第762話 ブラッドベセル

 由香里が検査室でカルテを見ていると、外科の若い医師の中でホープと言われている青山あおやま医師が入ってきた。


「君島さん、十四時からVIPの手術があるのだが、立ち会って欲しいと外科部長からの伝言だ」

 青山医師は、由香里に伝言を伝えて患者のカルテを渡した。


 カルテを見て由香里は首を傾げた。

「この蓮根はすねさんというのは?」

「県会議員なんだ。大腸がんの手術をする」

「分かりました」


 手術中に魔法でしか対応できない事が起こる場合がある。それはまれにしか起こらない事なので、普通は忙しい医療魔法士を手術に立ち会わせるという事はしない。


 だが、手術する患者がVIPだった場合だけ、立ち会わせるという事をこの病院では行っている。由香里は人の命を差別しているようで嫌なのだが、忙しい医療魔法士が全ての手術に立ち会うというのは無理なのだ。


「手術の立ち会いか?」

 検査室の責任者である西本にしもとが由香里を見て尋ねた。

「ええ、大腸がんだそうです」

「蓮根さんか。あの人は年だから気を付けた方がいい。血管がボロボロだという話を聞いたよ」


 それを聞いて納得した。手術中に静脈血栓症が起こる危険があると執刀医は考えたのだろう。執刀医は外科部長の山井やまいという五十代後半の医師である。この外科部長の手術の腕は並み、他の医師より優れているのはコミュニケーション能力だけだった。


 外科部長が必ずしも手術の腕が良くなければならないという訳ではないので、コミュニケーション能力が優れた山井が外科部長になったのが間違いだとは言えない。


 ただ難しい手術のようなので、もっと手術の腕が良い外科医が執刀すべきなのではないか、と由香里は思った。


 手術の時間が来て、由香里は手術室に向かった。着替えて消毒してから手術室に入る。看護師たちが手術の準備をしている。


「あっ、君島さんが立ち会うんですか?」

 顔見知りの看護師が声を上げた。野島という看護師である。

「ええ、外科部長のご指名みたい」

「大変ですね」


 由香里には何が大変なのか分からなかった。だが、何度も外科部長と手術をした経験がある野島の言葉は、正しいのだろう。


 準備が終わり手術が始まった。患者の蓮根は体重百キロを軽く超える巨漢で、手術台から贅肉がはみ出しているように見える。


 手術が始まり、外科部長がぶちぶちと文句を言いながら手術を進めている。その文句の大半は、患者の贅肉が邪魔だというものだ。太っている患者の手術が大変なのは本当の事なので、由香里は外科部長の言葉を聞き流しながら手術を見守った。


「あっ」

 いきなり外科部長が声を上げた。由香里が外科部長の手元を見ると、患者の血管が切れて血が噴き出ていた。


「切れた血管を縫合するのだ」

 外科部長が慌てて血管の縫合を始めている。第一助手である青山医師も縫合を手伝っている。と言うか、青山医師が中心になって処置している。縫合の技術は青山医師が上のようだ。


 由香里は生命魔法で止血する事もできたので声が掛かるかと思ったが、出番はなかった。青山医師がなんとか縫合に成功したのだ。


 そんな事をしている間に手術時間が延び、目的である大腸がんを摘出した頃には予定時間を大幅に超えていた。そして、手術がもう少しで終わるという時に突然患者の様子がおかしくなった。


「君島くん、原因を調べてくれ」

 外科部長の指示が飛んできた。由香里は診断の魔法である『ダイアグノウス』を発動する。すると『右肺動脈内に血の塊がある』と分かった。


肺塞栓はいそくせんです」

 肺塞栓症は、血液の塊などが血液の流れに乗って肺の肺動脈に運ばれ、そこを塞いでしまう病気である。


「まずいですよ」

 青山医師が緊張した声を上げる。外科部長は患者が苦しそうに呼吸しているのを確認した。


「そ、そうだ。君島くん、血栓用の新しい魔法を習得したと言っていなかったかね?」

「しかし、動物実験もまだなんです」

「私が許可する。なんとしても患者を救うんだ」


 由香里は『ブラッドベセル』を発動し、肺動脈で詰まっている血栓をピンポイントで分解した。この魔法は全身の血栓を分解する事もできるが、ピンポイントで指定して血栓を分解する事もできるのだ。


 魔法が効いて患者の容体が回復したのを確かめて由香里はホッとする。その後は何事もなく手術は成功した。


 これで人体実験じゃなくて治験が済んだ事になる。本当は動物実験を繰り返してから、人間への治療を行うのが普通なのだ。とは言え、人間で成功したから動物実験は省略して良いという事にはならない。ルールに従って病院が用意した動物実験を繰り返した。


 そして、ようやく魔法庁に登録する事ができた。魔法庁でも検証している。これにも時間が掛かるので、生命魔法の登録件数は少ないのだ。


 『ブラッドベセル』が公開されると、世界の医療関係者が関心を持った。ピンポイントで血栓を分解できる魔法は医療において重要だと評価されたようだ。


 『ブラッドベセル』は医療魔法士が習得すべき魔法の一つだと言われるようになる。さらに登録者がイメージ画像記録装置を開発した一人だと分かると由香里の名前も医療情報誌に載るようになった。


 病院では血栓を上手く処理した事で由香里の評価が上がり、『エコノミークラス症候群』とも呼ばれる肺血栓塞栓症の治療に参加するように言われる事も多くなった。


 由香里が持っている魔道書には、『ブラッドベセル』以外にも新しい生命魔法が載っており、それらを習得するには魔法レベルが足りないと分かっていた。


 そこで長野の冥土ダンジョンへレベルアップの修業へ行く事にした。

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