第57話 燃え尽きる
メジャー帰りの選手というのは、それなりにいる。
だがそれは、おおよその場合は、もうメジャーでは通用しなくなったという事実を指す。
その中の数少ない例外が、ジャガースの矢沢である。
年齢的には36歳のピッチャーなので、衰えが見えて引退しても全くおかしくはない。
ただ彼が日本に戻ってきたのは、二年前に怪我をしたのと、そこからの復帰で去年のスタッツがあまり伸びず、年俸に見合うだけの力はないと判断されたからである。
MLBにこだわるなら、マイナーに落ちてでもプレイしたのだろうが、矢沢には日本に戻ってくるという選択があった。
今季の年俸は単年契約の10億であり、ジャガースが安い若手でレギュラーを固め、高額年俸の外国人を単年で雇うという球団でなければ、成立はしなかっただろう。
そんな矢沢は今年、18勝6敗という期待通りの活躍で、クライマックスシリーズでも福岡を破る原動力となった。
パ・リーグの最多勝となり、最高勝率のタイトルも得た。
ただ彼が日本にいない間に、主にセ・リーグで大変動が起こったのは、知ってはいたが実感はしていなかった。
上杉というピッチャーが甲子園に現れる前に、彼はアメリカに渡った。
アメリカではそれなりに大変な挑戦ではあったので、シーズン中は日本のことも、気にしている余裕はなかった。
だが化け物のようなピッチャーが現れて、当時Bクラス常連だった神奈川に入ったという程度のことは知っていた。
MLBという、世界最高の舞台で戦う自分が、高校野球のスター程度に目を向けている余裕はない。
矢沢は矢沢なりに懸命であり、そしてMLBでの実績を積み上げ、年俸も上げていった。
しかしシーズンが終わって日本に帰れば、矢沢のアメリカでの活躍よりも、上杉の神奈川での活躍の方が取りざたされる。
そして確かに、見て分かった。
あれは化け物だ。MLBでもおそらく、あれに勝てるピッチャーはいない。
しかしそれと同時に、高校野球ではまたも、怪物と呼ばれる存在が生まれていた。
甲子園での打撃記録のほぼ全てを塗り替えた、小さな巨人。
本人はその呼ばれ方が嫌で、サイヤ人と呼ばれることを好んでいたという。
確かにそう言ってもおかしくはない。高校時代には公式戦だけで70本以上の本塁打を打ち、甲子園には四大会しか出場していないのに、それまでの記録を大幅に更新するホームランを打ちまくった。
金属バットを使っていたとは言え、どうやったら甲子園球場で場外まで飛ばせるのか。
それにカナダでのワールドカップは、シーズン中とは言え話題になったのだ。
木製バットでも、ホームランを量産した。
予告ホームラン。
スイッチホームラン。
四打席連続ホームラン。
ホームランの神に愛されているかのようなバッター。
あれは絶対に薬物だな、と矢沢は確信していたのだが、検査の結果は完全にシロ。
と言うか薬物をやっていても、あそこまでは打てないだろうとも思った。
あれが将来はMLBに挑戦するにしても、その頃には自分はもう引退だろうと思っていた。
しかし契約が上手く行かずに一年間日本でプレイすることとなり、まさかの対決がやってきた。
あの交流戦での対決は、四打数二安打の一本塁打で打点二。
一応一つ三振は奪ったが、試合にも負けた。
正直なところ日本のリズムに体が慣れておらず、本調子であったとは言いがたい。
それでもあそこまでは順調に勝ち星を積み重ね、さすがは現役MLB級と賞賛されていたのだ。
しかし他のバッターはともかく、大介は違った。
とても普通そうに、矢沢の球を打ったのだ。
正直なところ、交流戦の後からは、より調整には気を遣うようになった。
勝つのは当たり前だが、それに加えてプレイオフを睨んで、神奈川であれば上杉と投げ合うことを、ライガースであれば大介を封じることを考え、そこに体調のピークを持っていこうとしたのだ。
よって後半戦は少し負けが増えたが、それでも結果的にはチーム一の勝ち星を上げた。
クライマックスシリーズでも第一戦と最終戦を投げて、日本シリーズへ勝ち進むことに貢献した。
パ・リーグのMVPは、矢沢だろうと既に言われている。
だが矢沢も、クライマックスシリーズからライガースが勝ちあがって来るのを知って、表情が強張るのを抑えられなかった。
上杉ならばいいのだ。自軍が一点も取れなくて、自分が一点しか取られないとかであれば、言い訳が立つ。
しかし大介はダメだ。
ルーキーが三冠王で、ホームランを59本打って、四月から九月まで全ての月間MVPを取るとか、マンガのラスボスでもここまで無茶苦茶ではない。
立場的には自分の方がラスボスなのかとも思うが、一試合も欠場なく、ほぼスランプもなく勝ち上がってきたのが凄すぎる。
だがそれでも、クライマックスシリーズでは、上杉からは打てなかったのだ。
日本での成績を手土産に、代理人にはまたMLB球団との交渉は進めてもらっている
ジャガースは残念だろうが、今年の年俸でも、MLBで期待される金額とは、倍以上の差があるのだ。
