突入、有栖の部屋

 息を切らし、全力で駆け、階段を駆け上がる。

 以前に教えられた有栖の部屋に辿り着くまでは、やはり数分とかからなかった。


 万が一の際のストーカー対策のために、部屋の表札には名前が書かれてはいないが……ここで間違いないはずだ。

 この間にも状況が悪化していないかというハラハラとした気分を抱えながら、零は呼び鈴のチャイムを鳴らし、ドアを叩いて有栖へと呼びかける。


「いり……羊坂さん! 大丈夫ですか!? 返事してください! 羊坂さんっ!!」


 念のため、本名ではなくVtuberとしての名前を口にして、有栖の反応を待つ零。

 しかし、何度チャイムを押しても、乱暴に家の扉をノックしても、彼女からはなんの返事も返ってこない。


 無視されているのか、あるいは、自分の声に返答が出来るような状況ではないのか。

 後者であった場合のことを考えて焦燥感を募らせていく零が、その焦りの感情のままにドアノブを掴み、捻ってみた時だった。


「っ……!? あ、開いてる……!?」


 きぃぃ、と鈍い音を鳴らして、手前側へと玄関のドアが開く様を目にした零が驚きと共に茫然とした声を漏らす。


 不用心にも、有栖は部屋の鍵をかけていなかったのだろうか? それとも、パニックになった彼女は取るものも取り合えず家を飛び出してしまったのだろうか?

 あるいは、既に事態を把握した【CRE8】のスタッフがやって来ていて、中で有栖と会話をしているのか……? と、様々な可能性に思考を巡らせた零であったが、意を決すると共にドアを開き、静かな足取りで室内へと入っていった。


「羊坂さん、俺です……いたら、返事をしてください。スタッフさんでも構いません。とにかく、返事を……!!」


 考えた3つの可能性の内、零は最後の可能性だけは有り得ないだろうと思っていた。

 もしも有栖がスタッフと一緒にいるのならば、先の自分の呼びかけに対して彼女がスタッフのどちらかからの反応があるはずだ。

 それがないという時点で、この場に有栖と零以外の第三者がいる可能性というものが消え去る。


 3つの可能性の中で最もこうなっていてほしいというものが消えてしまったことに歯噛みしながら、それでも一縷の望みに賭け、有栖たちへと声をかけながら零はそろりそろりと部屋の奥へと進んでいく。


(まず確認しなきゃならない場所は、配信部屋になってるはずの防音室だ。勝手に女の子の部屋を見て回るってのは気が引けるが……仕方がねえ!)


 零の部屋の中を進む足取りには迷いはなく、慎重ながらも真っ直ぐに防音室へと向かっていた。

 同じ社員寮に住んでいるお陰で、部屋の間取りは頭の中に入っている。

 そのことに感謝しながら、玄関に並ぶ靴を確認した零は、先程の考えの中から2つ目の可能性を消去した。


(靴は一足しかないし、きちんと綺麗に並んだままだ。パニックになって外に飛び出したってのは、ちょっと考えにくいな……)


 右も左もわからないまま、パニック状態になって外に飛び出したにしては、玄関の様子は綺麗すぎる。

 打ち合わせの際に目にしたのと同じ、有栖が普段履きしている靴がきちんと揃えられた状態で残っているということは、彼女がまだこの部屋の中にいる可能性が高いということだ。


 3つの可能性の内、今度は最もあってほしくない可能性が消えたことに零が安堵の息を吐く。

 この時間帯に、有栖のような少女が1人で街に飛び出して何らかの犯罪に巻き込まれることが一番怖かった彼にとっては、不謹慎ながらもこの情報は不幸中の幸いといえた。


 しかし、有栖がこの部屋の中にいるのならば、どうして先程の自分の呼びかけに応えてくれなかったのだろうか?

 少なくとも、今の彼女は平静を保っていられる状況ではないのだろうと、そんなあたりを付けた零が足を進めていけば、薄暗い廊下の先から、うっすらと漏れる光を見つけ出すことが出来た。


