第一章 二、鶏のはちみつショウガ焼きで飼い慣らしてみました ーー花①

「ただいまー母ちゃん」

 表の玄関から夫の照の声がした。今日も帰りは夜遅い。きっと機械をいじっている内に夢中になって時間を忘れてしまったのだろう。お腹が空いたら家の存在を思い出す。いつものことだ。

 カウンターの右後ろ、そこにあるドアをそっと開けて照(てる)が入ってきた。うっかり勢いよく開けて、ばいんと花をはね飛ばしたことも一度や二度ではないが、さすがに学習したらしい。AIより、ちょっとばかり学習に時間がかかるのはご愛嬌。

 照の性格を一言で表すなら、「巨大な穴が一つだけ開いたでっかいザル」だ。あるところでは水も漏らさぬ緻密さだが、他のことではまったくの無能。つまりザルとしての機能はまるでないが、穴を何かで塞げば他の者が真似できないような働きをする。

 まあ、能力云々より、とってもおもしろい人だってのが肝心なとこだよね。メカフェチだし、アニヲタだし。オカルト超常現象大好きだし。あ、ついでにファンシー好きだし。

 花はおかげで退屈したことがない。

 失明してから、仕事を辞めなくてはならなくなったが、照のいうとおりに田舎に引っ越したら、新居にはこんなおまけがついていた。

「ね、ね、すごいと思わない? 異世界だよ! この家、異世界に繋がっちゃってるんだよ! 母ちゃん好きなだけ料理できるし、食べる人もいっぱいいるって。肉も魚も野菜も産地直送だって」

 遠くに放ったボールを拾ってきたレトリバーが、目をきらきらさせながら「ほめてほめて」と、わふわふいいながら尻尾をぶんぶん振りたくる。そんな幻影を見た。

 照言うところの「可愛い」グッズを仕入れてきたときも、同じ顔をする。そして花が猫耳カチューシャだのくまエプロンだのを身につけると、満腹したように満ち足りた様子になる。

 照の職場から、山を越えて一時間。山に囲まれた小さな村は、小さな入り江に面していた。田畑が広がる村役場周辺から少し離れ、一団高くなった集落に昔の庄屋の邸宅、現在の花たちの住居があった。同じところに、「決して鳥居をくぐってはいけない」と念を押された神社がある。

 そして村の出納さんが案内してくれた住居の中はリフォームが施されて、割に普通。しかし、長い廊下の奥にあるキッチンはまるで普通ではなかった。

 退屈する暇もあったもんじゃないぞ。異界の賄いはなかなかに刺激的かつ有意義だ。

「母ちゃん、カレー? カレーだよね? 早く食べさせて」

 照は足踏みをせんばかりになって、花に夕食をせがんだ。ここら辺も犬か子どもだ。

「こんなでっかい息子産んだ覚えないんだけどなあ」

 ぶつぶつ言いながら、花はカレーを用意する。本当のことを言えば、照が子どもっぽくふざけたり、駄々をこねたりするのは嫌いではない。そもそも日向家に子どもはいないから、これくらい賑やかなほうが寂しくなくていい。

「父ちゃん、樹(いつき)ちゃんとローヴ、夏にY県のヘヴィメタ・フェスに行くんだってさ」

「ふぇす?」

 ああ、これは専門外だったか。顔に巨大な疑問符を貼り付けた照に、「山の中で催されるロックの野外コンサート」とざっくり説明してやる。実はヘヴィメタ好きな花。心臓を病む前は結構参加していた。

「ローヴは「あちら」では目だつんじゃない?」

 それが目だたないんだな。サバとのような集団の中では、まあ、普通の格好のほうが浮く。

「後で『マンウィズ』ってぐぐってみ?」

 うん。と素直に頷いた照に、深皿に盛ったカレーを差し出す。

「はい、カレー。甘酢レンコンは後から持ってく」

「はいはい。あ、母ちゃんもう手を放していいよ」

 手渡しした二枚の皿を持って、照は食堂に降りて行った。花もレンコンを山盛りにした鉢とスプーンとフォークを持って続いた。段差が緩やかなスロープになっているので、やや爪先に力を入れてバランスをとる。

 ふっと体が軽くなる。「世界」を跨いだ証拠である。少し重力が違うらしい。

「あ、水もってくる」

「お願い」

 花が鉢をそろそろとテーブルに下ろす間に、照は身軽に水のポットとそれぞれのマグカップを取ってきた。

「母ちゃん、今日は何かれー?」

「牛すじのとろとろカレー」

「うわあ、いっただきまーす」

「どうぞ」

 昼間砦の連中が貪っていた量の半分くらいを倍の時間かけて、照はじっくり食事する。花はさらにその半量だ。ちなみに昼はレンコンとおにぎりですませている。ここの連中の食欲につきあっていたら身が保たない。

「何かおもしろいことあった?」

 おや、今日は何か嫌なことがあったな。花は片眉をはね上げた。照が花にネタを求めてくるのは、仕事が立て込んでものすごく忙しかったか、気に染まない仕事を押しつけられたときだ。

 こういうとき、楽しいネタを提供してやるのも花の役目だ。幸い十年前ここに引っ越してきたときから、ネタは尽きることがない。砦はネタの宝庫だ。

「今日ね、新入りさんが来たよ。でっかいおじさんとちっこい妖精さん」

「へええ、妖精さんかあ。可愛いの?」

「スケさんが言うには、ふわふわ蜂蜜色の髪に若草色のきれいな目をしてるんだって。唇がさくらんぼみたいなんだってよ。ほっぺたが熟れ始めたばかりの桃みたいにすべすべで、これが自分の娘なら、しまいこんで外に出さないって言ってた」

「さすがスケさん、女の子の描写に抜かりがないねえ」

「オルたん男の子だよ?」

 そりゃまた、と夫は笑った。花も思い出してにやにやしてしまう。

 オルコットという少年は口が悪くて元気な暴れん坊だ。そしてやさしい子。育ちが良さそうな気遣いと先輩相手に遠慮のないツッコミ。逸材だ。

 容姿に関する、ありとあらゆる褒め言葉に少年は激昂し、スケルトニオに殴りかかるところをヘムレンに止められていた。どうやら後ろから羽交い締めにされたらしい。そこでヘムレンの顎に頭突きをくれたのはゴッという音とぶぎゃっというヘムレンの悲鳴でわかった。

「おもしろいよお」

「僕も早く会いたいな。クリスタならリボン攻めにするんじゃない?」

「それ、もうやった」

 砦には二人の女騎士がいる。クリスタは男に勝る技量と体躯の持ち主だが、ファンシーな可愛いもの好きで、キャラクターグッズ好きの照と仲が良い。

 二人とも飾り立てる対象が自分ではなく「小さいもの」というところも共通している。今のところ一番の標的は花だ。

 いい年をしたおばさんが、色とりどりのリボンやら猫耳やらで盛り付けられるのにももうなれた。

 最初のうちは絶句していた砦の連中もなれた。

 しかし、これからは不慣れな少年が二人の餌食となることだろう。

 気の毒だけど止めない。花はレンコンを咀嚼しながらほくそ笑む。夫の弁によると、クリスタわ波うつ豊かな焦茶色の髪と青い目をした迫力のある美女らしい。お姉さんと呼ぶにはいささか躊躇われる年だが、心は少女だ。

「見たかったなあ。ね、オルたんウサギ耳がいいと思う? それとも熊リュックかな?」

「まあ全部試してみればいいんじゃない?」

 無責任に花は煽る。自分のことではないので何とでも言える。

 近頃、照がうきうきしながら買ってきたふわふわの兎耳ヘアバンドと、クマのぬいぐるみを背負う形になるリュック。妖精のような少年には、どちらもにあうだろう。

「うん。あ、母ちゃんこの牛すじ、もうちょっとちょうだい」

「いいよ。もうそろそろローヴとヘイワン来るからちゃんと残してね」

「了解」

 キッチンに走った照は、鍋をかき回して牛すじを拾っているらしい。炊飯器も開けているから、白飯も食べるつもりだろう。

 やがて軽い足取りで戻ってきて好物のレンコンと牛すじをおかずに食事を再開した。

「この牛すじよく煮えてるねえ。ほんととろとろだ」

「長いこと煮たからね」

「手間かかってるんだあ」

「まあね」

 大嘘である。時間はかかっているが、手間はかかっていない。がんばったのは炊飯器であって花ではない。

 洗った牛すじと玉ねぎ、生姜の皮、塩少々と水。これだけ炊飯器に突っ込んで、スイッチポン。これを三回繰り返す。後は適当に切って煮込むだけ。

 手間というなら、カレー本体のほうがよっぽどかかっている。

 レンコンにしても、茹でて切って漬け込むだけだから、基本的に花の料理は、適当で手抜きだ。

 食べる人々には秘密にしている。花だっていっぱい褒められて得意顔をしたい。そのために、簡単で美味しくてかつ手間がかかっているように見えるメニューを日々研究しているのだ。

「ねえ、母ちゃんのカレー好き?」

「好きー」

 よしよし、可愛い奴め。花はいたく満足した。

 これが花の至福の瞬間だ。これで明日も生きていける。

 にまにましながら夫のむぐむぐたべるのにつきあっていると、左手の引き戸がそろりと開いた。

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