第肆話 【 捕食者 】

 氷麗が自分の部屋の浴槽に向かい、服を脱いでいる途中、

 不意に声をかけられると、後ろに知らない男が立っていた。





 その姿を見た氷麗が、恐怖に囚われるように動きを止める。


「へへっ、ずっと君の帰りを待ってたんだよ」

「なんで、部屋の中に……」

「雨が降ってたから、部屋の中で待ってたんだぁ……」

「そんな……。部屋の鍵は、かかってたはず……」

「こんな安いマンションの鍵、簡単に開けられるさ」


 その言葉と同時に、氷麗は崩れ落ちるように膝を折った。


「わ、私に……何の用、ですか……?」

「そんなの、決まってるでしょ。ただ、ボクのモノにするだけだよ」

「……ボクのモノ?」

「そう。初めて見た時から、ビビッときたんだよ。可愛いなぁって……」

「…………」

「その日から、ボクは君が欲しくて欲しくてたまらなかったんだ」

「そんな、なんで……。なんでいつも、私ばっかり……」

「身も、心も……。その肌も、全て……。ボクの色に、染めてあげるからね」


 男は刃物を見せつけながら、不敵な笑みを浮かべると、

 小さな嗤い声を発しながら、徐々に氷麗に歩み寄っていく。


「へへへっ……。ここなら、ボクたちを邪魔するやつはいないよ……」

「……や、やめ……やめて。こ……こないで、ください……」

「大丈夫、怖くないよ。……優しくしてあげるからね」

「やめて、こないで……」

「そんなに怖がらないで……。ボクはただ、君を独り占めしたいだけなんだ……」

「嫌だ……。あなたに、なんて触られたくない……」

「そっかぁ、でも残念だね。……ここには助けは来ないよ」



( あっ……。お兄さんに、電話を…… )



