第一章 一、牛すじカレーに人生を見失う④

 むっつりと黙り込んだオルコットをつれ、老人二人は王都の色街番付について情報交換に余念がない。

 やれ「サリは乳が豊かで気立てもよい」だの「トーやは尻が大きくて床上手」だの、口にするのも憚られるような話をぐふぐふと楽しそうに続けている。ヘムレンはともかく、こんな辺境にいるスケルトニオが情報を手に入れているのをちょっと不審に思ったが、エロじじいならではの情報網があるのだろう、と半眼になって二人を眺めた。

「じじいになると、食欲より性欲なのかよ」

 ぼっそりと呟くオルコットを二人は振り返り、はああとため息をつき、肩を落とした。

「いかん、いかんぞ」

「そうじゃ。いい若いもんがそれではいかんぞい。わしの若い頃は人妻からのお誘いが絶えることなく、使いのものが行列をつくってじゃな…」

「黙れ、淫欲じじい」

 ぴしゃりとスケルトニオの口を塞ぎ、オルコットは再びため息をついた。この小男が何故はるばるエンリカまで飛ばされたのか、その理由がうすうすわかったのだ。ヘムレン? そんなことはわかりきっている。

 とにかくメシだ、メシ。後のことはそれから考えよう。

 豚舎、牛舎と通り過ぎ広い牧場を右に曲がると、石組みの教会と領主の館が向かい合う、石畳の小さな広場に出た。

 領主の館はいささか奇妙なつくりをしている。三階建ての二階と三階は教会と対をなすような石造りなのだが、一階は石造りに木造がめり込んだようになっていた。それも屋根が鱗のようにうねり、深く建物に被さった、見たことのない建築様式だ。

「飯は自分で作ってもよいが、たいてい皆、賄いで食うとるの「

 賄いというのは領主の館の一階、木造部分のことらしい。スケルトニオは脇の小屋に鶏を放り込むと、表の引き戸を開け、くん、と鼻をうごめかせた。

「運がいいのう。今日はカレーじゃぞい」

 かれー?

 聞き覚えのない料理だ。しかし、スケルトニオの肩越しに漂ってくるのは、食欲の鼻面を掴んで引き回すような、暴力的なまでに本能を揺さぶる刺激のある香りだ。

「ハナさん、新入りを連れて来たぞい」

「そっか。よう来たね。まあ入りんしゃい。すぐに用意しちゃるけん」

 あまり若くない女の声だ。妙な訛りがある。その声に促されて、オルコットは賄いに足を踏み入れた。

 明るい。それに思ったよりも広い。四人掛けのテーブルと丸椅子の組み合わせが五組。床は板張りだが、艶々と光っている。奥に一段高くなった台所らしきものがあり、カウンターの向こうにここの主がいた。

「ハナさん、騎士ヘムレンと騎士オルコットじゃ」

「自己紹介しちゃらんね。誰が誰だかわからんばい」

 手元を見ることなく正面を向いたまま、ハナという女は忙しなく作業をしている。長い黒髪を一つに束ねた顔は年齢のわからない平板なつくりで、象牙色の肌の色からしても異民族なのだろう。その動きにどことなく違和感を覚えながら、オルコットは老人たちに続いて丸椅子に腰を下ろし、どっこらしょと旅の荷物を床に置いた。

「ハナ殿、お初にお目にかかる。ヘムレン・ポートナファルじゃ。年は五十七。背丈はここの戸口より少し低いかの。右の頬に手のひらの長さほどの刀傷がござる」

 妙だ、普通、自己紹介ならば出身地だとか主な戦功だとか、もう少し「わかりのよい」ことを言うものだ。

 しかし、ハナは納得したようにふんふんと頷いた。

「大きかねえ。ご飯いけるんじゃろね」

 カウンターに小皿をゆっくりと三枚並べながらハナは言い、次の作業に取りかかる。すっくとスケルトニオが立ち上がり、ヘムレンとオルコットに片めをつぶってみせた。

「ここは自分で皿を取りに行って、食い終わったら自分で返すのがきまりじゃ。今日は特別にわしが運んじゃろうの」

「あ、俺が運びます」

 しまった。「いい子根性」が発揮されてしまった。仕方がない。今までこれで生きてきたのだから、なかなか習慣は抜けない。

 スケルトニオを制して、オルコットは小走りでカウンターに近寄る。距離を詰めてみると、ハナが自分よりも一回り小柄なのがわかった。 先程のヘムレンの物言いは丁寧だった。旅の間も町人や農民に威張り散らしたのは見たことがない。それだけは、この傍迷惑な元英雄の美点だろう。オルコットも平民を見下すのは好まない。

「初めまして、ハナ殿。オルコット・イアファン・デ・ラ・シルベルトと申します。王との生まれで…」

 言いかけて、ハナが手を止めてじっとこちらを見ているのに気づく。

 いや、見ていない。ハナの視線はオルコットから微妙に逸れている。というより、その目は何も見ていない。

 ハナの右目を覗き込む。白い。左目はさらに白かった。瞳のないその目に、は何も映ってはいなかった。

「目が…」

 思わず呟いて、限りなく後悔した。こういうとき、何と言ってよいのかオルコットは知らない。経験がないからだ。なんとなく、相手の弱味を暴き立てるような気がして、はっきり口に出すことを躊躇ってしまう。