それに正直なところ、化け物が二匹もいる今の日本には、あまり長居したくない。
日本シリーズの第一戦。
名誉あるマウンドであるが、正直なところ緊張もしている。
ただ一つ安心したのは、ライガースの先発が高橋だったことである。
矢沢が高校時代には、高橋は既にライガースの大エースで、同じチームの足立と共に、Aクラス常連の原動力となっていた。
プロ入りした時には、巨大な目標であったものだ。
足立と共に、MLBに挑戦しなかったのが、矢沢としては不思議であった。
ただあの頃は打線の援護が薄く、ピッチング内容に比べると数字が悪くなっていたのも、日本を出なかった理由かもしれない。
さすがに今は、もう自分の方が上だ。それもはるかに上だ。
200勝を目標としてNPBにしがみついているのだろうが、それよりもMLBに行った方が、明らかに稼げただろう。
優れた選手は、稼げるステージに行くべきだ。それが矢沢の考えでもある。
一回の表は、ライガースの攻撃。
先頭打者の西片は、矢沢がジャガースの大エースとして君臨していた時代に、社会人を経てプロ入りしてきた。
一年目はルーキーながらの即戦力として、二番を打って守備の貢献が多かった。
二年目からは一番センターが指定席で、首位打者部門では必ず十傑に入る打率を誇っていたが、実は出塁率のライキングの方が高い。
優れた選手ではあるが、MLB級の実力者ではない。
そう思って投げたのが悪かったのか、初球をセンターに弾き返された。
矢沢は立ち上がりがやや悪い傾向にあるが、これは初球からストライクを安易に取りにいってしまった。
日本シリーズの第一戦の、第一打席。
先頭打者としては、かなり積極的である。
二番の石井は、古き良き二番打者といったところか。
基本は器用な犠打専門員だが、前にランナーがいない場合は、粘って出塁率を上げてくる。
ただこんな状況からでは、無難に送りバントをしてくる。
確実に送りバントで、西片は二塁へ。
もし一塁への送球がちんたらしていたら三塁も狙っていただろうが、さすがにプロでそのレベルの失敗はない。
ただ、狙うはホームベース。
先制点は俺が踏む。
一死二塁で、バッターは三番の白石大介。
遠征してきたライガースファンも、地元のライガーズファンも、そして高校時代からの大介ファンも、知っている。
大介は、相手が誰であろうと、打つ時は打つ。
対するジャガースは、リスクの高い勝負はしない。
矢沢の球種で空振りを多く取るのはスライダー系だが、大介は左打者だ。
そしてシーズン中には内角ギリギリどころか、そのままなら当たるボールを、器用に振り切ってヒットや果てはホームランにまでしている。
無理に勝負はせず、際どいところを攻めていく。どうせ一塁は空いているし。
歩かされる可能性は、大介はしっかりと感じている。
それでも申告敬遠や、あからさまな敬遠はしてこないだろう。
それは日本シリーズというお祭りに相応しくないし、矢沢のプライドにも反するはずだ。
だから、初球を狙った。
どうせ外角だろうと思って、そこに158kmの伸びのあるストレートがきて、長いバットのヘッドを走らせて、打つ。
甲子園球場の気ままな風を利用するため、フライ性のボールをレフトに打つ練習はしてきた。
埼玉ドームの、甲子園よりははるかにホームランが出やすい環境。
大介は風の影響を切り裂く打球を本来は打つが、ここではその必要がない。
レフトのポールに当たって、先制のツーランホームランである。
一戦目は捨てているのか、と察している選手もいるにはいる。
だがそんな作戦があったとしても、ホームランを打ってはいけないわけもない。
あのコースを、あの角度で飛ばして、ホームランにするのか。
体格の小ささから考えても、日本にとどまるレベルではない。
この試合はMLBの球団スタッフも見ているはずだ。
今年のレギュラーシーズンの内容からいって、来年はMLBに戻れるとは思っているが、ひょっとしたらこいつの株を上げているだけなのでは。
実際のところ、ルーキーである大介がMLBに行くメリットは、強い相手と戦えるという以外には何もない。
球団愛と言うか、甲子園愛の強い大介には、上杉と戦える日本のリーグから、アメリカに行くメリットはいまだに感じられない。
現実的な話をすると、海外で成功する日本選手も、日本での実績と貯金があるから成功するのだ。
大介はまだ、日本のプロ野球界で充分に飢えを満たしている。
一戦目は捨てるつもりであった。
しかし防御率が二を下回る矢沢から、初回で二点を取った。
だがこちらの先発の高橋は、五回をやっと四点に抑える、ローテーションのつなぎ投手。
完全に捨てたと考えている試合を、拾いに行ってもいいものか。
当初の予定通り、だらだらと失点されても、中継ぎに疲れを溜めずに第二戦を迎えたい。
高橋は、一回の裏を無失点で抑えた。
昔のボールが甦っているなどというわけではなく、ただひたすら積み重ねた、投球技術によるものである。
ベンチに戻ってきても、無駄口を叩くこともなく集中している。
足立が完全にパンクしたことは、首脳陣以外にはほとんど知らされていない。
