385話 慣れ
「ふむ、これが辞書か……」
「かなり詳しくまとめられています。実用レベルと言ってもいいでしょう」
佐藤はやや興奮気味で答える。
矢沢は佐藤が持ち帰った、かがみの「辞書」を流し読みしていた。百数十ページにも上る本格的な和訳辞書で、レン帝国の国語であるレンハオ語と日本語に対応している。文章は殴り書きレベルの拙さではあるものの、内容の充実度や正確性は極めて高い。
しかも、単なる辞書というわけではなく、文法のメモ書きまで書き込まれていた。彼らが使う、いわゆる定型句やジョークの類まで。
たった1人の女の子が1年足らずでここまでの辞書を完成させるなど、まさに神業とも言える。偉業とも言うべき素晴らしい努力の成果を目の前に、矢沢は気分が軽く高ぶるのを感じた。佐藤も同じ気分だったのだろう。
予想以上の出来だ。これを確保できたとなれば、やることは1つだ。
「よし、早速資料の分析に取り掛かろう。早川さんに資料のコピーは渡したか?」
「一部の資料は譲渡しています。あの豚舎からは出られないようですが、作業だけならば屋内でも可能ですので」
「よし、こちらも頑張ろう」
矢沢は辞書のコピーを手元に置くと、ラルドの資料やシェイの文書を集め、翻訳作業を開始した。
艦長としての業務だけでなく、艦隊全体の指揮やレン帝国における邦人救出作戦に関連する業務と、寝る暇もないほどに膨大な業務の山に追われることにはなるが、これも全て自分以上に辛い目に遭っている邦人たちを助け出し、日本に帰るための道筋を立てるために他ならないのだから。
*
数日間の作業を経て、ある程度レン帝国の実情が明らかになってきた。
レン帝国は隣国であるシュトラウスやアルトリンデとは極めて険悪な関係となっていて、安全保障のために領土拡張主義を取っている。表向きは貴族という階級が設定されているわけではないものの、大きな資本力を持つ富裕層とその他市民層、そして奴隷と位階が分かれている。
かなり特異なのが皇帝の選出方法で、血脈は全く重視されておらず、4年に1度開催される武芸大会の優勝者が皇帝となる。要は強い者が皇帝になれるという、ある意味ではシンプルな制度となっている。もちろん参加資格はレン帝国で生まれたマオレンに限られるが。
ここで問題となるのが、先の貴族制度だった。裕福であれば皇帝の座を狙うために必要な戦闘訓練を十分に行うことができる。食事に関しても、貴族は自前の食糧生産施設で望むものを生産できるが、庶民は良質な食料品を手に入れることができない。輸入品に関しても良質なものは貴族が抑えている。最初からスタートラインが違うせいで、極めてまれな例外を除けば、皇帝の座は貴族たちが独占している状態だ。
現在の皇帝はヤンというライオン顔の男で、現在のレン帝国では最大の身長と体重を誇る。その巨体に見合わず優れた反応速度と敏捷性で多くの候補者を打ち倒し、20年もの間帝位を譲っていない。まさに最強の皇帝とも言うべき存在となっている。
一方、国そのものの規模はそこまで大きいわけでもない。経済規模は推計でアセシオンの20分の1程度。人口はアセシオンの半分程度といったところだが、経済規模とのギャップを考えると、まだ有力な発展途上国と言える。
軍隊は統一された国軍を保有しているものの、お世辞にも補給など後方支援が整っているとは言い難い。おそらく敵からの略奪を基本としているのだろうが、そのような軍隊で本当に戦えるのかは定かではない。
そして奴隷だが、少なくとも調査を行った限りではマオレンの奴隷が一切存在しない。抑えた売買記録にもなく、隊員たちやラルドの偵察情報、ミルやパロムの話を聞いても存在していないようだ。
奴隷は自らの名前を名乗ることを禁じられ、主人から新たな名前を与えられる。奴隷に与えられる食事は「餌」と表現され、ペットフードにも似た安価な固形食糧が各地で販売されている。
人気の書物には「奴隷のしつけ方講座」なる物も存在し、そこには「奴隷は消耗品であると同時に、屈服されるべき存在である」と書かれている。効果的なしつけ方法と称した虐待手段まで記述されており、この国における「奴隷」とはどのような存在なのかが克明に記されていた。
*
ミルが手に入れた「奴隷のしつけ方講座」を全て翻訳し終えた矢沢は、その本を居間のテーブルに置いてため息をついた。
翻訳支援を行っていた愛崎も浮かない顔をして二の腕に肘をつき、あぁ、と疲れた声を発した。
「艦長、本当にマオレンって奴隷を労働力として見なしているんでしょうかね?」
ふと、愛崎がそんな疑問を口にする。
矢沢にはとてもそう思えない。複数の資料に目を通しても、彼らがそれほど奴隷に温情をかけているようには見えないからだ。
奴隷は労働力であり、補充も自由に利かない貴重なものであるはず。それが消耗品よりひどい扱いを受けているとなれば、考えられることは1つしかない。
「労働力には使えるだろうが、それが主目的ではないのだろう。奴隷を使う主な目的は、種族差別と虐待で優越感を得ることにあると見ている」
「ほんと、そうとしか思えませんよ。はぁ、イカれてる……」
愛崎は両手で顔を覆うと、ソファに深くもたれかかって深く息をついた。
価値ある労働力ではなく、ただ主人たちの快楽に変換するための道具。それがレン帝国における奴隷の位置づけだろう。
経済活動を見ても、奴隷がそれに寄与しているというデータは示されていない。むしろ、この国の発展を阻害する要因でさえある。
そこまでして奴隷を無碍に扱うことは、この国における「文化」と言ってもいいのだろう。
「決して容認できるものではない。早く邦人を解放せねばな……」
「でも艦長、オレ思うんです。こうやって資料を眺めていても、何か実感が湧いてこないっていうか。映像を見せられたわけでもないし、ただ書いてあるだけみたいな」
「ああ、私もわかる。実際に現場を見たわけではないからな」
愛崎の煮え切らない言葉に、矢沢も大きく頷いて同意する。
佐藤と環は早川親子が虐待される様を目撃してしまったようだが、矢沢と愛崎はその場面を見ていない。映像があると言っていたが、そのチェックもまだだ。
「ならば、文章で慣れておくことが重要なのだろうな」
「慣れ……ですか」
「そうだ。これがこの国での「普通」だ。その場面をセンセーショナルに捉えてもしょうがない。ただ事実だけを捉え、それに適切な対処を行う。私たちはそうすべきだと考えている」
「……なんか、やな話ですね」
「嫌な話だろうが、いずれ向き合わねばならない。その時に全てを知って苦しみ、誤った判断を下すよりは、今ここで「そういうものだ」と片付けておく方がずっといい」
もはや矢沢の方さえ見ない愛崎に対し、矢沢は淡々と語るだけだった。
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