今日だけは、めいくる
どうやら随分と今日の零は気が抜けているようだ。
心の中の想いをそのまま言葉として漏らしてしまうのだから。
彼の呟きを耳にした有栖が戸惑いの声を上げると共に驚きに目を見開く。
そんな彼女の反応を目にして、自分がたった今、とんでもないことを言ってしまったことを理解した零は、大慌てで言い訳を口にし始めた。
「あっ、いや! ち、違う! そ、その、これはあれ! 自分の子供を抱っこしてあげたいとかそういう微笑ましい感じのやつであって、決して不純なことを考えて言ったわけじゃあなくって……!!」
「………」
自分でもどう言い訳したらいいのかわからないし、なんだか言えば言うほどドツボに嵌っているような気もしなくはないが、それでも零は何かを言わざるを得なかった。
今の失言のせいで、せっかく自分を励ましに来てくれた有栖のことを傷付けたりしてなければいいが……と焦る彼であったが、彼女の反応はそれとは真逆で……?
「……はい、どうぞ」
「……はい?」
やや伏し目がちになって顔を赤らめさせていた有栖が、顔を上げると共にゆっくりと両腕を開く。
抱っこをせがむ子供のように、あるいはこの腕の中に飛び込んでこいと我が子にアピールする親のように、抱き締め、抱き締められるための構えを見せた彼女は、赤く染まった顔を零へと見せながら口を開く。
「いいよ、おいで。抱き締めたいんでしょ?」
「い、いや! そ、そういうわけじゃあ――」
「そういうわけじゃないんだったら、どうしてあんなこと言ったの?」
「そっ、それは、その……」
「……いいよ、大丈夫。零くん、ちょっとナーバス気味なんだよね? そんな時なんだから、弱音がつい口から飛び出しちゃうこともあるよ」
すっと、一歩零との距離を詰めながら、彼のことを励ます有栖。
優しく頭を撫で、珍しくやらかした彼のことを慰めながら、彼女はこう続ける。
「私なんかを抱き締めて零くんが元気になるんだったら、喜んで抱き締められるよ。この間も似たようなことしたんだし……おいで? 大丈夫、私のことは気にしなくていいから」
「う、ぐぅ……」
気にするな、と言われても無理な話だ。人一倍臆病で気弱な有栖が無理をしていることなんて、真っ赤に染まった彼女の顔を見れば一発でわかる。
だが、そんな性格の彼女が一生懸命に羞恥に耐え、自分のために頑張ってくれている姿を見てしまうと、その厚意を無為にすることもまた躊躇われた。
そして何より……今の零は、込み上げる自分の感情を抑えることができないでいる。
何かに拠り所を求めるような欲望のままに、普段ならば絶対にしないその行動を、彼は静かに取ってしまった。
「んっ……!?」
椅子に座ったまま、そっと有栖の体を引き寄せ、その背中に両腕を回す。
右手は細い彼女の腰に、左手は小さな頭に置いて、優しく強く有栖を抱き締めた零は、どうしようもない安心感に深く息を吐いた。
(……小さいな。細いし華奢だし、簡単に壊れちゃいそうだ)
もっと強く抱き締めたら、そのままどこかが折れたり砕けてしまうんじゃないかと思えるくらいに弱々しい有栖の体。
だけど今、自分はこの小さな少女に全てを預け、安堵させてもらっている。
呼応するように背中に腕を回し、自分のことを抱き締めてくれる有栖の手の感触に温もりを覚えた零は、彼女の肩に顎を乗せたまま緩やかに目を細めた。
「よしよし……好きなだけ甘えていいからね……」
本当に不思議な感覚だ、有栖の声を聞きながら零は思う。
普通、異性と抱き合うなんて大胆な真似をしたら、もっと緊張するはずなのだろうが……今の自分はそれとは真逆の、非常に落ち着いた感情を抱いていた。
母の胸に抱かれている安心感というか、心を平穏にしてくれる安らぎというか、そういった不思議な感覚に自分の心が静かな喜びを感じていることを理解する零は、同時に自分を抱き締めてくれる有栖の心臓の鼓動を感じてもいる。
零とは真逆に心臓の鼓動を早くしながら、強い羞恥と緊張を抱きながら……それでも有栖は、そういった感情を表に出さないよう一生懸命に努力して、自分のことを励ましてくれていた。
(ああ、ヤバいな。これ、マジでヤバいわ……)
体格差から考えれば自分が有栖のことを抱き締めている形になっているはずなのに、どうしても零の方が彼女に抱き締められているような気がしてならない。
体は自分が有栖を抱き締めているが、心は彼女が自分のことを抱き締め、受け止めてくれているのだろうと、自分が思っている以上に有栖に甘えていることを自覚した零は、そのまま彼女に小さな声で言う。
「……有栖さん、今日の俺、マジでだめな日かも。もう少し甘えてもいい?」
「うん……零くんは普段、頑張り過ぎてるんだよ。だから、今日くらいは私に甘えて、休憩しようよ。ねっ?」
「ん……」
背中に回っている有栖の腕に、手に、力が込められる。
それは本当に微々たる変化であったが、彼女と抱き合う零には有栖が自分のことを一生懸命に受け止めようとしてくれていることが感じられた。
一層早く、激しくなる心臓の鼓動は、有栖が抱いている緊張と羞恥の表れだ。
気弱で、恥ずかしがり屋で、こんなこと絶対に不慣れだろうに、弱くて強いこの少女は目の前の男一人のためだけに気力を振り絞り、頑張ってくれている。
そこまでしてくれる有栖のことを思うと、必要以上に強がることが愚かに思えた。
少しだけ、今日だけは甘えてしまおうかと、普段ならば絶対に至らないその考えに思い至った零がぼそりと彼女へと呟く。
「……ごめん。お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」
「ふふふ……! はい、そうしてください。とりあえず、気が済んだらご飯食べちゃおうよ。冷めたらせっかくの料理がもったいないし……ね?」
「ん……」
もうずっとこのままこうしていたいような気もするが、彼女の言うことはご尤もだ。
有栖が作ってくれた料理を無駄にすることなんて、絶対にあってはならない。
でも……あと少し、もう少しだけならば許してもらえるのではないだろうか?
そっと、ぎゅっと、彼女の小さな体を抱き締めながら自らの欲に従った零は、呟きを繰り返しながら心地良い温もりに心を浸らせていく。
「もうちょっと、あとちょっとだけ、このまま……」
「ふふっ、しょうがないなあ……! いいよ。ご飯が冷めたら温め直してあげるから、零くんが落ち着くまでこうしてよっか」
「……ありがとう、有栖さん」
「ふふふ……! どういたしまして、零くん」
一度そうすると決めてしまうとどこまでも楽になってしまうような、甘えてしまうような、そんな微睡にも近しい温もりを覚えながら、零はその後暫く、有栖を抱き締め、抱き締められ、そうやって過ごすのであった。
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