第10話 木蓮の香り

エレツアルの軍が王宮に戻ったあの日からまた幾日が過ぎ、私がもう彼のことを忘れようと努力し始める頃。レイとはやはりなんとなく気まずかったが、気さくに話しかけてくれたため、ほぼ元の様に普通に接することが出来てきたと思う。

いつものように4人で稽古していると、ぞろぞろとかの日に見た近衛兵たちが宿舎に入って来た。ぎょっとして師を見るが、どうやら同じく驚いていて、突然の来訪者に眉根を寄せる。


「王の近衛兵…紫の装飾を見ると、妖精王陛下の者たちですか」


師がため息とともに言った。よく見るとルイス陛下の兵ではなく、彼らはエレツアルに仕える者らしかった。となると、この後にやってくるのは…。


「頭を下げよ、妖精王陛下の御成りだ」


言われた通り、頭を下げる。

公式に陛下がこの宿舎を訪ねるのは初めてのことだ。にしても、何が目的の訪問なのか見当もつかない。


「許す」


低く甘やかな声。久しぶりに聞いた声に、改めて無事でよかったと嬉しさが沸いた。頭を上げると、初めて会った日のような簡素な衣装ではなく、とても豪華なものだった。白いローブの上には凡そ地面まで達する長い肩掛け。それも真っ白で、贅沢に毛皮が使われている。派手な出で立ちだが、刺繍や宝石は抑えられ、下品さを感じさせない。全身白の衣装は、彼のプラチナブロンドの髪と翡翠の瞳を際立たせていた。

彼の存在感と覇気は、全員を圧倒し、その美しさに魅了されているようだった。


「今日より妖精王である私もこの宿舎に身を移し、下稽古に参加する」

「なんと…。陛下自らでございますか?御身になにかありましたら国民が嘆きます。どうぞお考え治し下さい」


辺りはただざわつくだけの中、師が臆さずに陛下に発言した。


「これはお願いではない、命令だ。私の命令を聞けぬと?」

「…陛下の仰せのままに」


エレツアルが冷たく言い放つと、師はこれ以上はとばかりに口を閉ざした。

そして、彼の視線が私に移る。


「この物を私の端たにする。部屋へ案内せよ」

黙っていられないと、師が再び陛下を仰ぎ見た。

「陛下、レイリアは大事な歌人です。それを小間使いにせよと仰るのですか?」

「お前は私がこの歌人を傷つけると思っているようだな。ただ傍仕えとして横に居させるだけだ。なにが問題か?」

「恐れ多くも、歌人を遊び女と等しく扱われなさると、王宮にてお噂になりまする」

エレツアルが師を厳しく睨む。

「では、レイリアを我が妃とする。これでよいか?」

「陛下!」


師は私の身を案じて陛下に忠言してくれている。それにしても賢く立ち回るエレツアルが、横暴を通そうとしているのが不思議だった。


「…お前の言うとおりだ。レイリアを傍に置くのは止める。だが、下稽古には明日より私も加わる」

「それでしたら、畏まりました。私如きの言葉をお聴き入れて下さり、感謝いたします。慈悲深き陛下」


エレツアルは冷静ではなかったようだ。

師がほっと胸を撫でおろす。このように庇い立てしてくださって、有難かった。近衛兵が先導し、王が宿舎で過ごすための部屋に向かっていった。師がちらりと私を見て、深くため息を吐く。


「レイリア。貴女、陛下に気に入られるようなことをしたのですか?」

「いいえ、師よ。ただ、私たちを揶揄われたのではないでしょうか」

「…本気のご様子に見えたのですが。あのような横暴を働く陛下を初めて見ました。大変肝が冷えましたよ」

「庇ってくださりありがとうございます」

「当然です!大事な歌人であり教え子を、軽々しく扱われたらかないません」


私たちが話していると、リリアン嬢が凄い剣幕でこちらに寄って来た。


「あなた、一体陛下に何を吹き込んだのよ」

「リリアン嬢」

「呪術の類でも使ってるのではなくって?」

「リリアン、止めなさい」


師に諫められ、彼女は押し黙り、激しい怒りを宿した目で私を睨んだ。リリアン嬢はエレツアルを思っている。ゆえに、陛下に目をかけられたのが許せなかったのだろう。


「リリアン嬢。誓って私は何もしておりません」

「信じられないわね!歌人が穢れた術を使うと知れたらどうなるかしら!」

「そんな…」


怒りで何も見えていない様子だ。堪らずレイとシャリス公がリリアン嬢と私を引き離した。エレツアルのせいでとんでもない言いがかりをつけられてしまった。私を困らせるのが目的なら、十分達成してるだろう。

