ハートの、クイーン
「は……? え……?」
「須藤先輩が、トラキンの……? しかもお金を盗んで、逃げた……!?」
葉介の口から飛び出した衝撃の発言にショックを受け、呆然とする零と沙織。
そんな二人の反応を愉快気に見つめた彼は、更に声を大きくして叫ぶ。
「そうだよ! まあ、正確には機材だけ用意させておいて逃げたって言った方が正しいけどな! PCからマイク、他にも沢山の配信用機材を会社の金で用意させておきながら、デビュー前になってドロンしやがった! わけわかんないで混乱してたら、他の事務所に行って左右田紗理奈だなんて名前でVtuberとしてデビューしやがってよぉ……! とんだ食わせ者だよ、あの女は!!」
「止めろ、黒羽……! もう、止めろ……!!」
「こんだけのことをやらかした女だってのに、どうしてだか社長は訴えるのに尻ごみしてる! それがなんでかっていうとなあ……澪の奴が社長の愛人だったからだよ! 上手いことあの体を使って社長を誘惑した澪は、ハートのクイーンとしての座とVtuberデビューに必要な機材の両方を用意させた! その後に何があったかは知らねえけどよ、社長を切ったあいつはトラキンからも抜けて、今では【CRE8】で尻軽のサソリナちゃんになったってわけだ! ホント、ぴったりのあだ名だよな!! どうせ今も体で仕事取ったりして、ぐぅっ!?」
狂ったように叫び続けていた葉介の声が、唐突に途切れる。
ドガッ、という鈍い音が響くのを聞いた零の前では、葉介へと突進した優人が彼を壁に押し付け、拳を振り上げている光景が繰り広げられていた。
「僕は、お前に警告したはずだ。僕の前で、彼女を侮辱するなって……もう、そのことを忘れたのか?」
「はっ! 侮辱なんかしてねえよ。本当のことをあいつの後輩ちゃんたちに教えてやっただけだろ!? お前だって一回くらいはあいつとヤってるんだろうから、そんなにキレんなよ。どうせならかわいがってるそこの奴にも抱かせてやって、穴兄弟にでもなれよ。そうすりゃあ、お前らもっと仲良くなれんじゃねえか! ぎゃはははははっ!!」
……ぷつんと、何かが切れる音を零は確かに聞いた。
沙織も、恋も、大也も……おそらくはこの場にいる全員がその音を耳にしていたことだろう。
それが優人の堪忍袋の緒が切れる音だということは、すぐにわかった。
零が必死に止めようと声を出す前に、振り上げていた右腕の拳を強く握り締めた優人は、勢いよくそれを葉介の顔面目掛けて振り下ろす。
「狩栖さんっ、だめだっ!!」
「ぐうぅっ! ……う、あ……?」
零の叫びと、葉介の呻き。そして、それを掻き消すほどのびりびりとした振動の音。
優人が振り下ろした拳が自分の顔面でなく、その真横にある壁に叩きつけられている様を目にした葉介が惚けた声を漏らす中、そんな彼へと自身の顔を近付けた優人が唸るようにして言う。
「……彼女は、澪は……そんな人間じゃあない。社長の愛人だったわけでも、機材を盗んで逃げたわけでもない……!! 何も知らないお前が、ふざけたことを抜かすな。お前に、お前に……僕たちの、何がわかる……!?」
「うぁっ……!?」
優人がだらりと壁に叩きつけた右腕を垂らすと共に、彼の手から解放された葉介がその場にへたり込む。
零も沙織も、他の誰もが何も言葉を発せずに緊張感を高める中、顔を伏せたままの優人が口を開く。
「……阿久津くん、喜屋武さんを連れてここを出よう。家まで送っていくよ」
「は、はい……」
有無を言わせぬ迫力があるわけでも、強制力を感じさせる何かがあるわけでもなかった。
ただただ、優人が深い悲しみに襲われていることを理解した零が彼の言葉に頷く中、優人は二人に先んじて個室を出ていく。
その際、寂しそうな表情で信頼していたであろう後輩のことを見つめた彼は、その未練を断ち切るように大きく一歩を踏み出して店を出ていく。
沙織と共に彼の車に乗り、優人が落ち着くまで車内で彼女と二人きりのまま待つことになった零は、未だに受け止めきれていない衝撃的な事態の連続に心を乱されながら口を開いた。
「あの、本当に大丈夫ですか? あいつら、喜屋武さんにひどいことをしたんじゃ……?」
「ううん、私は何もされなかったよ。まあ、ちょっとおっぱいタッチされたりはしたけど、その程度。それよりも、さ――」
「……須藤先輩のこと、ですよね?」
「……うん。どう思う? 零くんは、あの黒羽って人の言ってたことは本当だと思う?」
沙織からの問いかけに、少しだけ考え込む零。
結論からいってしまえば、葉介の言っていることは虚実が入り交じった情報なのだろうと彼は思っている。
澪が元は【トランプキングダム】の所属で、デビュー前に謎の失踪を遂げたのは事実なのだろう。
結果として彼女が事務所側の用意してくれた機材を持ち逃げしたということも事実なのであろうが……だとしたら、優人が彼女と仲良くしている理由がわからない。
そんな真似をした人間と懇意にする必要など、欠片もないはずだ。むしろ、嫌悪していて当然の相手であるはず。
それがあれほどまでに仲睦まじい様子を見せているということは、澪が【トランプキングダム】を抜けるまでに何か葉介たちが知らない事件があったということだ。
その部分が重要であり、優人が真実を知っていることはわかっている。
だが……今の彼にそれを話させるのは、酷なことのように思えた。
「……わかんねえっす。今は、大事な核となる部分の情報が足りない。そこを抜きにして結論を出すことは、俺にはできません」
「そう、だよね……でも、これで色々と不思議だった部分に答えは出た。どうして須藤先輩と狩栖さんが年単位で顔を合わせなかったのか、出会いについて話をしなかったのか……その辺のことは、わかったよ」
仲のいい二人が一年以上も顔を合わせなかったのは、事件のほとぼりが完全に冷めるのを待つため。
出会いの話をしようとしなかったのは、澪が【トランプキングダム】所属の人間であったことを隠すため。
【トランプキングダム】に後から入った恋が彼女のことを知らないということは、事務所内で相当に固い
ここまでその秘密を守り続けてきた二人だが、自棄になった葉介の口からこの情報が洩れてしまったことは、完全に想定外だったはずだ。
これから先、自分たちはどう二人に接するべきなのか……と、悩む零と沙織。
そんな彼らの考えがまとまる前に運転席に乗り込んだ優人が、一呼吸おいてから口を開く。
「……すまなかった。本当に、色んなことに二人を巻き込んでしまって申し訳ない」
「私たちは大丈夫です。でも……」
「わかってる、わかっているさ……ちゃんと、全部を話さないとね。ただ、僕の口からそれを話すことができない。君たちに、自分の口から事情を説明したいと言っている人がいるからね」
弱々しく笑いながら、外で使っていたであろうスマートフォンを零たちに見せつける優人。
エンジンを吹かし、車を発進させながら、彼は二人へと言った。
「帰ろう。そこで、彼女が待ってる」
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