第13話 彼の名前


 五ツ木は、私の姿を見ると小さくそれでいて整えられた丁寧な所作で会釈し、立ち上がった。


「お元気そうに過ごされていらっしゃるようで、良かったです。」


「あ、はあ……。ありがとうございます。」


 外の陽の光の下で見る五ツ木の表情は、何だか薄暗い病院の中で見た雰囲気とは全然違う様に見えた。


 病院で見た時よりも、五ツ木の人形のような無機質な印象は少しだけやわらぎ、今はひな人形の五人囃子の内の一体、というよりも、誰にも手をつけられていない草原にいつのまにか咲いていた小さな白いすずらんの花の様に見えた。


「こちらの畑で働きはじめたと、蒼真さんから連絡をいただきまして、今後、生活費の支給額が変わって来たり、ご本人様の希望によっては、ケータイを仕事用にも持ちたいと希望される方もいらっしゃいますので、諸々そういったことを説明しに参りました。」


 五ツ木はそう言うと、飾り気の一切無い黒くて薄いビジネスバッグから、クリアファイルに入った書類を取り出した。


「あ、一応蒼真さんからは、この説明を聞いていただく時間も、湊川さんの業務時間に含んで良いと言われていますので、休憩は時間通り、きちんと取ってくださいね。」

「あ、はい……。」


「お腹が空いてましたら、食べながら聞いていただいても構いませんし」

「あ、大丈夫です」


「喉が乾いていましたら、どうぞ遠慮なくお飲みください」

「いえいえ、すみません、こちらこそ、ほんとうはお茶とかお出しする物なんでしょうけど、何もお構いできなくて……」


 私は、会社員時代の感覚が体に残っていて、自分の職場に来客があるというのに、お茶も出せないでいる今の状況に、いつのまにか脂汗をじわじわとかいていた。


 しかし、ここにはお茶っ葉も無ければ、水だけでも出そうとしても湯呑みも無いし、そもそも飲み物をお出しするテーブルも無かった。


「大丈夫です。私たちは飲めませんので。とりあえず、書類もまあまあ多いので、座りましょう」


 五ツ木はそう言って、ベンチに座り、私にもその隣に腰かける様に言った。私が座ると、五ツ木はクリアファイルから書類の束を取り出した。


「遠慮をしているとかでは無く、前も言いましたが、私達には臓器が無いので、飲食物を摂取する事はできないんです。味覚も嗅覚もありません。まあ、無いというか……あるのかもしれないんですけど、感覚を司る部分が、私たちは違うんです。湊川さんとかの、肉体を持っていた方々とは……。私も五感というものを有したことが無いので、どう違うのかはうまく言えませんが、違うらしいです。」

「へえ……そういうものなんですね……」


「はい。なので、お腹が減る、だとか喉が乾く、という感覚もありませんので、もしそうなら遠慮なくおっしゃってください。空腹になる事は、とても不快な事だと聞きますし、判断能力が落ちたり、いらいらする、という作用もあると聞いていますので。本当に大変な事だと思います。」


 五ツ木が真面目な顔でそう言うので、私が思わず吹き出すと、五ツ木はまたその淡泊な表情で、こちらをじっと見つめてきた。

「あの……どうされましたか」

「いえ、あの……。なんか、どう見ても、生きてたらごはんも食べずに昼夜を問わず仕事をしていそうな五ツ木さんみたいな人が、そんな事を言うから、なんか、すごい違和感があって……。」

「そうなんでしょうか。」


 五ツ木はそう言って、どこか不思議そうに唇をかすかに尖らせて首を傾げた。


 それから私は、お給料が支払われる様になったら、町からの生活費の支給が終わること、ケータイはそのまま使いつづけられるが、使用料を町に支払わなければならない事、


 町への寄附は、生活が安定して来る目処である、就労から半年後以降から、自分が希望する場合はできる様になることを説明された。


 五ツ木は、てっきり病院の職員なのかと思っていたが、実際は役場の方に勤めるソーシャルワーカーなのだという。


 五ツ木の説明は的確で、わかりやすく、こちらが飲み込めていなそうだ、と感じた所には即座に気づき、そういった所は上手にかみ砕いて説明してくれた。


 見た目はまるで少女の様だが、きっともう何年、何十年とこの仕事を続けているベテランなのだろうと思った。


「あ、あとここにサインをお願いします。」


 五ツ木がそう言って私の前に出した書類には、蒼真の名前と、蒼真が経営している喫茶店やライブハウスの名前。そして、そこの正式なスタッフとして、私が迎えられたという旨が書かれていた。


 それを見て、私は思わずつぶやいた。


 経営者の名前の欄に、蒼真という名前と、その苗字が書かれていたからだ。


「えっ、『蒼真』って、下の名前なんだ……」

「どうかされましたか?」


 五ツ木が、不思議そうに私の顔を見る。


「いや、その、蒼真くんって私より何倍も年上だって聞いてたから、もっと昔の人っぽい感じの名前なんだろうなって思ってたから……『そうま』っていうのは、苗字とか、あだ名なんだと思ってました。」


「ああ、それは……」


 その時、五ツ木の鞄からケータイが鳴る音がした。


 五ツ木は鞄からケータイを取り出して画面を見ると、


「すみません、ちょっと、急ぎで職場に戻らなくてはならなくなりました。説明は以上ですので、わからない事がありましたら、いつでもメールや電話でお知らせください。」


と言って、無駄の無い動きで書類や筆記用具を鞄にしまい、丁寧にお辞儀をして去って行った。


 その後ろ姿を見送りながら、そういえば、五ツ木も私の事は苗字で呼ぶのに、蒼真の事は下の名前で呼んでいるのだな、と、私は少し意外に思った。

 

 

 

 

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