 当のハナはにっと笑った。魔女めいた笑顔は、少し人が悪そうに見える。

「ああ、見えんとよ」

「全然?」

 バカバカ、俺のバカ。口をついて出てきた言葉に、内心オルコットは自分でツッコミを入れる。こういうことは、話題にしてはいけない気がする。

「十年前からね。病気で見えんごとなったと」

 淡々とハナは言うが、オルコットはどうしてよいかわからない。皿の上に白い何かを数枚ずつ載せたハナは、固まっているオルコットに笑いかけた。今度は、柔らかい笑顔だった。

「優しい子やねえ。あたしを傷つけんごと心配しよるんよね?」

「いや、それは…」

「心配いらんとよ。おばちゃん、口は達者やけん、手伝いがいるときはいるっちゅうし、いらんときはいらんち断るけん。口に出さんことは考えちょらんと思ってよかと」

 今まで会ったことのない類の女の人だなあ。ちょっと感心する。

 母をはじめ、王都の女たちは、「まああ、素敵なドレスですわね」というのが「ふん、顔が衣装に追いついてないわ」の意味になる。暗号のような思考回路をしている。

 すべての女がこんなにあっさりしていたららくだなあ、とおもう。

「それじゃあ、この皿の運びます。これ何ですか?」

「レンコンの甘酢漬けばい。カレーの合間に食べると、シャッキリ爽やかで、口の中がさっぱりすると」」

「レンコン?」

 何かの花のように丸い円盤にきれいに穴が開いている。ほのかな酸っぱい香りが唾液の分泌を促す。

「沼に生えとるきれいな花の根っこでね、さっと茹でたらシャコシャコしとってうまか。煮ても揚げても、摺りおろして蒸しても、それぞれ違った食感になると」

「へええ「

 聞いたこともない食べ物だが、にこにこしゃべるハナの説明が、否が応にも期待を掻き立てる。

 いそいそと老人たちの元に皿を運ぶ。スプーンとフォークを構えて臨戦態勢の二人はレンコン?を前にゴキュリト喉を鳴らした。

「今日は牛すじのカレーばい。とろとろしとってうまかよ。ルーの方にも細かくしたのが溶けちょるんよ。野菜もたっぷり入っとると」

 牛すじ? そんなものが「とろとろ」? なんだか納得いかない。すじといえばあれだ。野宿で獣を捌くときに、どうしても小刀では切れないほど硬いところだ。しかし、どうしてこの人の口上は、こうも食欲をそそるのだろう。

 振り返ると、カウンターにはすでに深皿が三枚。ほかほかと湯気をたてる料理が盛られていた。

 あああ、匂いがあああああ! 

「おかわりあるけん、いっぱい食べり」

「はい、いただきます」

 さっきの三倍の速さで皿を運び、オルコットは自分も席についた。スケルトニオが見計らって食前の祈りを捧げる。もどかしげに祈りに唱和し、オルコットはスプーンを構えた。

「あ。待って」

 そんな殺生な。手を止めた三人は、じっとりと恨めしげにハナを見る。

「飲み物忘れちょった。はい、これ持っていっちゃらんね」

 持って行っちゃ利マストも! 我慢も限界に達していたオルコットは、ほとんど全速力でカウンターに突進し、素焼きのコップと壷を受け取りテーブルに戻った。

 仕切り直して深皿の料理の香りを深々と胸に吸い込む。香辛料が複雑な匂いを放ち、、白い何かの上にとろりとかかった汁には様々な具が見え隠れしている。

 よし。オルコットは最初の一口を頬張った。

 何だこれは? ナンダコレハ?

 辛い。そして甘い。白いものはもっちりと柔らかく、噛んでいると汁の辛さと渾然一体となって絶妙な甘みを加えている。鼻に抜ける香りは漂っていたものよりずっと強烈で、次々にスプーンを口に運んでしまう。止まらない。

 ん? これは何だ? 一口大の塊がくちの中にある。ねっとりとした食感の中に途轍もない旨み。そうか、これが牛すじか。

 ふと顔を上げると、あの飄々としているヘムレンが、額に汗を浮かべながら必死にスプーンを動かしていた。

 よし、俺だけじゃない。オルコットは妙な連帯感をもって再びカレーに挑んだ。

 辛さから体に熱が籠もる。レンコンに手を伸ばした。ねばりつくような牛すじの食感とは対照的な、シャッキリした歯ざわりと酸味と甘味が口の中をさっぱりさせ、またカレーに没頭させる。

 最後の一口を飲み込んで、コップのよく冷えた水を口に含んだとき、なんとも言えない寂寥感がオルコットを襲う。

 終わってしまった。

「おかわりどうね?」

「もらいます!」

 オルコットが立ち上がると同時に老人たちも皿を片手に立ち上がり問答無用で先を争う。

 速い! だが負けるかよ。

「年長者を立てろ!」

「俺が育ち盛りつったの、あんただろが!」

「わしも育ち盛りじゃぞい」

「あんたは背丈も頭髪も成長期終わってるだろがぁっ!」

「オルたんひどい」

「そうじゃ、オルたんちっこくて妖精さんみたいに可愛いんじゃから、ここはひとつわしに譲って」

「うるせえ! 誰が妖精さんじゃ!」

 そこに仁義はない。

「あっはっは、仲良しやねえ」

 ハナは豪快に笑うと、三人の皿をさっきよりも少し多めに満たしてくれた。

 こうして忘却の砦での忘れられない日々は始まったのだ。

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