普段はおっとりしているシャリス公がリリアン嬢を宥めて、その場は収まったのだった。





昼休憩、一人になりたくて中庭で腰かけていると、甘い香りがふわりと漂った。

頭からハラハラと色とりどりの花弁が肩、手の甲、膝へと降ってきて、私を包む。


「エレツアル」


振り返って呼ばれた主は、にこりと微笑んだ。


「どうだ、驚かせようと思って」

「…今日のことと言い、かなり驚いたわ」


エレツアルが悪戯で花弁を降らせたのは、まるで恋人同士のやり取りの様で、顔が自然と赤らんだ。花と、彼の焚きしめた清廉な木蓮の香に頭がくらくらする。

彼はすぐ隣に座って来た。


「暫く離れていただろう。君に忘れられはしないかと思って私も必死だったんだ。許してくれる?」

「許すも何も、貴方は陛下でしょう?」


突き放すと、ぐっと体を寄せられた。普段感じることのない人の体温に、胸がバクバクと音を立て始める。しかも、相手はエレツアルだ。逃げようと身を捩るが、しっかりと抱き締められて放してくれそうにない。


「君に冷たくされると、死んでしまいたくなるよ、レイリア。どうすれば君の愛を得られるのか、そればかり考えてしまう。他に思う男が居るの?」

「男って…」


そんなの居るわけがない。呆れるが、レイの事を思い出す。もしエレツアルに知れたら、まずいことになるかもしれない。私の表情を見抜いて、エレツアルが眉根を寄せた。


「誰のことを考えている?」

「何のこと?付き合っている殿方なんているわけないわ」

「…庇い立てするのか。私に隠せると思うのは愚かな考えだよ。見つけ出してその男を殺す」

「ちょっと、口を開けば殺すって、物騒よ」

「君は悪い女だ。少しでも目を離すといけない」

私が思っているのは貴方だと簡単に言ってしまいたい。

「どうしたら信じてくれるの?」

エレツアルがきょとんとして、面食らった。彼は口に手を当てて、うーむと唸りだす。私はこの綺麗な人に飽きられたのだと思い込んでいたが、違ったらしい。嬉しくなるが、顔に出さないよう口をむず痒くさせた。


「なら、口づけして」

「はっ?」


美女でもない平凡な私が、この国一の貴公子に口づけ?

そんなことをしたら、牢獄へ入れられそうだ。だが、エレツアルの眼差しは真剣で、期待に満ちている。


「…」

「口づけしてくれたら、君が庇っている男の事を一瞬でも忘れてあげよう」


エレツアルが目を閉じて、長い睫毛が頬に影を落とした。綺麗すぎる。気圧されるが、ええいままよ、と白い頬に軽く口づけをする。

ぱっ、と彼の目が開いて、近くで目が合った。

すると、彼が俯く。口を隠し、その顔はみるみる内に赤くなっていった。

こんな平凡な女に口づけされて顔を赤くするなんて思わなかったので、こちらも恥ずかしくなってしまう。


「…」

「…」


2人とも俯いて押し黙る。

そもそも、提案した本人が本気で照れるのは酷いと思った。


「私の心をここまで乱せるのは、君一人だね」

「…なんだか、ごめんなさい」

「嬉しくて本当に何もかも忘れたよ」


愛しくてしょうがない、という風情で言われるので、嫌だったわけではないのかなと思った。安心すると、体をひょい、と持ち上げられエレツアルの膝に載せられる。


「え、エレツアル!」


そしてそのまま、頬に口づけされた。驚いて、口づけされたところから甘く体が痺れていく。互いの息がかかりそうな距離で、恋人の逢瀬のごと瞳を交わした。好きな人にここまでされて、ときめかない筈もない。


「君のために籠を作らせて、そこに閉じ込めてしまいたいよ。そして私が君の世話をする。愛する人に傅けるなんて最高だ」

「本気で思ってるなら、止めてね」


また怖いことを口走り始めたので、苦笑した。

腰をしっかり捕まれて、膝から逃がしてくれそうもないので、いたずら心が芽生えて彼を物理的に擽る。


「レイリア」


完全に不意打ちだったようで、すぐに手が離され、私は地面に立った。

彼の表情を見ると、まるで元の頃に戻ったようだった。私たちは笑いあう。

その様子を、陰から見ている者がいたとも知らずに。

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