第四章 結ぶ

CASE 4-1



 「ねぇ、お母さん。今日お父さんの誕生日でしょ? 内緒で誕生日おめでとうの準備しようよ」


「ええー?」


「何でだよ。いまさら……」


「だってさ。せっかくの土曜日なのに、お仕事なんてかわいそうじゃん。しかも、誕生日だよ?」


「ああ。まぁ……ねぇ?」


 ふふっと笑って子供たちを見た。

 ソファに寝転んで、タブレットを見ている息子。ダイニングテーブルに両肘を着いて唇を尖らしている娘。

 あーあ、もうこんなに大きくなっちゃった。そしてこれからももっと、大きくなるんだわ。ずっとこのままでいたくても、いつかは離れてゆくその日まで、この何気ない日をこの子達は覚えていてくれるかしら。


 嬉しいのに寂しくて愛おしい。


 こんな気持ちがあることを、知ることが出来て幸せだと思った。

 窓から見える空の、すっきりと晴れて気持ちの良いこんな秋の日は、あの人に似つかわしい。

 いかにも秋生まれって感じよね、と出会ったばかりの頃に言ったことがある。

 葉子ようこちゃんの言うことは、良く分からないなと笑っていたあの人。


「うーん。……誕生日おめでとうって、内緒で準備して、やっちゃう?」


 いやあ、参ったよ。なんて玄関で特に意味もない呟きと同時に普段通りに帰宅して、ただいまとリビングに入った途端に、いつもと違う様子に驚き照れるあの人が容易に想像出来た。

 その後、嬉しそうに顔中で笑ったと思ったらすぐに涙ぐんでしまうところも。


「やろう、やろう! ケーキはお父さんの好きなシフォンケーキ作ろうよ。まだ、時間はあるでしょ?」


 満面の笑みを浮かべた娘は、テーブルの上に身を乗り出し、顔を近づけて来た。その笑顔は、顔中で笑うあの人に良く似ている。


「そうねー。お父さんは、シフォンケーキが好きだものね」


 冷蔵庫を開けて、卵の数を数えた。

 やっぱり、足りないわね。

 シフォンケーキ作ると、黄身が少し余るからカスタードクリームにしようかしら?


「……バナナのシフォンケーキで、生クリームにチョコレート入れたやつで、デコって」


 あまり興味を示さなかったから聞いていないと思っていた息子が、ソファの上に寝転んだままの姿勢は変わらずに言う。どうやら誕生日会サプライズは嫌ではないみたいね。どうせ、暇を持て余しているから付き合ってやるだけだよって言うんでしょうけど、と冷蔵庫のドアに隠れて笑う。


「それは、お兄ちゃんの好きなやつでしょう? お父さんは、紅茶のシフォンケーキだよ?」


「違うね。それは、お母さんが好きなやつだ。だからお父さんはそれが良いって言ってるだけ」


 二人の言い合いが、これ以上激しくなる前に買い物に連れ出そうと決めた。


「買い物行こう、ね? どこ行こうか」


「あたし、無印でノート買いたいから駅の東急に行こうよ。いちばん近いし良いじゃん。下で食材の買い物も出来るし」


「駅のー? 休みの日なのに駅に行くのやだなあ……。ふつうにスーパーで良くない?」


「お兄ちゃんは、お留守番でも良いんだよ」


 ぶつぶつ言いながらもソファから立ち上がる姿を見れば、一緒に行ってくれるようだ。

 まだまだ可愛いのよね。

 ふふっと笑っているところを睨まれてしまった。やれやれ。


 外は気持ちが良い散歩日和だった。


 三人で並んで歩くのも、子供たちが幼い頃のようで懐かしい。

 娘は前から歩いて来る中学生の制服に、憧れの眼差しを送っていた。まさにあの制服は、娘の第一志望の女子校のもの。今すでに受験に向けて勉強中の娘にとっては、擦れ違う間際に振り返ってまで見てしまう思いの入れように、息子が茶々を入れようとしたその時。


 嘘?! 危ない!! 

 車がこっちに来る。

 思い切り反対側にハンドルを切った男が見える。

 でも間に合わない。

 考えている暇なんてなかった。

 咄嗟に二人を思い切り突き飛ばす。


 そして……。

 

 感心している場合じゃないのに。

 なんてことなのかしら。

 こんな時、周りが止まって見えるほどゆっくりと時間が流れて目に映るって、本当なんだわ。

 音のない世界。

 二人を突き飛ばした腕を戻すのが、もどかしいくらい酷くゆっくりに動いている。まるで自分の腕じゃないみたい。

 車が近づいて来た。

 徐々に、だんだんと、近づいて来る。

 目に映る速さからしたら、すぐにでも避けられそうなほどなのに自分の身体はひどく重いし、同じようにゆっくりとしか動かないなんて。

 悔しい。

 ぶつかるわ。

 多分、このまま押し潰される。

 次から次へと思うことは寄せてくるのに、言いたいことは沢山あるのに、口は動かそうにも動かない。

 突き飛ばした子供たちは、地面に転がったままの姿勢でこっちを見ている。

 顔から血が出ているわ。女の子なのに、痕に残らないと良いんだけど。

 肩が、左肩がだらんとしてる。脱臼? それとも折れちゃったのかしら? 痛いでしょうね。

 ああ、もうダメ。

 こっちを見ていては駄目よ。

 目をつぶっていて頂戴。

 ねえ……こんな恐ろしいことは、見ないで良いのよ。

 

 ゆっくりとしたそれは永遠にも思える長いながい一瞬だった。

 だが本当は、それは、ほんの瞬きひとつの間の出来事。

 身体に感じた凄い衝撃と共に、全てが終わるのが分かった。


 痛みを感じる間もなく闇が広がる。


 薄れてゆく意識の中、最期に子供たちの顔が見える。


 ああ、良かった。

 

 子供、が……無事で、良、っ……た。

 

 ……あらたも……明日菜あすなも……。


 だいじょ……う、ぶ……。

 

 

 

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