第16話 聖女
まだ夜が明けないうちに目覚めた
保健室で一泊という珍しい体験の後、ベッドから出た小熊は真っ暗な廊下に出る。
桜井はもう起きていた。入院していた頃の共同生活の記憶でも、朝は妙に早起きだった気がする。
桜井がまだ暗闇の窓の向かって随分と簡略化した朝の礼拝をしているので、小熊はタオルや歯磨きセットを持って浴室に向かったところ、桜井が後ろから貼りついてくる。
夜の校舎と真っ暗な廊下を一人で歩くのが怖いらしい。神職者にあるまじき事だと思ったが、きっと何か変なホラー映画でも見て影響を受けたんだろう。
小熊はといえばまだ人の雰囲気が残る昼間の学校より、清冽な空気に満たされた夜の学校の雰囲気が好きだった。
きっと学校というものは、一日中絶えない人の往来で溜まった生活の匂いを一晩かけて浄化し、翌朝また生徒を受け入れる。
桜井と交代で溜め息が出るほど雰囲気も木の香りも心地いい檜作りのシャワールームを使い、歯を磨いて保健室に戻った頃、生沢が朝食の支度が出来たと呼びに来た。
生沢が宿直室のダイニングテーブルに用意したのは、やっぱりというか英国式朝食だった。
半熟の卵二つと分厚いベーコン、缶詰じゃないらしき豆のトマトソース煮、銀のトーストスタンドに立てられ三角切りのトースト、自家製のマーマレードとバター、初めて見る鰊の燻製。
小熊も桜井も食欲が落ちるほどには緊張していない。美味でボリュームのある朝食を堪能した後、イングリッシュ・ティと夕べの余りらしきメロンを食べ終えた小熊は席を立った。
「小熊さん、まだ出発には早いわよ」
小熊は予想より美味だった朝食の礼を伝えた後、生沢に答えた。
「出る前にもう一度バイクを点検します。それから荷物の梱包を自分の目で見たい」
桜井はもうメッシュベストに納まった装備を再確認していた。長らく着込み、革が彼女の体形に合わせて型付いたバンソンのレザージャケットに袖を通す。桜井のグリーンの瞳が、精緻にカットされたエメラルドのように輝きを増した。
屋外灯に照らされた分校の軒下で、基本的に堅牢な構造でトラブルの起きにくいフュージョンの、基本的な部分をチェックする、タイヤ、オイル、ブレーキや灯火、ボックスの固定、そしてそれらに異変が発生した時に対処するパンク修理スプレーや補修部品、タイラップやダクトテープ、車載工具。
純正じゃないアフターパーツをあちこち付けた高出力な改造バイクゆえ小熊のフュージョンより少し手順が多い白いフュージョンを点検している桜井に話しかけた。
「聞き忘れたけど何でこの仕事を請けた?今時のシスターはそんなに食うに困ってるの?」
桜井は作業の手を止めることなく答える。
「この辺りの地理に精通している人間としてあたしが選ばれ、浮谷ちゃんから直々に依頼を受けたんだ。それに今、あたしは金がいるんだよ」
清里の教会で結構な給与を頂戴している桜井が自分のように多額の借金を抱えているとは聞かない。ヘンな男に貢いでるといった話も無いはず、そこで小熊はピンと来た。
「直すの?NSRを」
桜井は少し顔を赤らめて頷く。
「事故の補償金でパーツはだいぶ買い集めたんだ、でもそれじゃ足りない、本格的に直すなら金は飛んでく、事故前から調子悪かったとこまで全部直したいからな」
小熊は自分のカブや、同級生の春目のカブを修復した時のことを思い出した。壊れたパーツを揃えるだけならスマホと通販サイトとクレジットカードさえあれば家で寝っ転がってても出来るが、実際の組付けや調整、それから修復業者に持ち込むような大掛かりな作業にはそれなりの気力が必要となり、当然金もかかる。
どうやら桜井はNSRの修復という作業で、寝たまま出来るような段階を過ぎ、体を起こさなければいけない段階へと進もうとしているらしい。
小熊は病院での出来事を思い出した。あの時は事故で壊れたバイクを口だけで直す直すと言って何もしない桜井に業を煮やし、病院の最上階から突き落とそうとした。そこまでされて桜井はやっと本音を話た。小熊は事故で抱いたバイクへの恐怖を打ち明けた桜井のため、歯車のトラウマを持つ彼女でも乗れるフュージョンを探して奔走させられたりもした。
「わたしが悪いのかな」
小熊は自分のやった事が悪い事だとは微塵も思っていないが、何が無駄なことをしてしまったかと思えてきた。
「何もかも小熊ちゃんのせいだ、あたしはあの時一度死んで生まれ変わった、人間そうなるとろくでもない事をやらかすって聖書にも書いてるだろ」
「フュージョンはもう好きじゃなくなった?」
自分でもちょっと拗ねたような声が出るのが意外だった。フュージョではなくそれに乗らせた自分をないがしろにされたような気分になる。
浮谷が白いカラスと名付けた改造フュージョンは、ビッグスクーターの域を超えたような加速とコーナリング性能といい、意外と日常の用でも乗りやすく維持コストが安いところといい、NSRに劣ったバイクには思えない。事故で両足を骨折した桜井の乗り換えバイクとしては最良の選択だと思っていた。
「白いカラスはいいバイクだよ。カッコよくてどこでも行ける、大好きでこれからずっと乗り続けたいと思っている、でもあたしにはNSRなんだ、好きとかそういうのじゃなく、あたしがいつか、この身と共に神に還すと誓ったのは、NSRだけなんだ」
小熊はなんか口のうまい奴に丸め込まれたような気分になった。
点検を終えた小熊は立ち上がり、桜井の横であぐらをかいて作業を手伝う。
「どうしようも無い浮気ヤローだ、お前は」
桜井は小熊の胸に直接届き、心臓に悪戯をするような笑いを浮かべながら言った。
「だから神の使徒なんだ、あたしは」
黒姫のどこまでも澄んだ夜空が白み、やがて朝陽が桜井を金色に照らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます