変貌、かに座


 ぼそりと呟きを漏らした沙織の声を耳にした零が、これまでと違う彼女の様子に面食らう。

 何か、とても懐かしく大切な思い出を振り返ったような表情を浮かべていた沙織は、自らの呟きに気が付くとはっとし、元通りの笑顔になると驚いている零へと言った。


「ううん、気にしないで~! 沖縄から都会に出てきて、ちょっとセンチメンタルになってただけだからさ~! 少し、昔のことを思い出しちゃったんよ」


 言い訳をするように、先の自分の表情と雰囲気を誤魔化すように、沙織が言う。

 それは決して嘘ではないのだろうが、零にはその言葉の裏側に、自分には伺い知れない沙織の想いと過去があることを感じ取っていた。


 何か、あるのだろうか? 太陽のように明るく眩しい沙織にも、隠したい過去のようなものが。

 有栖が女性恐怖症であることを隠し、それを克服しようと努力しているように、沙織にも人には言えない弱さや秘密があるのかもしれない。


 と、そこまで考えた零は、【CRE8】がタレントを採用する際に重要視するの存在に思い至り、沙織のことを見やった。


(薫子さんが採用したってことは、沙織さんにもVtuber活動を通して叶えたい夢があるんだよな? それ、なんなんだろう……?)


 【CRE8】は叶えたい夢を持ち、それを現実の物として実現させるために努力する者たちの集まりだという薫子の言葉を思い出した零が、そんなことを思い浮かべる。

 Vtuber活動を通して強い自分になりたいと語った有栖のように、沙織にも叶えたい夢があるはずだと考えた零は、何の気なしにそのことを彼女へと尋ねてみた。


「あの、喜屋武さん。ウチの事務所って、Vtuberとして採用する人間には夢があるって話じゃないですか。ってことは、喜屋武さんにも何か叶えたい夢がある……んすよね?」


「うん~? ……そうだよ。私にもいっぱしの夢があるさ~!」


「えっと……差し支えなければ、それを教えてもらってもいいっすか?」


「……どうして? 零くん、私の夢に興味があるの?」


「えっ? い、いや、なんとなくっすよ。わ、話題として出しただけで、言いたくなければ無理して言う必要はないっていうか……あはははは……」


 それは何の気なしの質問で、本当に話題の一環として口にしただけの質問だった。

 しかし、それを受けた沙織は、再び弾けるような笑顔を引っ込め、静かに冷静な雰囲気で逆に零へと質問を投げかけてくる。


 軽い威圧感と、拒絶の意思。それを感じ取った零は、どこか妖艶さを感じさせる沙織の雰囲気に圧され、乾いた笑いを上げてその場を誤魔化した。

 沙織もまた、小さく笑みを浮かべると……空になった自分の茶碗と箸を手に流し台に向かい、それを洗い始める。


「ふふっ、そんなに怖がらなくていいよ~。ちょ~っとびっくりさせようと演技しただけだからさ~。別に、怒ってないよ。本当だよ?」


「あ、は、はい……」


「あはは! でも残念ながら、まだ私の夢は零くんには教えてあげられないかな~? 知りたかったら、お姉さんの好感度をもっと上げることだね~!」


「う、うっす……」


 普段通りの口調でそう語りながら洗い物をする沙織の後ろ姿をちらちらと見やっていた零であったが、小刻みに左右に揺れる彼女の形のいいお尻とすらりとした生足を目にしてしまい、気恥ずかしさのあまり顔を赤く染めると視線を逸らしてしまった。

 そんな彼の方を振り向くこともしないまま、元の明るさを取り戻した口調で語っていた沙織であったが……不意にその声が途切れ、数拍の間が空く。


 水が流れる音だけを耳にして、ただ皿の上の料理を頬張っていた零は、出来る限り沙織のことを意識しないようにしていた。

 しかし……そんな彼の意志を砕くような、甘い響きが零の右耳をくすぐる。


「……でも、そうだね。前に言っちゃったもんね。お姉さん、零くんには1つだけ何をされても許してあげる、って」


「むぇっ!?」


 耳に触れる、暖かい吐息。

 甘い響きを持つ声が自分の顔のすぐ横でしたことに気が付いた零が視線をそちら側に向ければ、見たことのない表情を浮かべた沙織が自分の耳に唇を寄せている姿が目に映った。


「……知りたい、零くん? お姉さんの秘密、教えてあげようか? ……じゃあ、教えてあげる。私の夢はね――」


 熱を帯びた声が、吐息が、零の右耳をくすぐる。

 どこか危険で、蠱惑的な雰囲気を感じさせる沙織の、普段とはまったく違う様子に動揺を覚えた零がごくりと息を飲む中、唇を動かして自身の夢を彼へと告げようとした沙織が、言葉を紡ごうとした時だった。


「お、お邪魔しま~す。新衣装の相談会、もう、始まってま、す、か……!?」


 鈴の鳴るような可憐な声が部屋の入り口から響くと共に、その声がどんどん驚きの色に染まっていく。

 不意に登場した第三者の声にびっくりした零と沙織がそちらへと振り向けば、顔を真っ赤にした有栖がびくびくと震えながらこちらを見つめている姿が目に映った。


 そういえば、沙織と部屋に2人きりにならないようにするために、新衣装の相談会を部屋で行うという名目で有栖を呼び出したんだっけか……と、先程の自分の行動を振り返った零は、同時に現状のマズさを自覚すると赤くしていた顔を真っ青に塗り替える。


 その予想に違わず、部屋に入ると共に衝撃的な現場を目にしてしまった有栖は、何かとんでもない勘違いをしている様子だった。


「あ、あの、あのののの、あの……わ、私、わたたた、わたし……!?」


「あ、有栖さん? 違うよ? 誤解だよ!? 有栖さんが考えてるようなことは何も――」


 部屋の中で2人きりの男女が、顔を寄せ合って何かをしようとしている。

 その光景を目の当たりにした有栖が何を考えたのかを察知した零は必死に彼女の誤解を解こうと声をかけるが、残念ながらその呼びかけは有栖の耳に届いてはいないようだ。


「ごごご、ごめんなさいっ! お邪魔しましたっ!! 私、何も見てませんからっ! 私はここに来てもいませんから! あとはおふたりでごゆっくりお過ごしくださいますようお願い申し立て上げ奉り上げますですーーっ!!」


「ちがっ! 有栖さん! 有栖さーんっ!?」


「ぴぇぇぇぇぇ……っ!!」


 脱兎の如く駆け出し、悲鳴を上げて逃げ去っていく有栖。

 その背と、呆然としている零の顔を交互に見比べた沙織は……ぺろりと舌を出しながらウインクをすると、お茶目な雰囲気で謝罪の言葉を口にした。


「て、てへっ! ちょ、ちょっと零くんをからかおうとしただけなんだけど、タイミングが悪かったさね~! あ、あの、その……ごめんね~? 何でもいうことを聞かせる権利、もう1個増やしてあげるから……怒らないでほしいさ~!!」


 最後の方は懇願気味になりながら、零へと謝罪した沙織は、もう普段の能天気なお姉さんとしての雰囲気を取り戻している。

 どうやら本当に自分をからかうための演技をしていたのだなと理解した零であったが、諸々の事情が悪い方向に噛み合った結果、面倒くさい事態に陥ったことは間違いなさそうだ。


「ととと、取り合えず有栖ちゃんの誤解を解かないと!! ってか、鬼ヤバな状況なんですけど!?」


「あははははは、そうさね~! 笑ってる状況じゃあないよね~……」


 流石の沙織も状況が最悪とわかっているのか、その笑みには普段の力強さがない。

 兎にも角にも、このまま誤解をそのままにしていては有栖のメンタルに大きな影響を及ぼすと考えた2人は、その後数時間をかけてその勘違いを訂正し、彼女の誤解を解くことに成功した。


 ……当然、本来行おうとしていた新衣装の相談など出来るはずもなく、零からすればただただ時間を浪費し、精神を摩耗した上に、炎上の火種があちらこちらに散らばっただけの1日となってしまったそうな。

 

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