番外編 怨念の足枷・その7

 集められたアンケートを見て、矢沢は愕然としていた。


 セクハラ被害が120件以上、暴力被害も20件はあり、更には違法な賭博の報告が7件、その他金銭トラブルも12件が確認された。もちろん、これらは全てカウセリングで報告されていなかった事例で、半数が勝浜と桐生絡みの案件でもある。


 逆に言えば、彼らが絡んでいない案件も半数あるということであり、これで注意処分や解任といった処分を下すことになる者が複数名いるということでもある。


 なぜ彼らが黙っていたのか、ということに関しては、艦は日本に帰れる見通しが立たない状態であるため、外部に助けを求められないといった理由が主に挙げられていた。矢沢も音声や映像を証拠として残している者に詳しい聞き込みを行ったが、やはり自衛官の階級が問題にもなっている。この閉鎖された環境では、自衛官の階級は指揮系統としての機能を外れ、人間的な階級制度の側面が強くなっていることも確認できた。


 もはや艦内の問題というより、環境の問題が大きい。


 やはり、邦人を救出しながら異世界の情報を集めていくより、早急にダイモンへ喧嘩を売り、象限儀を手に入れる方が確実なのだろうか。


 このままでは、いずれ艦自体が機能不全になる恐れもある。何としてもそれを避けるためにも、矢沢は決断を迫られることになった。


 ダリアまで200海里のエリアに近づいたところで、矢沢は再び全ての乗組員を飛行甲板に集め、彼らの前で注意喚起を行うことにした。


 乗組員の士気は低く、空気も重い。背後に見える朝日は輝かしく護衛艦あおばを照らしているものの、今ではその光も空しいだけだ。


「諸君、4日前に西原1士が自殺したことは誰もが承知の通りだと思う。この問題は決して彼らだけでの問題ではなく、この艦自体の問題だと私は捉えている。これは一部の者が国家や国民に奉仕することを忘れ、身勝手を優先したことに留まるものではない。曹士の協調性が艦内の空気を保てないほどに欠如していたこと、幹部の監督不行届きと曹士の協調姿勢の醸成を怠ったこと、そして、その原因を作った私の判断不足と指導力不足によるものだと考えている。そこで、我々幹部は決して努力を怠らず、君たちが安心して働ける職場の提供を約束する。君たちも日本へ帰るため、邦人を助けるため、業務に邁進してほしい。一人一人が努力すれば、皆が日本に帰れる。それを覚えておいてほしい」


 矢沢はそれだけ言うと、解散の指示を出す。


 隊員たちがそれぞれの持ち場や私室に帰っていく中、矢沢や幹部たちを見ていく者たちも少なくない。


 最良には程遠いが、これが最善だと矢沢は認識している。


 自衛隊に軍法会議がない以上、艦に属する警務官による事件の捜査はできるものの、人員の逮捕や起訴はできない。できるのは、映像や衣服の繊維など、明白な物的証拠や目撃証言がある事件の加害者に対し、待機命令という事実上の処分を下すことだけだ。おまけに、この措置さえも推定無罪の原則から外れた不当な人事に他ならない。


 乗組員のほぼ全員が艦内へ戻った後の飛行甲板には、矢沢とラナーだけが取り残されていた。茫然と朝日に目を奪われている矢沢に対し、ラナーは厳しい目を向ける。


「ねえ、こんな雑な対応でいいの? これが軍隊のやり方?」

「断言するが、全くもって違う。自衛隊どころか、まともな組織の在り方でさえない。まだ小学校の方がマシだ。それでもなお、これが最善の策なんだ」


 矢沢は両手の握りこぶしに力を込めるも、その怒りのやり場はどこにもなく、ただ絶望感に打ちひしがれながら力を抜くしかなかった。


 だが、ラナーには聞いてもらいたい。軍隊の指揮官を経験しているラナーにならわかると、根拠のない期待感を抱きながら、矢沢は力なく口を開いた。


「この艦は遭難船だ。司令部どころか、本国にいる誰にも存在を認識されていないこの艦は、軍隊の一ユニットや、自衛隊を構成する組織としては完全に死んでいる。この艦だけでは何もできない。法律の曲解や屁理屈をつけ、時には違反まで犯して何とか存続させているだけの、ただのゾンビでしかない。だからこそ、こうやって誰もが腐っていく。この艦には、この艦が従うべき司令部と、帰るべき国が必要だ」

「……ま、そうよね。部隊は従うべき上位組織が必要だもの。けど、それじゃダメなんじゃない?」

「というと?」


 ラナーは格納庫のシャッターに背を預け、腕を組んで矢沢の目をじっと見据える。


「法律違反? 上等じゃない。そのニホンっていう国と一切連絡が途絶えていて、どうしても帰らないといけないなら、どんな手を使ってでも目的を達成すべきじゃないかしら」

「そういうわけにはいくまい。私たちは自衛隊だ。その認識があるからこそ、この艦は今も浮いていられる」

「あたしは違うと思うけどな。みんな同じなのよ。帰りたいとか、誰かを助けたいっていうのは。法律とか組織の実態より、みんなの気持ちで艦が動いてるんじゃないかって、あたしはそう思ってる。だって、軍隊は人間がいてこそ成り立つんだもの。ただ組織に固執するだけなんて、見ていて哀れだわ」

「…………」


 ラナーの棘のように厳しい言葉に、矢沢は返す言葉もすぐに浮かばず押し黙るばかりだった。


 組織に属する人間が「その組織に属している」という認識で1つの組織が成り立つのではなく、そこに属する人間が「何を成したいか」という気持ちで1つの組織が成り立つ。それがラナーの考えらしい。


 だとすれば、矢沢がやってきた組織維持の方針とはそぐわないものになってしまっている可能性が高い。


 確かに、日本と全く連絡が取れない今の状況で、普段と同じ常識が通用するわけがない。


 ならば、その組織の在り方も変わっていくべきではないのか。そうラナーは言いたいらしい。


 日本と連絡がつかない。つまり、何をやっても現在進行形で咎められることはない。それこそ、自分たちが海賊として活動しても、日本は処罰のしようがない。帰ってからのことは、矢沢が全ての責任を負えばいい。


 ある意味では邪な考え。だが、この局面で必要とされているのは、その決断なのかもしれない。


 ラナーは国家という巨大な組織の在り方に異を唱え、それを命がけで改革した。その考えの根底にあるのが、さっきの言葉に違いない。


 だとすれば、アモイに続き、この艦自体も変わらなければならないのかもしれない。


「……わかった。ラナー、君がいてくれてよかった」

「お安い御用よ。お代はそっちの美味しいお酒でね?」


 矢沢が頭を下げて感謝の意を示すと、ラナーは持っているグラスを揺らすような仕草をする。


「向こうに着いたら幾らでも飲むといい」

「今じゃないの?」

「この艦は禁酒だ。君も仲間ならば遵守するんだ」

「はぁ、今からでも出て行こうかしら」


 ラナーは膨れて格納庫脇の扉から艦内へと消えていった。


 だが、矢沢はしっかりと彼女の真意を読み取っていた。さっきのはただの冗談、軽口の類でしかない。ラナーは矢沢を元気づけてくれたのだ。


 そうであれば、努力しない手はない。矢沢は異世界の潮風を深く吸い込むと、一気に息を吐き出して心を落ち着けた。

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