく逃げ延びた研究者の一人が俺の友人の兄。なんとか殺人蜂を全部駆除できたんだとよ」


 そういえば、研究所の実験のミスによる閉鎖が行われたというニュースが半年前に報道されていた。それの真相がこれか。


「そのことについてはわかりましたけど、古川さんは結局何を伝えたいんですか?」


「ん、あぁ、その生き残った研究者がその『赤い蜂』という名で闇市の行商人をやってんだよ。『レッド・マーケット』つったか確か」


 思わず耳を疑った。ほんの少し、目を開く。

「レッドマーケットって、臓器売買している、あの……」

「いや、死生裁判士せんせいが驚かれても……」

 

 レッド・マーケット。

 開催期間、場所共に不明であり、不定期に行われる闇市場の一種。主に人骨、臓器、精子、卵子、血液、代理母、毛髪、養子縁組など、人体を家畜のように扱う市場である。


 当然、それは営利目的で行われ、且つ法に違反している無許可活動である。


「ま、先生にとっては商売の妨げになる存在だな。ただ、『赤い蜂』は他の商売人とはちょっと違っててな」


「違う?」


「裏の間でしか知れ渡ってないが、『危険人物』として警戒対象にされているらしい。まぁ会う機会はめったにないと思うが、先生なら何かの用でそこ行ってばったり出会うかもしれない。そんときは十分に気をつけろよ」


 有益な情報かどうかはともかく、何故、インドア派の古川さんがそのようなことを知っているのかが気になった。


「ちなみにこの話、ネット仲間のユリアナさんから直接聞いたことな。たまたま俺と同じ地区に住んでいたんだ。そいつがまた別嬪さんでな……」


 そのときのことを思い出しているのか、少しにやけていた。


「それでは今度紹介してください」と冗談を飛ばす。

「えー、さすがの先生でもこれは譲れねぇな。だけど彼女、ネットの間じゃかなりの情報通だから、知りたいこととかあれば頼んでみるといいぜ。あとで彼女のメールアドレス送っておくが、変に手を出すなよ?」


 私は苦笑する。

「大丈夫ですよ。そろそろ時間ですのでお先に失礼します」


 これから研究がある。あの口うるさい患者は薬の副作用で睡眠状態に入っていると連絡が入ったので、今日は静かに診査できそうだなと思ったりする。


「おう、また今度な先生。けど今ザーザー降りだぞ。もう少しここに残らねぇのか?」

「大丈夫です。時間もそこまでありませんし」

 私は席を立ち、コートを羽織る。


「それに好きなんですよね、雨」




 

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