 氷麗が慌てて、横に置いてあったスマホに手を伸ばす。


「──や、やめろぉぉっ!!」

「──キャッ!」


 男は慌ててスマホを取り上げると、そのまま氷麗を押さえつけた。


「もう、どこにも逃げられないよ。氷麗ちゃん……」

「やめて、離して……」

「もう遅いよ。君は、もうボクのものだ……」

「お願い、助けて……」

「もう君は、ボク無しでは生きていけないんだ……」

「やめて、だれか……」



























     「 へへっ……。すぐに、ボクの色に染めてあげるからね 」



























          「 ……おにぃ、さん……たすけ…… 」



























    『 面白そうなことをしてるじゃねぇか、俺も混ぜてくれよ 』



























「……ん? ──フグッ!?」


 男が背後から聞こえた声に振り向くと同時に、

 顔面を蹴り飛ばされ、壁際へと吹き飛んでいく。


「……氷麗、大丈夫か?」

「……お、お兄さん? なんで……」

「話は後だ、まずは……」


 バサッと羽織を氷麗に掛けながら、灰夢が淡々と答える。

 そして、再び立ち上がる男に、灰夢は殺意を向けていた。


「──クソっ! 誰だ、お前っ!!」

「それは、こっちのセリフだ……。誰だ、お前……」

「勝手に入ってきやがって、不法侵入だぞっ!」

「どの口が言ってやがる。自分のことを棚に上げるにも程があんだろ」

「こ、ここは氷麗ちゃんとボクの愛のホームなんだっ!」

「他人の家に、勝手にホーム作ってんじゃねぇよ。ゴ〇ブリ野郎……」


 ストーカーが敵意を向けながら、持っていた刃物を突きつける。


「なんだそれは、脅しのつもりか?」

「ゴキ〇リは、お前だっ! どこからともなく、突然現れやがって……」

「間違っちゃいねぇが、今の俺はどちらかと言うとアシダカグモだな」

「……ア、アシダカ?」

「……知らねぇのか?」



























       『 害虫ゴキ〇リを喰らう【 捕食者ほしょくしゃ 】のことを── 』



























    【  幻影死妖蟲 げんえいしようちゅう…… ❀ 徐狼糸皇帝・啊羅喰禰螺 じょろうしこうてい・アラクネラ❀  】



























 灰夢が手を伸ばすと同時に、周囲の灰が瞬時に形を成し、

 八本の脚をした、巨大な骨の怪物の姿へと変わっていく。


 そんな怪物の頭部から、一人の骸骨が上半身を生やし、

 その全身に黒い影を纏うと、女神のような姿へと変えた。


 そんな女性の根元に構える、蜘蛛のような影の怪物が、

 男を睨みつけるように、八つの紅い瞳をギロリと向ける。


 そのおぞましい迫力に、男は口を開けたまま後ずさり、

 膝を折ると、ブルブルと身体を震わせ、涙を流していた。


「な、なんだよ……。この、バケモノは……」

「俺の大切なもんに手を出して、楽に死ねると思うなよ?」


 灰夢の目を見た男が、慌てて背を向け走り出す。


「だ、誰か……。頼む、たすけ……」

「逃がすわけねぇだろ、ゴキブリ野郎……」


 灰夢が指で下を指すと同時に、蜘蛛の幻影が床の中に消え、

 壁を這いずるように移動し、男の目の前の壁から姿を見せる。


「──ひぃっ!?」

「死をもって罪を贖えあがな……」

「──うわわわわわわぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!!」


 そして、そのまま男を捉えると、壁の中へと引きずり込んだ。


「ふぅ、終わったな」

「…………」

「幻影晶壁を張っておいて良かった。近所迷惑だ……」

「…………」


 おぞましい程の力に、氷麗が目を開けたまま固まる。


「……大丈夫か? 氷麗……」

「……え? は、はい……」

「そうか、よかった……」


 灰夢が優しく頭を撫でると、氷麗の表情に冷静さが戻った。


「お、お兄さん……。なんで、ここに……」

「こういう場合に備えて、牙朧武の眷属を付けてたんだ」

「……え?」


 灰夢がしゃがみ、そっと手を出すと、氷麗の影の中から、

 紅い瞳の怖い顔をした、少し大きめの一匹の狼が顔を出す。


「──ひゃっ!?」

「このポチを、お前の影に入れてたんだ……」

「……ぽ、ぽち?」


「ヴヴヴヴ、ワンワンッ!」

「こらこら、吠えるんじゃねぇよ。ただでさえ顔が怖ぇんだから……」

「クウゥ〜ン……」

「冗談だ。ありがとな、ポチ……」

「クゥンッ! ヘッヘッヘッヘッ……」


 ポチは舌を出しながら、じゃれるように灰夢に甘えていた。


「こいつが知らせてくれたから、途中で引き返しただけだ」

「……こ、言ノ葉は?」

「牙朧武と一緒に、先に祠に帰らせた」

「……そ、そうですか」


「だから別に、監視してたわけじゃない。俺は覗いてないからな?」

「あっ、いえ……。その心配は、別に……してないん、ですけど……」

「そうか。まぁ、ならいいんだが……」


 灰夢がポチを自分の影の中に戻し、そのまま立ち上がる。


「そんじゃ、面倒は済んだことだし。……俺は帰るからな」

「……ま、待ってくださいっ!」

「……ん? グフッ──」


 部屋を出ようとした灰夢に、氷麗が走ってガバッと抱きつく。


「……ど、どうした? 氷麗……」

「あの……。じゃあここに、言ノ葉は居ないんですよね?」

「あ、あぁ……。まぁ、居ねぇけど……」

「な、なら……」

「……ん?」

「なら、その……。えっと、少しだけ……」



























    「 ……今だけ、少し……泣いても……いい、ですか……? 」



























               「 ………… 」



























   灰夢が言葉を返す間もなく、震える様に涙を流す氷麗。


          そんな氷麗を慰める様に、灰夢は強く抱きしめていた。



























「……わかった」

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