 位置的に、あそこが防音室。つまりは有栖が配信を行っているであろう部屋。

 やや大股で、そこまで歩んだ零は、僅かに開いた扉の隙間から中の様子を伺い、その光景に眼を見開く。


「入江、さ……っ!?」


 飛び出しそうになった大声を両手で口を塞ぐことで抑え、ギリギリの呟きとして漏らす零。

 その視線の先では、PCを置いてあるデスクのすぐ横で倒れている有栖の姿があった。


 ぐったりとしたまま動かない彼女の周囲には、何らかの錠剤が散らばっている。

 先程までの配信の流れと、有栖の性格、そしてその光景から最悪の事態を連想した零は、慌てて彼女の下に駆け寄ると小さなその体を揺すって必死に呼びかけの声を発した。


「羊坂さん! しっかり、しっかりしてください!!」


「う、ぅ……」


 こんな状況でも、頭の片隅では身バレを恐れる考えがあるものだ。

 職業病といってしまえば笑える話だが、目の前で人が倒れている今の状況ではそんな余裕など欠片もない。


 頼むから取り返しのつかない事態にだけはなってくれるなと、そんな必死の願いを胸に有栖へと呼びかけた零は、彼女が小さな呻き声を漏らしたことに一瞬の安心感を得る。

 しかして、呻く彼女の顔色は明らかに蒼白で、周囲に散らばる薬のことを考えると、その容態がいつ急変してもおかしくはない。


 良い方向に考えれば、緊張とパニックで何らかの発作を起こした有栖がそれを抑える薬を飲もうとしたが間に合わず、意識を失って倒れ伏してしまった。

 悪い方向に考えれば、精神的なストレスに耐え切れなくなった彼女は衝動的に大量の薬を飲み、自ら命を断とうとした。


 どうか前者であってくれと願いつつ、どちらの選択肢であったとしても有栖を病院に運ぶ必要があると考えた零は、懐からスマートフォンを取り出すと119の救急ダイヤルへと電話を掛けようとしたのだが――。


(そうだ、配信っ!!)


 ――まだ、羊坂芽衣の配信が切れていないことに気が付き、その手を止めた。

 このまま放置していては何らかの問題が起きるだろうし、そろそろ視聴者たちも異変に気が付く頃合いだろう。


 とにかく、ここは一度配信を切っておくしかない……と判断した零は、勝手で申し訳ないと思いながらPCの前に立つと、Vtuber『羊坂芽衣』としてのアバターを表示している【CRE8】製のアプリを操作し、その表示を切った。

 そこから、以前に自分が送ったはずの『蛇道枢』の立ち絵を探し出した彼は、それを消えた芽衣の代わりに表示させると、困惑しているリスナーたちに向け、簡潔に用件を伝える。


「唐突にすいません、蛇道枢です! 本当に申し訳ないんですが、やむにやまれぬ事情があって、本日の配信はここで締めさせてもらいます! 何があったのかは落ち着いてから自分か羊坂さん、ないしは【CRE8】の方から発表があると思いますので、それまで待っていてください! では、失礼します!!」


 一気にそう告げた後、配信停止ボタンをクリック。

 完全に配信が終わり、リスナーたちにこちらの状況が伝わらなくなったことを確認した後、改めて零がスマートフォンを操作して緊急ダイアルへと電話を掛ける。


「す、すいません! 救急車をお願いします! 女性が1人、意識を失って倒れてるんです! 詳しくはわからないんですけど、薬を大量に飲んだかもしれなくて……はい、はい。住所は――」


 電話口で対応してくれた女性へと状況と住所を伝える零。

 慌てる彼を落ち着かせた相手は、5分もすれば救急車が到着するということを伝え、電話を切った。


 取り合えず、自分がすべきことを成した零は、電話を切った後で暫し呆然としていたが……はっと気を取り直すと、今度は事務所の代表である薫子へと電話を掛ける。


「か、薫子さん! 実は今、入江さんの家に居て……そう、放送事故みたいになってたから心配で、それで駆け付けたら――」


 改めて、状況を説明し、何があったかを報告した上で薫子の指示を仰ぐ零は、少し間が空いたことで冷静さを取り戻せたようだ。

 外出中で今すぐには駆けつけられないという薫子に代わって有栖の付き添いを引き受けた彼は、何処の病院に搬送されたかと、緊急性があればそのことも報告することを約束してから通話を終えた。


 そして、再び静寂が戻った室内で……倒れている有栖へと歩み寄った零は、苦しそうに呻く彼女の体を仰向けに直すと、周囲の薬を拾い上げ、一人呟く。


「こいつの処方箋か何かがあればいいんだが……勝手に家探しするのはマズいよな……」


 この薬が何という名前であるかがわかれば、スマートフォンでその名を検索することが出来る。

 せめて毒薬のような危険な代物ではないかどうかだけでも知りたいところだが、自分の安心のために勝手に女性の家を捜索するというのも気が引ける話だ。


 取り合えず、散らばっている薬を拾って、救急隊員に渡すことにしよう。

 医療のプロならばこの薬の正体もすぐにわかるだろうし、診察や治療に役立つはずだ。


「う、ぅぅ……うぅぅ……」


 力なく呻き、苦しむ有栖のためにやれることは全部やるべきだと、動揺が収まらないながらも同僚のために尽力しようとする零が必死に頭を働かせる。

 どうしてこんなことになってしまったのか? という思いと、このまま最悪の事態になったら……という不安感に苛まれながらの思考は、社員寮に近付く救急車のサイレンの音を耳にするまで続き、それまでの間ずっと、彼の心は有栖と同様の苦しみを味わい続けたのであった。

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