第9話 薄荷
日が完全に登りきった午前七時。
私と仁は、両手で頭を押さえながら、蒼真の経営する喫茶店のカウンターで、飲み物が出て来るのを待っていた。
二人ともぐったりとした灰色の顔で、蒼真が冷たいミントティーをいれてくれるのを待っていた。
「いやあー。昨日はさすがに飲み過ぎだったよね。僕ら。」
お茶をいれている蒼真も腐乱死体の様な顔をしていた。
健太は明け方、私たちが会場の椅子や床やステージの上などで、それぞれダウンしたのを見届けると、一人一人に優しく毛布をかけて出て行った。
うっすらとだけ、ベージュ色の毛布を私にかけてくれた時の健太の表情を覚えている。あの瞳はたしかに、
「じゃあ、俺は帰るんで、あとはヨロシクっス。したっす」と言っていた。
健太が頑なに酒を飲まなかった理由を今、身に染みて理解した。
健太が帰った数十分後、はっきりと目が覚めて来ると、蒼真は新しいシャンパンを喜々として開けようとしているし、仁は空になったクーラーボックスを開け、もっと買ってくれば良かったと舌打ちしていた。
蒼真に次は何を飲むかと聞かれて、上の喫茶店で冷たいお茶が飲みたいととっさに言わなければ、今もまだ宴会は続いていただろう。
「健太のヤツ、いつもは俺らが起きるまで居るんだけどなあ。なんか用事でもあったのかアイツ。」
何となく理由がわかっていた私は静かに微笑んで、あえて黙っていた。
蒼真の作ってくれたミントティーは、透明なカクテルグラスにそそがれていた。
グラスに詰められたクラッシュアイスが、ガラス細工の様に、テーブルに降り注ぐ日の光を乱反射させた。
その横の白い小皿には、たっぷりと水分を含んだ赤いいちごと、摘んだばかりのミントの葉が添えてあった。
こんなに手間をかけなくても、適当なもので大丈夫だったのに、と、私は申し訳ない気持ちになって、冷たいグラスを両手で持った。蒼真は私が思っていた事を見透かした様に、頷いた。
「こっちに来た人間は、みんな最初ひとりぼっちでさ。堪えきれなくなって、誰とも一言も言葉を交わさず、病院に戻って『柩』を選択する人も多いんだ。」
『柩』とは、冷凍睡眠の事かと尋ねると、蒼真は頷いた。
「もったいないよね。少し歩けば、こうして声をかけてくれる人が、この町にはたくさん居るのにさ」
ガラス細工の様な瞳を伏せて、蒼真は寂しそうにうつむいた。
「向こうから来た人々は、そんな事、考えつきもしないんだ。みんな、誰も自分になんか話し掛けてくれる訳なんか無い。誰も助けてくれる訳なんか無い。そう考えてる。」
仁も飲み物を一気に飲み干し、ため息をついた。
「この町では、来たばかりの奴には声をかけ、手助けをするってのが、ちゃんと習慣として根づいてんだけどな。町から支給される生活費やアパートも、町の人間が働いて、カンパした金でまかなわれてる。それだけこっちの世界では、助け合いってのが当たり前なんだが、来たばっかの奴らには、そっちの方がよっぽど非現実的に思えて、信じられねえんだろうよ。」
「じゃあ、蒼真君も仁君も、この町の為に、寄付をしているの?」
私が尋ねると、仁は、気まずそうに「ああ。まあ……。税金と違って義務ではねえし……寄付って事になるわな。」と、モゴモゴと答えた。「まあ要するに、遠慮すんなってこった。お前みたく難しく考える方がこの町じゃ疎まれんだよ。」
「この町っていうかね、この世界に来た人って、みんな本能でわかってるんだ。」
蒼真は、まるで生まれたばかりの我が子に言い聞かせるかの様に、優しい表情でそう言った。
「柩に入ろうとする人間の気持ちも、柩から出ようとする人間の気持ちも、どちらもね。この町に住む人々は皆、わかっているんだよ。」
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