幸せでありふれた、夢の話

「……兄っちゃ、兄っちゃ! 起ぎで! はえぐ起ぎで!!」


「う~ん……」


 自分を呼ぶ声に眠気眼を擦りながら顔を上げた零が、ボキボキと音を鳴らしながら首を振る。

 声のする方へと顔を向けた彼は、そこで自分を見つめる銀髪の妹の姿を見止め、口を開いた。


「ふあぁぁ……おはよ。また母さんと姉さんがやらかしてるの?」


「そうだよ! このままじゃ朝の食卓事件現場になってまるはんで、はえぐ兄っちゃが何どがすて!」


 はいはい、と苦笑しながら寝床から出た零が、妹に促されるままリビングへと向かう。

 そして、そこで大騒動を繰り広げる母と姉の姿を見て、小さく笑いながら頬を掻いた。


「うわ~っ! どうしてだかトーストが黒焦げになるっす~っ! なんでこうなっちゃうの!? どうして、どうして……!?」


「何度やっても目玉焼きが焦げるんだけど!? なに? なにが悪いってのよ!?」


 もはやおなじみとなった朝の光景に苦笑を浮かべつつ、やれやれといった様子で家事が苦手な二人の下へと近付く零。

 半泣きの母とブチギレモードの姉の肩を叩いた彼は、それぞれの失敗について指摘しつつアドバイスを送る。


「母さん、オーブンの温度を高く設定し過ぎ。それじゃ焦げるって。姉さんの方は強火で焼き続けるんじゃなくて、蓋を使って弱火でやりなよ」


 そう言いながら零はオーブンの設定を変え、フライパンへと蓋を被せる。

 母親が作ったトーストから焦げを取り、熱で縮まった姉の目玉焼きともいえない料理に乗せて頬張った彼は、小さく噴き出してから素直な感想を述べる。


「うん、苦い。まだまだ精進が必要だね、これは」


「うぐぅ……め、面目ねえっす……」


「すぐ焦げるこの卵共に根性がないのよ。もっと気合ある卵持ってきなさい!」


「別に俺は我慢できるけど、妹にはまともなものを食わせてあげなよ。学校で腹下したりしたら、可哀想じゃん」


 とりあえず正論で二人を殴りつつ、まともな朝食の準備に取り掛かる零。

 救世主の登場に涙する母と妹を背に、食卓に綺麗なトーストと目玉焼きを並べた彼は、家族にそれを振る舞いながら学校の支度を始めた。


「いや~、流石は坊やっすねえ……どうして自分みたいなダメ人間からこんなできた息子が生まれたのか、不思議でしょうがないっすよ」


「兄っちゃがいねがったっきゃ、わんど餓死すてらよね。あるいは、マズぇもの食い過ぎで不健康になってらが」


「こいつが家を出て行くまでにまともな料理を作れるようにならなきゃ、家族三人揃って家でお陀仏だわ……」


 家事を一手に引き受ける息子への感謝と自分たちの生活の危機感を滲ませる会話を繰り広げる三人が、それぞれに料理を平らげていく。

 比較的小食な姉と、大食いな妹と母が織りなす食事風景を見て笑みを浮かべた零は、ブレザーに袖を通しながら家族へと言った。


「まあ、頑張りなよ。俺ももう少しで大学生だけど、家から通うつもりではあるしさ……それまでに一通りの家事ができるようになることを祈っとくから」


「ふんぎぃ~っ! むっかつく~っ!! でも、あいつに頼らなきゃ生活できないのも確かだから何も言い返せねえ……!!」


「はいはい、好きなだけ悔しがってくださいな。俺はそろそろ行くから、皿洗いだけよろしくね」


 着替えを終え、鞄を手にした零が一人玄関へと向かう。

 革靴を履き、玄関の扉を開けようとしたところで振り向いた彼は、そこに食事をしていたはずの家族が勢揃いして自分を見送ろうとしてくれていることに気が付いて、目を丸くした。


「いってらっしゃい、気を付けるんすよ」


「今日は私が夕食担当だからね! とんでもないものを食わせてやるから、覚悟しときなさいよ~!」


「まぐまぐ、いってらっしゃい、兄っちゃ! 気を付けて! もぐもぐ……」


「……うん、いってきます」


 優しく笑みを浮かべる母と、半ば脅しのような言葉を吐く姉と、お行儀悪く食事を続けながらも自分を見送ってくれる妹。

 そんな家族たちに挨拶をした後で家を出た零は、清々しい朝の太陽を浴びながら通学路を歩いていく。


 なんだかとてもいい気分だ。どうしてだかわからないけど、幸せだと思える。

 なんてことのない朝の風景なのに、いつも通りの日常なのに……それがとても、幸福でかけがえのないもののように思えた。


 ゆっくりと坂を上り、桜のつぼみが実り始めている木々が並ぶ道を歩き続けて……そうして、彼はそこで待つ少女の後ろ姿を見やる。

 小さく、幼く、されど自分と同じ高校の制服を着ている彼女は、零の気配を感じ取って振り向くと、満面の笑みを浮かべながら彼を出迎えた。


「おはよう、零くん!」


「ああ、おはよう」


 小さく手を振って彼女に応えた後、並んで通学路を歩いていく。

 なんでもない、他愛のない、そんな世間話をしながら二人で歩くこの一時も零にとっては幸せな時間だ。


 騒がしくて、大変で、だけど家族に愛され続ける……そんな日常もあり得たのだろうか?

 平和とは程遠いかもしれないが、胸を張って幸せだと言い切れる日々を送ることも、もしかしたらできたのだろうか?


「……どうかしたの、零くん?」


「いや、なんでもないよ。うん、なんでもない」


 隣を歩く彼女の小さな手を握り、その温もりを強く感じながら頬笑みを浮かべる零。

 優しく温かい春の陽気に満ちた風を感じて目を閉じた彼は、微睡の中へと意識を埋めていった……。

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