知っているのはピッチャーの運用で意見を求められる島本と、そしてこの高橋だけだ。
もう無理だな、と足立は言った。
右肩の故障は手術が必要なレベルで、それが完治するまでにも、骨以外にも腱や靭帯など、肩がまるごといかれている。
キャッチボールするにも一年以上のブランクと、そこからのリハビリが必要になるだろう。
チームの士気のためにも、相手の作戦を限定させるためにも、話せる相手は限られていた。
お互いが対等の相手として、そして口の固さも考えて、足立は高橋には話した。
そして問いかける。
「200勝とチームの優勝と、どちらを選ぶ?」
来年も投げていたら、250セーブに届いていただろう男の言葉である。
足立と高橋には、共通した傾向がある。
二人ともとにかく投げることが好きで、MLB志向がなかったことだ。
今いる環境の中で、ベストのピッチングをする。
それを競い合うように求めてきたため、二人は同じチームにいながら、それぞれ二度の沢村賞を取った。
それで日本一になれなかったあたり、当時のライガースの勝負弱さの証明でもあろうが。
足立は日頃から言っていた。
50歳になっても60歳になっても、草野球の舞台であっても、野球をしていたいと。
その足立が、ほとんど投げることさえ不可能なほどの無理をして、上杉に勝った。
200勝と、チームの優勝。
共に充分に稼いだ二人。あと求めるのはどちらか。
高橋は答える。
「両方」
五回までを投げて、二失点。
ライガースは大介が二打席連続でツーランホームランを打って、スコアは4-2と変わっている。
ここまで来ると首脳陣も、迷いは大きくなる。
二点の差。そしてリリーフ陣自体は、それなりの準備をしてある。
勝ちに行くか?
矢沢を打って勝つとなると、これはもう大きな勝ち星だ。単なる一勝ではない。
それにここから勝ちに行って、相手も矢沢を降ろせないとなると、次の先発までにもう少し時間を置かなければいけなくなる。
元々リリーフの予定はあったので、松江には肩を作らせてある。
そこで打ち込まれた時のために、草場にも準備はさせてある。
一イニングずつ投げさせて、八回をレイトナー、九回を青山。
足立がいれば、もっと確実に勝てただろうに。
「勝ちに行きましょう」
普段は寡黙なピッチング職人の高橋が言葉を発する。
「あと藤田にも準備させましょう。ここで、矢沢を叩く」
レジェンドの言葉に、首脳陣も腹を決めた。
何かが近付いてくる。
今のライガースの首脳陣は、誰もが知らなかったこの感覚。
優勝への足音が、聞こえてきている。
気合だの根性だの、そんな精神論で勝てるものではない。
ただ執念さえあれば、勝利への最適解を求め続けるし、打たれても切れたりはしない。
ブルペンが忙しくなる六回の表、大介が三打席連続となるホームランを打った。
三点差。これで四イニングを逃げ切る。
ジャガースが矢沢を降ろした。潤沢なリリーフ陣で、あとはこれ以上の失点を防ぐつもりなのだろう。
矢沢には疲労を溜めず、このシリーズ中にもう一度投げてもらいたい。
ライガースの中継ぎがベテラン揃いというのも、相手が足でかき回してくるジャガース相手となれば有利な点がある。経験値で落ち着いて投げられる。
連打を浴びても、冷静にアウトを優先して取る。
一点を奪われながらも、松江は二者残塁で六回の裏を終えた。
七回はツーアウトを取りながらも、草場の制球が乱れて満塁。
ここで送り込まれたのが、今季終盤は中継ぎになっていた藤田である。
椎名と違ってどうにか一軍に上がってきた彼は、昔から言われていたのだ。
ピンチに強い男と。
守備力特化の打者に代打が出されて、それをピッチャーフライで抑えて無失点。
あと二回、計算出来るリリーフ二枚で、二点差を守る。
そのつもりでいた。
八回の表、歩かされた大介を一塁に置いて、今度は金剛寺のツーランホームラン。
球場の熱狂が空気を揺らす中で、39歳のベテランがホームベースを踏む。
これで楽になった。
四点差。実はレイトナーには、微妙なデータがあるのだ。
三点以上の点差があれば確実に無失点で後ろにつないでくれるが、負けの付いた試合では、二点差以内が全てであったのだ。
これを単なるジンクスや、統計としてみるか。
あるいは本人のメンタル的な問題として見るか。
一人に投げただけの藤田を、八回にもいかせるという選択肢もあった。
だが四点差になれば、もう勝てる。
首脳陣は狂乱の中でも、どこか冷静な、そう言うのが適当でなければ、狂乱とは別のふわふわとした奇妙な現実感の中にいる。
八回の裏、レイトナー。
九回の裏、青山。
それぞれが三人で終わらせた。
首脳陣が捨て試合として認識していた第一戦。
それを許容しなかった高橋の熱投が、間違いなくこの結果を呼び込んだ。
無茶苦茶なことに、この試合でライガースの上げた打点は、全てホームランによるものであった。
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