過去、真実
予想していたとはいえ、その現実を目の当たりにした零は想像以上の痛々しさに言葉を失ってしまった。
女性の体、それも顔という最も人目に付きやすい場所のすぐ近くに刻まれた大きな傷跡は、彼が思っている以上の影響を沙織に及ぼしたことだろう。
そして、その最たる例がアイドルの引退……長年追い続けていた夢を諦めざるを得なくなったという、あまりにも過酷な現実だ。
「一目見てわかったでしょ? この傷は、どうしたって目立つ。真正面を向いててもわかるくらいなのに、ちょっとでも右方向から見られたり、私自身が左に顔を向けたら、完全にアウト。こんな傷があるんだもん、人前に立てなくなって当然だよね」
沙織の声が、傷跡に触れる指が、震えていた。
夢を諦めざるを得なくなった絶望と、それを認めざるを得なくなった瞬間を思い返しているであろう彼女は、淡々とした声で己の過去について語り始める。
「……2年前、【SunRise】でWセンターを張ってた私と李衣菜ちゃんが高校の卒業を目前として、そこから本格的な活動を開始しようって話になってた時だった。私も地元の沖縄を出て、東京での1人暮らしを始める準備をしてて……これから芸能活動に集中して、みんなと一緒にアイドルとしてきらきらしてる道を駆けあがって行くんだって……そう、心の底から思ってた」
そこに至るまで、本当に様々な出来事を経験してきたのだろう。
学業の合間を縫って芸能活動を行い、そのために必要なレッスンやミーティングのために沖縄と東京を行き来し、地元でも努力を欠かさずに必死になってアイドルとしての研鑽を積み続けて……そうやって、長い道のりを歩き続けてきた。
その努力が遂に実り、デビューという輝かしい舞台を用意してもらって……そこから続く道も、親友である李衣菜や他のメンバーたちと一緒に歩み続けるのだと、沙織は信じ続けていたのだろう。
自分自身の身に待ち受けている、残酷な運命も知らないままに……。
「……私を襲ったのは、【SunRise】のファンの男の人だった。イベントで何度か顔を合わせたことがあったから、私も覚えてたんだよ。いつもは私を応援したり、コールを送ってくれていたその人の顔が、狂ったみたいな本当に怖いものになっていた光景は、今でも覚えてる」
ゆっくりと瞳を閉じながら、沙織が忌まわしい思い出を振り返る。
瞼の裏に焼き付いた恐ろしい男性の顔が自分へと迫り、狂乱の叫びを上げながら暴力を振るった時の記憶を蘇らせながら、その出来事を零へと語っていく。
「本当に……運が悪かったの。相手は私を必要以上に傷付けるつもりはなかった。ただ、ほんのちょっとだけ脅すつもりだったって、そう言ってたらしい。でも、結果として、彼は私から全てを奪う事件を引き起こしてしまった――」
少しだけでいい。僅かで構わない。運命の歯車の噛み合わせが、ちょっとだけでもずれていてくれたのならば、未来は違っていたはずだ。
そう、何度も何度も沙織は思った。過去に戻れたならば、その歯車を少しだけでも狂わせるための行動を取るだろうと、彼女は常に思っている。
だが……現実は変わらない。起きてしまったことは変えられない。
この世界にタイムマシンのような便利な道具は存在していない以上、過去に戻ってその未来を変えることなど出来はしないのだ。
「私を脅すためにわざわざ地元までやって来たその人は、大声を出して私に襲い掛かってきた。供述だと傷付けるつもりはなかったらしいけど……逃げようとする私を見て、おかしくなってた意識の糸がぷっつんしちゃったんだろうね。全速力の勢いと、男の人の全体重が乗った体当たりをくらって、私は吹き飛ばされた。吹き飛ばされた先には割れたガラス瓶があって……その先端が、私の首を抉ったってだけ。それだけで、私はアイドルとしての道を断たれちゃったんさ」
言葉にすれば、それは本当に短く解説出来る内容だった。
だが、その短い話からは沙織の無念や苦しみが痛々しい程に伝わってくる。
その傷を目の当たりにして、彼女の心の傷とも対面した零は、からからに乾いた喉の奥から絞り出すようにして、質問を投げかけた。
「どうして……その男は、喜屋武さんを襲ったんですか?」
「ん~? ……ネットに転がってるデマを真に受けたんだってさ。当時、【SunRise】の内情を知ってると思わしき人物のSNSアカウントがファンの間で話題になってたらしくってね、その人がこう書き込みをしてたんだって」
【SunRise】が未だに下積みとして活動し続けているのは、センターの1人である喜屋武沙織が琉球弁の訛りを解消出来ないせいだ。
彼女はセンターとしての地位に胡坐をかき、自身の欠点を克服する努力を怠っている……と。
それは、完全なる誤情報であった。
李衣菜が語った通り、沙織は天性の才能に加えて他のメンバーたちを遥かに凌駕する努力を重ねていたからこそ、センターとしての座を掴み取ることが出来たのだ。
確かに彼女の口調には、沖縄特有の訛りがある。
だが、それは欠点と呼べるものではなく、十分にキャラクター性の一環として人々に受け止められる個性のはずだった。
「……まあ、デビューが遅れた理由が私のせいってのは、半分は正解だったんだけどね。高校を卒業するまでは芸能活動に専念するつもりはなかったし、それは李衣菜ちゃんも同じだったから、事務所もその意向で私たちのプロデュースをしてくれてたしさ。でも、だからこそ……卒業とデビューを目前として、その全てが崩れ去っちゃった時は、流石の私も堪えちゃったなぁ……!」
「……そのSNSアカウントと、犯人の男は?」
「アカウントは削除されてた。事件の情報が出回った頃には既に消えてたみたいで、痕跡も辿れなかったみたい。私を襲った犯人の方はね――」
そこで一度言葉を切り、鼻を鳴らして笑った沙織は……特に感情を込めることなく、正常で平常な声でただ事実を零へと告げた。
「死んだよ。刑務所の中で自殺したんだって。自分のせいで【SunRise】のデビューが流れたことを知って、精神が不安定になったみたい。でも、狡いよねぇ、狡いなぁ……そんな風に逃げられちゃったら、恨むことも許すことも出来ないよ。生きて償う姿勢を見せてさえくれれば、私だってこの現実を受け止められるようになったかもしれないのになぁ……」
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